ぴぃともみぁともとれるような愛らしい喃語が響く。

 音のした方向は明らかに目の前の男で、有無を言わせないような微笑みを携えて首を傾げてきた。

「……ねぇ」

「なんだよ」

 目の前の男、浜木綿はなにか文句でもあるのか?と言いたげな挑発的な目をしつつ微笑みをかけらも崩さない。

 いつもいつでもこいつはこうである。もう長い付き合いだからわかりきって諦めている事だが、曲げないと決めたことを貫き通すこの精神は時折酷く不便だなと他人事ながら思う。

 にぃと追い打ちのようにまた鳴き声が聞こえてくる。

 その音の発生源はどう聞いても浜木綿から聞こえたし、更に言うなら腕で不自然な抑え方をしている下腹のあたりから聞こえた。

「………」

「さぁ行くか」

 いつもならばこちらが折れるまでこの笑顔で威圧してくるし、諦めるまで如何に問題がないかを言葉の洪水で殴り掛かってくる。

 当然のように俺が折れることになる。

 だが、今日はそれを通すわけには行かない。

「……今日行く場所は?」

「……………映画館」

「見たい映画があるって言って誘ったのは?」

「俺……はぁわかったよ」

 コミカルに肩をすくめて見せ、片手で薄手のジャンパーのチャックを下ろし、合流してからずっと手と腕で抑えていた下腹辺りからもそもそとソレを取り出した。ぴるぴると震えるそれは子猫だった。

 目は開いているが明らかに小さく毛並みもぱやぱやとしていて、まだ要保護対象と言えるような小さな命だった。

「お前……よく映画館に行こうとしたな」

「……お前と合流前に回収してもらう予定だったんだよ」

 浜木綿はむすっとした拗ねた顔で目を逸らし、子猫の頭を撫でつけた。

 その手はとても優しげで、出来ればその優しさを同行者たる俺にも普段から発揮して欲しい。

 ちらと時計を確認すれば、確かに待ち合わせの時間までにはまだだいぶ余裕がある。

 いつも時間ぴったりに来る浜木綿にしては珍しいと思っていけれど、前の用事があったからかと納得した。

 自分から誘った手前、用事があるから待ってほしいとも一度解散という手立ても取り辛くなり、こいつの性格上引っ込みがつかなくなって何もなかった事にして乗り切ろうとしたのだろうとすぐに理解できた。

