後編

 嵐が近づいてきている。空には雲がとぐろを巻いている。歪んだ窓枠から隙間風が吹き込んでランプの灯を揺らし、文字を書く手元で影がぐるぐると回る。私は嘔吐を覚えて立ち上がった。もう何度自問したか分からない。詩人は銃を持った男に出会ったことを、インク職人に言うだろうか。私が彼らの秘密を覗いていると知ったら、どうするだろうか。詩人はまたどこかへ逃亡していくのだろうか。インク職人は怒るだろうか悲しむだろうか、それとも二人でどこかに行ってしまうだろうか。


「ウィジェーヌ、名を立てる機会だ。馬を引け」


 旋風つむじかぜと共に修道院の裏戸を叩いたのはルイだった。今度こそ拒絶してやるつもりだった。私は軍人にはならない。私を蔑むあの男が治める国など、守るつもりはない。ルイは笑った。緋色の衣をはためかせ、風が唸るなか銀のナイフのように双眸が輝く。知らいでか。あれがお前の良心の砦なら、その手で屠れ。善も悪も無い深淵に堕ちてこい。


 ぞっとして振り向くと波立つ木々の向こうから警笛が微かに響いてきた。山狩りだ。


「お前は宮廷の事情に疎かろうが、ラ・ヴォアザンの件はまだ終わっていない」


 黒魔術に通じ、貴族や裕福な商人相手に毒薬や媚薬を売り捌いていたラ・ヴォアザンは火刑に処されたはずだ。母もその顧客で、王の新しい愛妾ラ・ヴァリエール女公を暗殺しようとした嫌疑によって王宮から追放された。我が家が上流階級から爪弾きに遭い、貴族年金も受け取れず没落した“あの事件“であるが、王はあまりの関係者の多さに審問会を閉鎖し、全て打ち切られたのではなかったか。ぎりぎりと脳髄が軋む。俺にもあの血が流れているのだ。神を騙り世界をひれ伏せさせようとした男と、傲慢な媚びを売る悪魔のような女。


「侯爵夫人の次はスペイン王太后だ。ブルボン家とハプスブルグ家を跨ぐ醜聞だな。王は身代パルマコスを探している」


 モンテスパン侯爵夫人の女官が、主人を守るためだか脅されたのか証言したのさ。薬は吟遊詩人から貰ったものだとな。袖にされたものだから腹いせなのかも知らんが。彼奴きゃつはイングランド宮廷から流れてきたのだろう。面白い。ルイの仄暗い笑いを背後に、私は跳び出した。知らせなくては、だがどうして? 己れこそ彼らを掌中で弄んだくせに。彼らを助けて逃してやることはもっと早くにだってできたはずだ。けれど私は放置して、その淫靡な罪を鑑賞し続けた。いや罪なのだろうか。誰の? 何が?


 鶫の森は暗く大風に唸っている。私は這いつくばるように駆けた。足元は沈み込むようで、何度も転ぶ。下草や木の根が絡まって私を逃すまいとする。恐ろしい。この闇に囚われるのは恐ろしい。けれど同時に焼けるように熱く甘美ですらあるのだ。葉擦れに混じって遠くから銃声がする。インク職人の小屋はも抜けのからだ。暗くて目印も距離感も分からず、私は二人がいそうな場所を思い出して闇雲に走った。視界は効かないが、その他の感覚は鋭くなっている。また銃声だ。空が悲鳴を上げるように、激しい雨が降り出した。


 どのくらいさ迷ったか分からない。月も無く星も無く塗り込められた天空と、激しく波立つ木々を叩く雨。押しつぶされそうな闇。身体の境界をも侵す黒、黒、黒。私は木陰にうずくまった。この暗闇の中から一生出られないような気がした。木肌の感触と、水滴の朧ろな影だけが、かろうじて私の人間らしい感情を保ってくれているようだった。ひどく覚醒しているのだが、身体が動かない。瀕死の獣のように吐く息を数えるばかりであったが、風雨の轟音に揺らぎながら、あのうたが聞こえた気がした。


私にシャツをつくっておくれ 一つの縫い目も無いように

それを井戸で洗って 雫は濡れず 雨にもさらさず


1エーカーの土地は 波と砂浜の間

それを角笛で耕して 胡椒を摘んでくれますか


 濡れそぼった修道服をたくし上げ、私は引き寄せられるようにそちらへ向かった。もはや歩いているというより、ぬかるんだ草むらを転がっているようなものだ。


 男は炭焼きのための盛り土を前にして立っていた。雨勢は弱まってきていたが未だベールに覆われたごとく暗い中、男のなめされた骨格から横顔の線まで浮き上がって見えるのはどうしたことだろう、と私はぎくりとした。盛り土から煙と共に仄かな光が漏れている。その煙に、身に覚えのある臭いが混じっていることに気が付いて、私は咄嗟に男へ掴みかかった。


「人を焼いているな?」


 伸びた前髪が濡れて張り付き、私には男の目が抉られたように黒ずんで見えなかった。雨が伝っているのか、泣いているのかも分からない。男はシャツを握った私の手首に、皮膚の硬い指先をかけて容易く引き離すと、地面に引き倒し鳩尾を膝で押さえつけた。


「俺まで追われることはないと、自刃した」


 男の黒い指先が蛇の如く絡みつき、私の耳に呪詛を囁く。俺たちが一体何をしたというのだ、ただ生きていただけなのに。差別から暴力から貧困から戦争から逃れる術も無く、ただ互いが慰めであっただけなのに。お前たちは何故、奪い続けることを許されるのか。お前たちは何故、美しいままでいられるのか。俺たちには何も無い、何をできる力も無い、身体を魂を差し出すことしかできない。


 殴られなぶられ私の思考は混濁し雨に溶けるように霧散していくが、男の言葉は私の身体に刻みつけられた。永遠の黒。喜怒哀楽も純潔も罪悪も無い、あるがままであり、全てを凌駕する虚無。それから目を逸らすために、人は豊かさを求め力を求め或いは法治を求め信仰を求める。だが、真実の強さというものは、または破滅を留める最後の鎖は、その一切の暗黒を呑み下しなお立つものである。




 揺れる日の光を瞼裏に感じて、私は目を覚ました。ベッドの上だが身体中痛くて動けない。ルイが猟犬を使って見つけてくれたのらしい。心底侮蔑した、だが喜悦の混じった視線で見下され、私は仕官することに決めた、とだけ伝えた。私が倒れていたそばの盛り土の中から、真っ黒な遺体が掘り出され、王のもとへ送られたらしい。それが誰なのか、もう誰にも分からない。インク職人の行方は、ようとして知れない。




 夜戦前に話すことでもないが。君は彼と同じ出自であったな。どこか似ている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒澄 田辺すみ @stanabe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画