通学路のクロワッサン

さかたいった

甘い香り

 秋菜あきなはずっと気になっていたことがあった。

 それは高校の通学路の途中にある、小さなパン屋さんだ。

 どんなに朝早くても、店の中に美味しそうなパンが並んでいるのがガラス越しに見える。秋菜はその光景を目にするといつも安堵した。高校から帰ってくる夕方には、もうほとんどのパンが売れて無くなっている。

 秋菜はそのパン屋さんに一度も入ったことがなかった。少し早起きすれば、通学の途中でパンを買うことだってできるだろうに。しかし秋菜は時間ぎりぎりまで寝ていたい質だ。時間に追われパン屋さんの横を猛然と走り抜けることが常だった。

 とても気になるお店。ただそれだけで、その関係からずっと進んでいない。


 だがその日秋菜はついに決心した。「ダーー!!」と大声を出してベッドから飛び起き、素早く支度をして普段絶対出ることのない早い時間に家から出たのだ。

 パン屋さんは、通学に使う駅と家の間にある。秋菜は寝ぼけ眼を擦りながら気合いを入れて歩いた。今日の私は誰も止められない。

 パン屋さんに到着したところで、秋菜は足を止めた。外からガラス越しに中を窺う。今日も朝からパンが並んでいた。どのパンにしようか。どれも美味しそうだ。いっそのこと全部。……いやいや、なんて食いしん坊な女子高生なんだと思われてしまう。そもそもそんなお金持ってない。

 秋菜が両手をガラスにあてて壁に張りついたヤモリのような体勢で店の中を覗いていると、歩道を歩く通りすがりの人間に不審な目で見られてしまった。おっと、これじゃ確かに不審者だ。秋菜は四角いドアノブを軽く押す方式の自動ドアを開け、ついにずっと気になっていたパン屋さんに足を踏み入れた。

 すぐにふわっと甘い香りが歓迎してくれた。なんて良い匂いだ。これはきっと、幸せの匂いだ。

 こじんまりとした店内の棚に、パンたちが「わたしを食べて」と言わんばかりの上目遣いでこちらを誘惑している。惣菜パンに、菓子パン。あのチーズがたっぷりのった硬そうなパンも美味しそうだ。

 秋菜が制服姿でじろじろ店内を物色していると、レジの奥にある通路からパンをのせたトレイを持ったエプロン姿の店員が出てきた。秋菜は何気なく目を向ける。その店員と目が合った。

 しばらく時が止まった。いや、掛け時計の秒針は確実に動き続けている。

 店員は若い男だった。二十代半ばぐらいだろうか。背が高くすらっとしている。マスクをして帽子まで被っているが、それでもその美男子ぶりは隠せていない。秋菜はこの小さなパン屋さんはきっと中年の夫婦が経営しているものだと勝手に想像していたが、まさかこんな若くてかっこいい人が出てくるなんて。驚いた。

 店員の男のほうも、こんな朝早くから女子高生が店に入ってくるなんて珍しいのか、目を丸くして秋菜を見ていた。もしかすると店内をじろじろ見て回る秋菜の挙動を不審に思っただけかもしれないが。

「あ、あの、おはようございます」

 秋菜は自分が不審者でないことを示すために、男に挨拶を試みた。

 男はパンのトレイを持ったまま、じっと秋菜を眺めていた。聞こえなかったわけではないと思うが、挨拶を返さない。店員ならば「いらっしゃいませ」の一言ぐらいあってもいいと思うが。

「美味しそうなパンですね」

 秋菜は負けじと男が持っているパンを見て言った。サクサクしそうなクロワッサンだ。焼き立てで、香ばしい匂いが漂っている。

 男は黙って眉間に若干皺を寄せた。少し迷惑そうな表情に見えた。さっさと仕事を遂行したいのだろうか。こっちはせっかく気合いを入れて初めて店に入ったというのに。

 なんだか腹が立ってきた秋菜は、さらに男に詰め寄った。

「そのクロワッサン一つもらっていいですか?」

 男は相変わらず仏頂面のままうんともすんとも言わない。ただ、くいっと首を動かしてある方向を示した。秋菜がそちらを振り返ると、逆さになったトレイの束とトングがあった。それでパンを取れということらしい。手が塞がっているのはわかるが、首で指図されるのは気に入らない。秋菜はすかさずトレイとトングを取って戻ってきた。