「……言えよ。別に怒んないんだから」

「……」

「行くか、じゃないだろ。ここに来るんだろ?待つよ一緒に」

 浜木綿はこくりと一つ頷いてまた手の中の子猫を構い始めた。

 子猫の方も満更ではないのか嫌がることはなく、構う手にしがみついてぱやついた毛の尻尾を元気に振り、うにゃうにゃと遊んでいる。

 ひょいと俺も指を差し出してみれば、それに小さな手をかけてきて引っ張り口元に寄せあぐあぐと食まれる。

 とても好奇心旺盛で勇敢な子猫だ。

「どこで拾ったの」

「ダン箱からにじり出てきた」

「人懐っこいね」

「飼い主が居たんだろうな」

「回収って誰に渡すの。家で飼うの?」

「俺の家は野良猫共の溜まり場だからこんな小さいのは飼えない。従姉妹に預けるから問題ないよ」

「そう」

 最低限のそんな会話のみで、二人して子猫に構う。

 どんなに梟雄な奴でも小さい命、子猫には弱いものだと思う。

 2人して元気いっぱいに手と遊ぶ猫に夢中だった。

 4つの、正確には1つは足場だから3つの手に構われてみゃみゃと遊ぶ子猫と戯れることしばらく。

 すみません、と唐突に真後ろから声をかけられた。

 真剣に子猫に構い過ぎていたので心の底から驚いて体が跳ねる。

 連動して跳ねた構っていた手が子猫に当たる前に即座に叩き落とされ、非難するような呆れたような目を向けられた。

 これは完全に俺が悪いのでその視線を甘んじて受け入れつつ無視して振り返れば、線の細い女性が立っていた。

 耳順だろうか、そのくらいの齢の女性。

 ひょっとしてこの方が子猫を迎えに来た浜木綿の従姉妹の家の人だろうか、と会釈して話しかけようとして。

 その女性はぼんやりとこちらを見て口を開く。

「その子は」

 はくり、と動いた口から聞こえた音ではなかった。

 ひやりと首筋が冷える。後ろから声をかけられたせいで反応してしまった。

 頭の中にどうしようやらしくじったやらという言葉が溢れ埋まり、警告音ががんがんと鳴り響く。

「その子は一番小さかったのです」

 反応した以上、もう無かったことには出来ず声に耳を傾け続ける。

 遮ったり無視した方が経験上酷い目に合うとわかっていたから。

 こちらの焦りとは裏腹に、彼女はゆったりと言葉を紡いでいく。

「沢山いたうちの子の中で、一番小さい子で。なかなか目も開かなくて。ずっとずっと他の子たちがご縁があってつぎつぎ連れられてゆくのに、どうにもこの子はご縁がなくて。体が小さいから声も小さくて、でも寂しがりだから離れなくて。何かあったら怖いからと、潰してしまいそうだと敬遠されて。だからずっとずっと傍にいたのです」

 そこで言葉が切れて、ぼんやりとしていた瞳がかたちをもって、僕ではなく子猫を見る。

「ずっとずっと、傍にいたかったのです」

 徐に持ち上げられた手が、子猫を撫でる。

 子猫はずいぶんと嬉しそうにその手にすり寄り、みぁとひと鳴きした。

 そのぬくもりは初秋の季節の冷えもなんのそのと言えるほどの、命の暖かさだった。

「大きく、なってね」

 眉尻が下がり、口角は上がるのに、何故かとても寂しくて。ぽたりと頬を水滴が伝って落ちていく。

 ぽたぽたと零れる涙は止まらなくて、ずっとこうして幸せに生きていたかったと後悔がわいてくる。

「おい」

 ぐ、と顔にハンカチを押し付けられた。布に水分がしみ込んでじわりと頬全体が濡れたような心地になり、そして。

「………?なんで俺泣いてるの」

「俺が聞きたいんだけど」

 訳が分からなかった。先まで確かにあったモノが何もかもすっぽ抜けた気がした。

 感情がごっそりと抜け落ちるとはこういうことなのかと一人で困惑していれば、浜木綿が何かを言いたげに口を開いてまた閉じている。

 こいつにしては珍しく口籠り、それなりに悩んでいるようだった。

「なに」

「いや、うーん」

 絶対に嫌がると思うんだけどさぁ、と前置きしてからじっとこっちの目を真剣な目で見て頷いた。

「さっきまでお前ダブってたんだよね」

「………」

「なんか、女の人?」

「…………………………いつから」

「その死にそうな顔色やめてくれる?俺がいじめてるみたいなんだけど。お前がなんかにビビッて突然振り返った後くらいかな。その後すぐまたこっち見た時にはダブってた」

 そう言って浜木綿はくるりと視線を1回転させて、納得したようにあぁと声を吐き呆れたような顔を作って見せた。

「なに、お前。また変なのに好かれてたの?ほいほい憑かれすぎじゃんね」

「………」

 ぐうの音も出なかった。

 黙っていると途端に浜木綿の瞳に剣呑な色がちらつき始めて威嚇するような低い声で小さく「まだ、いんの?」と睨み付けてくる。

 いつも世話になっている自覚はあるので、今回はもういないと示すためにすぐに首を振る。

「いない、いない。いないと思うよ………多分」

「………確信持てないなら影響出てもなんだしとりあえず一発ぶん殴っとく?」

 殴れば消えんだろ、と手に持つ子猫に影響が出ないように明らかに殴るではなく蹴るつもりのアップを始めた浜木綿を無理やり押しとどめた。

「問題ないから蹴んないでよ。なんか、すごい悲しくて、胸が張り裂けそう?って感じ?だった気がするんだよね。でも今はなんも。こう、死ぬほど辛い?ってこういう事?って感じだったんだよ、多分。ほんと、もうわけわかんないけど、そんな気がした」

