蜘蛛とメレンゲ

夜市川 鞠

蜘蛛とメレンゲ





 孤独はメレンゲの味がする。あんなに甘くて美味しいのに、口の中で簡単に溶けて消えてしまう。美しい思い出の後味は薄く、私はあの七百三十日が本当は存在しない日々だったのではないかと疑っている。


 昨日、太陽みたいにきらきらだったきみが死んだ。


 ひとが死ぬ物語はおろか、ペットが飼い主の帰りを待ち続け、息絶えるお話さえ読めない私だった。今朝、悪意の無い友人に殺された一ミリにも満たない蟲にさえ、ひそかに手を合わせるほど生に敏感だった私の、大切なきみが死んでしまった。


 「生きる意味を他者に預けてはいけない」


ときみはよく言っていた。私はいつも「生きることをやめること」について考えていて、このまま延命する理由をずっと探していた。

 

 ―――もし「幸せ」だと思うことが出来たなら。私は、生きていける。なんだか、そんな気がしていた。


 けれど、「仕合わせを考えはじめると、不幸になるんだよ」と、きみは言う。どこかの本で読んだのだとか。そして、もっと楽に考えたらいいんだって、教えてくれた。今日一日を楽しく生き延びることだけを考えていたらいいんだよって。そうしたら、ハッピーな日が積み重なって輝かしい未来になるんだって。


 だから、私は、君だけを愛して生きていくって決めたのにな。



◻︎◻︎◻︎



 初夏の匂いがする。窓のあたりに小さな八本脚の侵入者が出口を探して彷徨っていた。

 生まれて初めて食べたメレンゲクッキーは、囓ると、しゃくっとなんともまぬけな音がする。自殺行為とわかっていて、水滴でぼたぼたになったアイスティーで流し込んだ。きみが好きだったリプトンの徳用パックのレモンティー。すっぱくないのに、酸っぱいように感じるのは、きみを思い出すからだろうか。最近はこれしか欲しくない。

 

 きみは、よく私の頭を撫でた。こんな枝毛ばかりの、くせのある長い髪を、いつも綺麗だねって褒めてくれた。ふわふわでかわいいねって。きみの口が発する言葉は私を幸福にしていた。


 私は、きみにもっと褒めて欲しくて、触ってほしくて、大学終わり、ドラッグストアに走って、このお店で一番良い香りのシャンプーをくださいって言ったの。同い年くらいの店員さんは困った顔でおすすめを教えてくれたのね。振り返って考えると、とても馬鹿馬鹿しいけれど、私は今も、その時店員さんが薦めてくれたシャンプーを使っている。きみが、とっても良い香りだねって褒めてくれたから。


 錆びたはさみで自分で切るのをやめて、縮毛矯正や、髪質改善のために美容院でカットしてもらうようになった。私の髪は驚くほどつやつやになって、そんな私を見て、きみはまた、


「出会ったときも可愛かったけど、今はもっとかわいくなったね」


と言った。男の子の知り合いなんてきみ以外にいないような地味な私だったけれど、飽き性でバイトも一日で辞めちゃうような私だけれど、そんな至らない私のことをとても大切に扱ってくれた。


 私は、私のことをひとりの人間として扱ってくれるきみに恋をしていた。


 実際、私は、全然可愛くなんてなかった。だから、きみの隣にいても恥ずかしい女ならないようにしようって決めた。赤ちゃんの頃から何一つ触っていない眉毛を整えるだけでも、私の顔はものすごく凜々しくなった。

 お化粧の勉強を始めて、アイプチやカラコン、マスカラで小さな目を誇張すると、憧れていた女の子少し近づけた気がした。

 似合うと思って、ときみが買ってくれたローズピンクのリップは、出会った当初の私には到底似合わなかっただろうけれど、今やそんな派手な色も似合うまでにメイクの技術が上達していた。



 きみは、最高の恋人だった。私は他の誰のお姫様やアイドルになれなくたってよかった。大学を休んでも、きみとキスをして脚を絡ませるだけできみは悦んでくれたから。私はそれでよかった。いいと思いたかっただけなのかな。


 逢瀬の合間に鳴っていた謎の電話。

〈みき、あかり、ゆな、かおり、しずか、ねね〉

 たまたま見てしまったきみの画面に映るやりとり一覧はメルヘンワールド。


 だれ?って、聞けなかった私が悪かったのかな。それとも、きみはうつつで美少女育成ゲームでもしていたのかな。


 温室の中で、きみにぬくぬくと育てられた私は驚くほどかわいくなったけど、もうきみはいないから、かわいくしたって意味ないじゃん。


 ママが、ホットケーキが焼けたよ、と私の前へ置いた。私は、いらない、と皿ごと投げた。ママの大切なお皿は運良く割れなかったけれど、添えてあった苺ジャムが無残に床に散らばって汚かった。


