大人と子どもの世界の狭間で

「なにコイツ」


 佐藤菜々華は、目の前にいるルイ君を不快なものでも見るような目で見下ろしていた。


 その雰囲気を感じ取ったのかは分からないが、ルイ君が私の側まで駆け寄ってきて、私の手をきゅっと掴む。小さな手が震えているのを私は感じていた。


「私の親戚の子」と言えば、佐藤は興味なさげにふーん、と言って延岡君に目を向けた。


「延岡、また入り口の配置違ってんだけど」


 佐藤は、刺々しい言葉を躊躇なく刺してくる。今日の店内入り口にある商品の配置担当は、延岡君だった。


「ごめん……もう一回やり直すから━━」

「もういい。あたしがやるから。やっぱあんたには無理だったよね」


 佐藤は延岡君の言葉を遮るようにぴしゃりと言い放つ。


 私は唖然とした。どうして間違いを見つけた時に、わざと相手を傷つけるような言葉をかけるのかが、私にはどうしても分からなかった。


 次に佐藤は私を見て嘲るように笑う。


「寺崎もさぁ~休憩中、絵描いてる暇あったら延岡のこと手伝ってやれば良いじゃん」


 しまった。と思った。いつも休憩室の席を経つ時は、佐藤達に見つからないよう必ずトートバッグの中に絵本作りのための創作ノートを隠していたのに、今日はルイ君が突然やって来た事に動揺してしまい、机の上に広げたままになっていた。


 そもそもあんたらが延岡君に仕事押し付けてるのがいけないんでしょうが。と言う言葉を私は飲み込んだ。本当は言い返したかったが、再びトラブルになれば、延岡君にも迷惑がかかる。


「そ、そうだね。ごめんね……」

「ってか、まだ絵本なんか描いてんの?」


 極力気持ちを込めた謝罪の言葉を口にした時、その言葉は私の耳にハッキリと入ってきた。俯きかけた顔を前に戻す。


「先生にちょっと褒められたからって作家なんかなれねぇよ」


 真に受けすぎだろ。と嘲笑しながら佐藤は私達に背を向け、バックヤードに入って行った。



 この女っ━━━



 握り拳に力を入れた瞬間、ルイ君が私をばっと見上げた。延岡君も私を見ていた。


 その時。聞き慣れた声がして私は振り返る。


 道の角のところでクロウさんがこちらを見ていた。


(ル イ を こ っ ち に よ こ せ)


 そんなことを言っていた気がした。ルイ君をこれ以上、この場にいさせる訳にはいかない。私は隙を見てルイ君をクロウさんの元へやる。


 ルイ君がクロウさんの背中に乗り、クロウさんが真っ黒な翼を広げる。黒い霧が空中に舞った次の瞬間、クロウさんは飛び立った。


 *


「クロウどこに行ってたの?」


 民家の上を飛びながら、ルイは黒い背中に聞く。空は曇り空で、今にも雨が降りそうだった。


「あの眼鏡のヤツが扉の隙間から、俺たちを見てただろ? あの時、驚き過ぎて飛び上がっちまって、戻るに戻れなかったから、離れた所でお前らの様子見てたんだよ」


 クロウが苦笑する。


「眼鏡のヤツとお前らが話してたとき、最後に扉から出てきたヤツいただろ? あいつと何かあったのか?」


 距離があったため、話の内容まではクロウは分からなかったようだ。


「すごく恐い人だった……。思い出すと胸の辺りがね、今でもチクチクするの……」


 ルイはそう言いながら、黒い羽毛に顔を埋める。


「……そうか」


 クロウはそれ以上深く聞かなかった。


「それと、オネーサン様子が変だった」


 ぽつりと呟くようにルイが言うので、どうしたかとクロウが聞く。


「口ではごめんね……って言って落ち込んでたのに、すごく怒ってる感じがしたんだ」


 何でだろう?と首を傾げるルイにクロウも同意する。


「それは俺にも分からねぇな」


 クロウは遠くに目を向ける。視線の先に、自分達の住むアパートが見えた。




 *


 ルイ君がアルバイト先に遊びに来た日の午後は、散々だった。


 まるで昼のイライラを発散させるかの如く、佐藤は私たちに嫌がらせをしてきた。商品の配置が違う。仕事が遅い。言っても分かんないか。刺々しい言葉が心に刺さり、胸の辺りがずんと重くなる。


 このバイトを始めてから分かった事だが、佐藤達は私たちだけでなく、他の職員達にもキツい当たり方をしていた。パートさんから聞けば、職員達の間ではこの横暴な行為は長いこと黙認されていると言っていた。本人もお客さんの前ではやらず、バックヤードや客がいなくなったタイミングでチクチク攻撃するのが、また腹が立つ訳で。