 自分でもふわっとした感覚的な話は説明がし辛くて、ニュアンス的な説明にしかならなかった。

 なんとか蹴られることだけは回避するために口を回した。

 そうしたら浜木綿はゆっくり瞬きを一つして、やはり何か口籠るような態度で何も言わず、最後にそう、とだけ言ったきり黙ってしまった。

「……なんだよ」

「別に……来たから預けて来る」

 問い詰める前に浜木綿は何かを見つけて子猫と一緒にさっさと歩いて行ってしまった。

 その先にいた男の人はキャリーケースを持っていて、何かを一言二言話したのちにその人は浜木綿にお辞儀をした。

 そうしてそこへと子猫が入れられた。なんだかそれが、俺は無性に嬉しかった気がした。

「終わった、映画に行くぞ」

「うん」

「……随分嬉しそうだけど、なに?」

「わかんない。なんでかわかんないけど、嬉しかった。なんでだろう?」

「そう」


 そのまま2人で映画を見て。映画館のすぐ下のゲームセンターでたまたま見つけたあの子猫に似たぬいぐるみを2人して一生懸命になって俺は2匹、浜木綿は1匹だけ取った。

 そのまま俺は寮へ、浜木綿は自宅への帰路の途中に何となく聞いてみる。

「1匹でよかったの?」

「うん」

「1発で取れてたし、はまゆーならもっと取れたと思うのに。もったいない」

「必要以上に荷物増やす必要ないだろ」

「あーまたそうやって冷たい事言う」

 そんな風に2人して手に猫のぬいぐるみを持って歩いていれば、ふと浜木綿が立ち止まる。隣を歩いていたから、俺も立ち止まれば浜木綿は路肩の家を見ていた。随分と年季の入ったその家は、家の中にあったであろう家財道具やら荷物が沢山家の外に積まれていた。

 解体工事前の荷物整理だろう。何故浜木綿がそれを見るのかよくわからなくて、尋ねる。

「……どうしたの?」

「……」

 浜木綿はこちらに応える事なく無言のままその家に近付いて行く。突然の行動に驚いて着いていけば、最初から目的はこれだとばかりに家財の半ばに置かれていたダンボールを開ける。

 そして徐にそこに猫のぬいぐるみを置いた。

「えっ何してるの」

「……別に」

 それだけ言って開いていたダンボールをぱたぱたと閉じてしまう。

 せっかく取ったのになんで?というダンボールと浜木綿を行き来する俺の視線に気が付いたのか、随分と静かな表情で答えてくれた。

「嬉しいったって、寂しいだろうと思っただけだよ」

「???」

 まぁ回答の意味はわからなかったけど。

 浜木綿はダンボールを一瞥して、一言。

「その子を連れてったらいいよ。そうすればあんたも寂しくないでしょ」

「?????」

 やっぱり意味がわからなかった。

 意味を詳しく問おうと口を開きかけて、ダンボールから音がした。アスファルトをダンボールが擦るような音。すぐに振り向けば、ダンボールが少し開いていた。風で開いたのかな?と、ちゃんと閉じるようにダンボールに手を伸ばす。

「……えっ」

 そうして閉じようとして、中が見えた。開けてみて愕然とする。

 たった今浜木綿が入れたあのぬいぐるみが居なかった。

「ね、ねぇ!はまゆー!居ないんだけど!」

「そう」

「何で落ち着いてるの……?」

「……お前が今掴んでるフラップの裏側、見ればわかるんじゃない」

 浜木綿に言われるがままに今掴んでいる部分を捲る。そこには簡素な文字が書いてあった。

『拾ってください。もう育てる人がいません』

「捨てペットダンボール……?」

「……ほら、もう帰るよ。もうすぐ暗くなるでしょ。俺の家に無断外泊するつもり? 置いてくけどいい?」

「ま、待ってよ。今行くから!」

 寮の門限に間に合わなくて無断外泊扱いになれば、母さんに連絡がいく。そうすれば実家に戻されて毎日1時間も早く起きて通学しなければいけなくなる。それは絶対嫌だった。

 考えるのもそこそこに、俺は立ち上がってもう歩き始めている浜木綿の後を追った。



 何故だかやっぱり、嬉しい気がした。










「……ねぇ、俺のねこちゃん2匹いるから1匹分けてあげようか?」

「俺の家野良猫ハウスだってわかってる?」

「本物がいるからぬいぐるみは要らないってこと?」

「気性の荒い野良共のおもちゃになって一瞬で引き千切られるって事だよ」

「……俺の部屋に飾るね」


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