「じゃあ一つもらいますね」

 秋菜は男が持っているトレイの上からクロワッサンを一つ取り上げた。そして男に対して悪戯をしたくなったので、トングで掴んだクロワッサンを男の鼻先に持っていった。

「ほらほら、食べたいですか?」

 ザクッ。

 男が持っているトレイからクロワッサンが一つ床に落ちて音を立てた。

「ああ! クロワッサンが!」

「いい。後で拾うから」

 男が初めて声を発し、秋菜は驚いた。トーンは低いが、声までイケメンだ。

「ごめんなさい。私のせいで」

 男は持っているクロワッサンのトレイを持って棚のほうへ移動した。秋菜はそちらについていく。

「手伝いますよ」

 パンを置く棚には横にスライドさせるガラス戸がついていた。秋菜がそれを開けようと手を伸ばすと、トレイを持った男の手に軽く触れた。

 ザクッ。ザクッ。

 トレイから転げ落ちたクロワッサンが二つ床に落下した。

「ああまた!」

 しかしそんなに強く男の手にぶつかったわけではない。ちょんと触れた程度だ。

 男の様子を窺うと、顔が赤くなっていた。怒っているわけではないと思う。もしやこれは。

 男は棚にクロワッサンのトレイを設置し終えると、床に落ちたクロワッサンをさっと拾って店の奥に退去していった。

 秋菜は静かになった店内で、もう一度パンを見て回る。クロワッサンの他に、マヨネーズのついたウィンナーのパンとメロンパンをトレイにのせた。レジのほうに移動する。

「すみませーん。お会計お願いしまーす」

 しばらくすると、先ほどの男が嫌そうな顔をしてやってきた。黙ってパンの値段を計算する。

「私このお店今日初めて来たんです。ずっと気になってたんですけど」

 男はそっぽを向いて早く支払いをしてくれというような顔をしている。

「また、来てもいいですか?」

 男の視線が秋菜を向いた。秋菜は男の胸元にある名札から男の名前を読み取った。

「稲垣さんにまた会いたいんです」

 稲垣の顔がみるみる赤くなっていった。



 翌日、秋菜は再び早起きをしてパン屋さんにやってきた。昨日買ったパンは、昼食用に高校の昼休みに食べるつもりだったのだが、つい食べたくなって一限目の授業後の休み時間には全て食べ尽くしてしまった。

