一文のための話

真和里

 右手に掴んだスマホのロック画面を見る。現在8時20分。

 やばい、ギリギリだ。

 今日は余裕をもって起きれたのに。メイクだって髪のセットだって余裕で終わってたのに、遅刻だ。

 全部SNSアプリを開いてしまったせいだ。

昨日はいつもより長めに入ったバイトでくたくたになって帰ってきたから、推しているインフルエンサーが昨日の夕方アップしていた新着動画をチェックできていなかった。

 目的の動画を見終わって時間を確認したら、あと少しだけ時間に余裕があったから調子に乗って過去の投稿までさかのぼって観ていた。

お母さんに、まだゆっくりしていていいのと言われて時間に気づいたときにはもう遅かった。

 急いで家から飛び出して、いま最寄りの駅に到着したところだ。

 改札の向こう側からは、電車から降りてきたばかりの社会人や制服を着た学生たちがゾロゾロと歩いてくる。彼らを避けて改札の光っている部分にスマホを近づけると、ピッという音をたてて目の前の小さな扉が左右に開いた。

 さらに足に力を込めて駅構内を走る。

 トゥルトゥルトゥル。電車の扉が閉まることを知らせる警告音がホームに響き渡る。

 ホームへ上る階段の途中で、視界の隅に電車の上をとらえた。

「ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください」

 駅員さんのお願いを無視して、閉まり始めたドアの間に滑り込む。

 ギリギリセーフ。

 駆け込み乗車なんて通勤ラッシュの時間帯には別に珍しくもないみたいで、一人二人以外に私に注目している人はいなかった。

 ハァ、ハァ、ハァ。

 今出せる全力で走ったので、肩で息をしている。

 ハァ、ハァ、ハァァ、ハァァ、フ―ッハァァ。

 深く呼吸をして息を整える。

 リュックの横ポケットから小さな手鏡を取り出して、走ったときに乱れた髪を手櫛で整え、メイクが崩れていないかをチェックする。

 よし、完璧。

 スマホを見ると時刻は8時22分。家の最寄りの駅から一つ乗り換えをして、何もなければ約34分で大学の最寄り駅に着く、はず。

 通勤通学時間帯の電車にはそこそこ人がいて、座席は満席だったから仕方なく扉横に身を預けた。

 もう家でメールチェックもSNSチェックも天気予報もチェックしてスマホの通知は全部確認済み。またスマホを取り出すのもなんか億劫で、代わりにたまたま視界に入ってきた自分の髪の毛の一束を手に取って人差し指に絡めた。

 大学に進学する際に大学デビューと称した勢いで髪を茶色の染めた。私は髪色が明るくなったことで、鏡で見る自分の顔が明るく見えてこの色が気に入っていた。

 小学生の頃に友達から髪長いほうが絶対似合うよと言われてから伸ばし続けた髪は胸の下にまで届くロングヘア―で、毎朝ヘアーアイロンで毛先をカールさせてスプレーで固めている。

毛先を指の腹で強めに掴むとクシュッと軽い音を立てた。

 無心で髪の毛をクルクルさせながら遊んでいると、電車がホームに入って止まった。電光掲示板を見ると乗り換え駅だったので、電車から降りた。あと一本電車に乗れば大学に着く。

 幸いにも乗り換え電車も遅延がなく、時間通りに大学最寄り駅のホームへ滑り込んだ。

 電車の扉が開くと同時に車両から飛び出す。冷房の効いた空間との差でむわっと湿気を感じた。

 いつもの時間帯ならもっと学生がいっぱいいるのに、今は閑散としていた。

何人か同じように遅刻しそうな男子がいた。彼らは電車から降りたと同時に改札方面にホームを駆け出した。私も改札へ向かって走った。

 ピッ。スマホを改札機にかざして道を開けてもらう。

 改札を抜けてもスピードを失わないように足を前に出した。

 私の通う大学は駅から少し離れていて、普通に歩いたら10分ぐらいかかる。

 駅の改札上に設置されていた大きな時計の時刻は8時54分だった。 私に残った時間は6分弱。走ったら授業開始時刻に間に合うだろうか。

 大学までの道の最後で最大の交差点。スマホを確認すると授業開始まで残り3分。

 こういうときに限って赤信号に引っかかる。イライラしてスマホを見る回数がいつも以上に多くなる。

 早く、早く。

 本音は信号無視して道路を渡りたいけど、目の前の道路は案外車通りが多くて信号を待つしかない。私は信号が早く切り替わることを願うしかなかった。

 右手に握りしめたスマホを見る。現在8時58分。授業開始まで残り2分。

 早く、早く青になって。

 目の前を車が通り過ぎる。左側の頬に触れていた髪がフワッと浮いた。一瞬浮遊した前髪の毛先がフサフサと目の上を軽く叩く。

 

 遅刻しそうと焦っているはずなのに、ふと能天気な感想が頭をよぎった。

 せっかくセットしたのにという気持ちと髪の束の間を通り抜けた風が頬を撫でられるのが心地よく、もっと吹いて願う気持ちの矛盾を覚えながらも、私は私のことなんか眼中にないように颯爽と過ぎ去っていく風を愛おしく感じた。

 乱れた前髪を癖となった手櫛で難なく整える。手鏡を使ってちゃんと整えるのは学校に着いてからにしよう。

 目の前の信号の赤色の点灯が消えたと同時に青緑色の丸が点灯する。

 信号待ちをしていた遅刻しそうな人たち仲間たちは一斉に走って横断歩道を進んだ。

 私も置いて行かれないように走り出す。緩くウェーブを描いた明るい髪が走るたびに揺れた。

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一文のための話 真和里 @Mawari-Hinata

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