 佐藤と仲が良いバイトの先輩である小倉さんも同様だった。



 この状況どうにかならないものか。だから、夕方のピークが過ぎた頃、仕事終わりの時に相談があると言って店長をこっそり裏に呼んだのだ。



 もう我慢の限界だった。



「店長。佐藤さんと小倉さんのアレ、どうにかならないんですか……?」


 誰もいない休憩室。店長と向かい合い、私は意を決して口を開いた。店長の田口さんは五十代の男性。基本的に物腰が柔らかいので何かと相談はしやすかった。


「アレって?」店長は不思議そうにこちらを見る。


「職員達に対するキツい言動や態度ですよ。延岡君が特に酷い嫌がらせ受けてるんです。パートの人達もみんなビクビク怯えながら、彼女達に接してるんですよ。こんなのおかしくないですか?」


 こんな世界は正しくない。だから、あいつらは上の者から厳しい注意を受けるべきだ。そうすれば少しは大人しくなるだろう。


 私のほんの少しの期待は、一瞬にして砕け散ることになる。店長から返ってきた言葉は意外なものだったからだ。


「じゃあ、そんなに嫌なら寺崎さん。君がここを辞めるかい?」

「どうしてっ……そうなるんですか」

「寺崎さん。佐藤さんや延岡君から聞いたけど、小学校や中学校の時に平和を守るために活躍してたそうじゃないか」


 店長は短いため息をついて、腰に手を当てた。「活躍」と言う言葉に僅かに刺を感じたが私は何も言わなかった。


「だって、当たり前じゃないですか。普通に生活しているだけで何もしていないのに、理不尽にいじめられるのはおかしいですよ」


 私は俯いて、言葉を落とすように言う。両脇にある手を固く握った。


「うーん、でも難しいんだよね。佐藤さん達ここ長いし仕事出来るから、お店の大事な部分も任せちゃってるし抜けると大変なんだよ。学生時代に、いじめられっこに手を差し伸べて、いじめっこから守って、って。それ自体は素晴らしいことだったと思うよ」

「でも精神削って、怯えながら働くのはおかしいですよ━━」

「寺崎さん!」


 苛立ちを含んだ店長の大きな声に、私はビクッと肩が跳ねた。


「それが通用していたのはね。そこが「学校」だったからだよ。でも、ここは違う。ここは「社会」なんだよ。僕は先生じゃなく雇用主で、君は生徒じゃなく社員だ。綺麗ごとだけではやっていけないんだよ」


 指を指しながら、店長が静かな怒りを露にする。店長の怒っている姿を今日、初めて見た。普段温厚な人が怒る姿を目の当たりにしたショックと、その矛先が少なからず自分は良い子であると思っていた自分に向けられた事実へのショックが同時にあった。全ての音が遠くで鳴っているように感じる。その後、店長が何か言ってから休憩室から出ていったが、私はその場で呆然と立ち尽くしている事しか出来なかった。





 *


 家に帰る頃には、心身ともに疲弊していた。



「あっおい聞いたぞ、ルイのやつおばちゃん相手にオネーサンって呼んでたんだってな?」


 部屋に入るなり、クロウさんの笑い声が聞こえた。私はルイ君とクロウさんを見ることなく、無言でトートバッグを床に置く。正確に言えば、二人と顔を合わせることが出来なかった。


「ごめんな俺が、変な教え方したせいで」

「もうクロウちゃんと謝ってよ。ぼく、間違えて話しかけちゃって怖かったんだから」


 はは、と笑うクロウさんの声と、文句を言うルイ君の声が聞こえる。


 おい、どうしたんだよ?と言うクロウさんの声を背中に聞きながら、私は逃げるようにお風呂場に向かった。




 ブラシを出して洗剤を付けて浴槽を力一杯ゴシゴシ洗う。けど、やがて力が入らなくなり手が止まる。袖口で両目の涙を拭った。お湯を溜めながら、揺らぐ水面を見つめていた。透明だった水面が再びじわりと滲み、水滴がぽちゃんとお湯の中に落ちる音が聞こえる。鼻の奥がツンとした。


 何が社会だ。クソ、クソ……。


 その場で力なくしゃがみ、袖口でまた静かに目元を拭った。


 クソ………くそったれ………。



 オネーサン……と後ろから、ルイ君の小さな声がした。空気読まずに話し掛けてごめんな、とクロウさんの声もする。涙を拭いながら二人にごめんね、と私は謝る。


「すぐご飯にするから」


 私の言葉にルイ君は何も返さなかった。


「わっどうしたの?」


 私は驚いて声を上げた。ルイ君が無言で私の真横に座ったのだ。彼は膝の辺りで握り締めていた私の手を、小さな手で優しく握った。クロウさんもルイ君とは反対側に来て、ぴったりと寄り添う。柔らかな黒の羽毛がふわふわしていた。二つの温かいものを感じながら、私は二人を見る。