 秋菜が店の中に入ると、エプロン姿のすらっとした稲垣が棚にパンののったトレイを置こうとしているところだった。

「おはようございます」

 秋菜は稲垣に元気よく声をかけた。すると稲垣の体がビクッと震え、トレイからパンが一つこぼれ落ちた。

「ああ! 私のチョココロネが!」

 べつに「私の」ではないのだが。

 稲垣は落ちたチョココロネを拾うと逃げるように店の奥へ去っていった。一言ぐらい声をかけてくれてもいいと思うのだが。

 秋菜は他に誰もいない空間で、良い匂いのするパンたちに囲まれる。ああ幸せ。

 今日も三つのパンを選んでレジに持っていった。

「ごめんくださーい。新聞の勧誘でーす」

 そう声をかけたが、誰も出てくる気配がない。ノリの悪い男だ。

「すみませーん。お会計お願いしまーす」

 そう声をかけると、しばらくしてようやく稲垣が嫌そうな顔を出した。

「お客さんに対してそんなしかっめ面はやめたほうがいいと思いまーす」

「これが真顔だ」

 意外にも稲上は言葉を返してくれた。

「嘘ですよ。もっとにっこりした顔ができるはずです。笑ってください」

「……」

 稲垣は無言でパンの値段の計算を始めてしまった。

「あの、このお店稲垣さんが一人でやってるんですか?」

 秋菜は構わず話しかける。横柄さには友人たちから定評があった。

「オーナーさんがいる。パンを作っているのは全部俺だけど」

「えっ、マジですか?」

 何が気に食わないのか、稲垣は顔をしかめて秋菜を見た。秋菜は単純にすごいと思っただけだが。

「すごいですね。じゃあ、稲垣さんのお嫁さんになったら毎日こんな美味しいパンが食べられるんですか?」

 稲垣が目を見開いて秋菜を凝視し、そしてみるみる顔を赤らめた。

 可愛い! やっぱり思った通り、この人は無骨な恥ずかしがり屋さんなのだ。

「また来ますね」

 支払いを終えてパンを受け取った後、秋菜はそう声をかけた。稲垣は黙ってそっぽを向いただけだが、嫌そうな様子には見えなかった。



 その後も秋菜は高校通学時に毎日のようにパン屋さんに通い詰めた。寝坊をして朝行くのを諦めて放課後に行ってみた時は、ほとんどパンの売れてしまった店内で中年の女性が店番をしていた。あれがオーナーさんなんだろうか。稲垣はもう仕事を終えて帰っているのかもしれない。きっとまだ日も昇らない早朝から仕事を始めているだろうから。

 季節は巡っていき、ある大雨の日。秋菜は朝早くにパン屋さんに入った。入口に設置されている傘立てに傘を置いた。

 こんな大雨でも、店の中に入れば別世界だ。店内は明るく、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

 この日、秋菜はすぐにパンを選ぶ気にはならなかった。黙って立って稲垣が焼き立てのパンを持ってくるのを待った。

 稲垣が焼き立てのクロワッサンを持って奥から出てきた。初めて会ったあの日も、彼はクロワッサンを持っていた。

「おはようございます」

「おはよう」

 二人の関係は挨拶をすればちゃんと挨拶を返してくれるくらいには進んでいた。普通に考えればそれがスタート地点と言えるのだが。

 秋菜は稲垣がパンを棚に置くのを待って、タイミングを窺う。彼はすぐに動揺してパンを落としてしまうから。パンを置いてそそくさと奥に去っていこうとする稲垣に声をかける。

「あの、稲垣さん」

 稲垣が立ち止まった。秋菜は彼の背中に向かって話しかける。

「私、今度の春から上京して都内の大学に通うことになるんです」

 今度の春といっても、来月のことだ。

「そうなると、もうこのお店には通えなくなります」

 稲垣は向こうを向いたまま黙って聞いている。

「私このお店が大好きです。いつも明るくて、良い匂いがして。パンも美味しいし。その、店員さんはちょっとばかり無愛想ですけど」

 稲垣は何も言わない。振り向きもしない。

「ありがとうございました。いつも美味しいパンを食べさせてくれて」

 店内は静かだ。

 雨が地面を打つ音だけが響いている。

 何か言ってよ。

 なんでもいい。

 何か言ってほしい。

 秋菜は稲垣の背中を憎らしく睨んだ。

 いつの間にか、自分の目から涙が流れていることに秋菜は気づいた。

 その時唐突に稲垣がくるっと秋菜のほうを振り向いた。

「来月、新作のパンを作る」

「えっ?」

「そら豆を使った、デニッシュパンだ」

 秋菜はぽかんと稲垣の真顔を見つめた。なぜいきなり新作の宣伝などしてきたのだろう?

 秋菜は一年をかけて、この店のパンは全て制覇した。その秋菜がまだ食べていないパンを出すのだという。

「そのパン、美味しいんですか?」

「俺の作ったパンが美味しくなかった時あったか?」

「ないです」

 秋菜は即答した。その答えは確信できる。

 それで話を終えたつもりなのか、稲垣は背中を向けて去っていこうとする。

「ちょっと、待ってくださいよ。どういうつもりですか?」

 稲垣は秋菜の質問に応じようとしない。

 秋菜は心を決めた。

「わかりました! また、買いに来ますよ。実家に帰った時には必ずこのパン屋さんに寄ります。それでいいですか!?」

 稲垣は店の奥に姿を消した。

「それで、いつか。いつか。あなたのパンを毎日食べられるようになってみせます。あなたのお嫁さんになってみせますから!」

 店の奥のほうからドンガラガッシャンと何かが床に散らばる音が響き渡った。

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通学路のクロワッサン さかたいった @chocoblack

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