「自分が肯定できないような自分を他人に肯定してもらおうと思わないことね」


 ママは、呆れかえって私にいう。ママは、パパを捨てたんだって言っていたけど、きみのおかげで随分かわいくなった私は、そんなの、捨てられたひとの負け惜しみだと思っていた。

 パパは現存する最古の写真によるとイケメンだったから、浮気されるような魅力のないママが悪いんだと思っていた。私のママは全然美人じゃなかったし、女らしさを微塵も感じないようなひとだったから。仕事だけが生きがいで、自分しか見えていないみたいなひとだった。


 だけど、これじゃ、私も同じか。結果的に、きみは、私がきみを生きる理由にするのを拒んだ。だから、殺した。私の世界から追放したんだ。


 きみは、私と別の世界で、今、息をしているんだろう。私以外の女の乳を吸って、のうのうと生きているはずだ。次は誰を育成するのかな。〈ねね〉かな。〈しずか〉かな。それとも〈かおり〉ちゃん?

きみの育成ノートに私の名前はまだありますか。


 きみの、子どもの名前を知っている。きみが、本当に愛していたというひとの名前も。


 私じゃないなら、初めから与えないで欲しかった。なんにも持っていない私はきみでしか満たせなくなってしまって、きみがいないとだめになってしまった。


 きみのおかげで、数日で辞めるを繰り返していたバイトも今日で六十五日目になったよ。バイト帰り、きみと愛し合えると思ったらものすごく頑張れたんだよ。きみの綺麗な手でえらいねってやさしく包み込んでほしかった。きみの素敵な声でいつもみたいに名前を呼んで欲しかった。


なのに、なんで、なんで、なんで。


 きみの言っていたとおり、考えすぎず、楽天的に毎日を生きていたら、きみでいっぱい満たしてハッピーになっていたら、七百三十日後にきた未来がこれだよ。







私は、きみの子を妊娠している。







 嬉しいはずの紅い二本線を、きみを縛り付けるための手綱であったはずの手段を、喜べない今日が来てしまったのはなんでだろう。


 きみはよく、好んでひとがたくさん死ぬ小説を読んでいた。きみに貸してもらって、恐ろしくて途中で読むのをやめてしまった本が、きみと会うときに使っていたキティちゃんのかばんに入ったまま、足元に転がっている。


 生まれて初めて馬鹿になったら、本当に馬鹿になってしまった。かわいいだけの、思考を放棄した、馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿。


 泣いても意味はないことは知っている。きみの馬鹿げた遺伝子培養計画に手を貸したのは私だ。それを選んだのは他の誰でもない私だ。自分の行動に責任をもって生きるのが大人なら、誰のせいにもできないって、結構辛いね。大人になんかなりたくなかった。


 ママの言うととおりだ。自分が肯定できない自分を、誰かが肯定してくれるはずがない。


 私は子どものまま。子どもを産む。あの日のママみたいに。


 まだ、好きなのにな。きみも、大好きって言ってくれた。だけど、きみの心にある蜂の巣を埋めるだけの生活を続けていられるほど、私は馬鹿じゃなかったみたいだ。きみのを埋めていたら、いつのまにか私のほうが蜂の巣になってしまった。蜂蜜は、きみ以外いらないのに。


 だんだん、息ができなくなる。苦しくて、咳き込んだ。このまま死んでしまいたい。なかったことにしたい。なかったことにしたくない。きみにもらったたくさんの宝物が、全部ニセモノだったなんて、気付きたくない。馬鹿で、楽天的で、かわいい私のままでいたいよ。毎日がきみに照らされる今日でありたかったよ。


 異変に気付いたママが、慌ててエピペンを私の太ももに刺した。

 八本脚の侵入者は息を切らした私の頭の近くを徘徊する。むしゃくしゃして、傾いた勢いに身を任せ、力のこもっていた拳を勢いよく振り下ろした。

私は今日、生まれて初めて蜘蛛を殺した。ぺしゃんこのお腹から、黄色い液体が出ているのに、まだ生きようとしているのか、脚をぴくぴくさせていてかわいそうだった。







殺せるわけがない。

殺せるわけがなかった。

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