「オネーサン……すごく悲しい時はね、誰かとこうしてると温かくて安心するんだよ」


 ルイ君はこちらを見ることなく、前を向いていたがその瞳は虚げだった。その時一瞬、雨が降る寒空の下。空を見上げながら、屋根のある場所で寄り添うルイ君とクロウさんの姿が頭の中に浮かんだ。


「ありがとう、二人とも……」


 いつの間にか降りだしていた雨音を聞きながら、私たちは肩を寄せ合う。じんわりとした温かいものが、心の中に広がっていくのを感じた。









「ねぇオネーサン聞きたいことがあるんだけど」


 お風呂から上がったルイ君の頭を、タオルでわしゃわしゃ拭いていた時だった。良いよ。何?と聞くとルイ君は真っ直ぐ私を見た。


「どうしてこの世界には、たくさん名前があるの?」

「えっ何でそんなこと?」


 突然、綺麗な瞳を向けられたのと唐突な質問に驚いて、咄嗟にどうしてと聞き返してしまった。すると、えっとね……とルイ君は言葉を拾うようにゆっくり話し出した。


「僕「ルイ」って名前の前は付喪神って呼ばれててね。初めは……それが僕の名前かと思ってたんだけど……。他にも僕と同じ名前で呼ばれてる付喪神もたくさんいて、こっちに来て沢山の名前を知ってから、あれは僕だけの名前じゃなかったんだなぁって思って寂しかったんだ」


 前にいた世界の話と、自分の話もしてくれるなんて意外だった。そう言えば、バタバタしていたせいで、器の事やルイ君が探していると言う主について、まだゆっくり話を聞いていなかった。


「そうだったんだね」と私は頷いて、ルイ君の次の言葉を待つ。クロウさんは、後ろのベッドにいるけれど、随分静かだった。


「だから、今の「ルイ」って名前は好きだし、あの時より安心するんだ。でもちょっと気になったことがあって……」

「こっちでは、オネーサン、オニーサン、オバチャンとかって名前があるけど、それは本当の名前じゃないんだよね?」


 私は頷く。


「ねぇ、オネーサンも本当は「オネーサン」って名前じゃないんだよね? 本当は何ていう名前なの?」

「私の名前は「てらさき ゆずは」って言うんだよ」

「てらさき……ゆずは……?」


 私を見上げるルイ君の顔が僅かに固まった。宝石のような翡翠の瞳が、僅かに見開く。


「えっそんな変な名前だったかな?」


 聞けばルイ君はううん、と首を横に振った。


「良い名前だなって思っただけ」






 ベッドボードにある小さなオレンジの明かりを付けてルイ君をそこに寝かせる。


 私はベッドの下に買ってきた布団を敷いて、そこに入る。


 クロウさんは部屋の隅で、掛け布団を敷いた上で、既に寝る体制に入っていた。何もないよりはあった方が良いと思い、羽織る用に軽い毛布を掛けようとしたら、別に平気だとやんわり断られた。


 クロウさんが目をつぶると、本当に黒い大きな固まりにしか見えなくて、私とルイ君は顔を見合わせ、小さく笑ったのだ。



 静かになったと思ったら、ベッドの上からルイ君が小声で話し掛けて来た。


「ねぇオネーサン」

「なあに?」

「オネーサンのこと「ユズハ」って呼んでも良い?」


 見た目が小学生の彼に、呼び捨てで呼びたいと言われて一瞬驚いたが、このままずっとオネーサンと呼ばれ続けるのも距離を感じて嫌だな、と思った私は、素直に良いよと言った。


「ユズハって名前は誰が決めたの? 」

「私を産んだお母さんだよ。ルイ君を生んでくれた主っていうのと似てるかな」


「そうなんだ 」と言うルイ君に私はそうだよ、と答える。


「ユズハのオカーサンは今どこにいるの? 」

「こことは違う所にいるよ。前は私と一緒に住んでたけど、今は別々の場所で暮らしてるの」

「僕のオカーサンはどこにいるのかなぁ」


 ルイ君がぽつりと呟くように言うので、私は少し黙った。恐らく自分を生みだした主の事を指しているのだろう。そういう意味では母と呼べるのかもしれない。


「うん……きっといるよ。明日は私、学校お休みだから、みんなでルイ君のお母さん探そうか」


 私は起き上がって、彼の頭をそっと撫でた。すると、ルイ君はホッとしたように微笑んだ。











 その夜、私は夢を見た。

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名前のない神様 春クジラ @harukujira

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