アリスの眼球

あかいあとり

アリスの眼球

 れんは目玉が好きだった。

 初めて手に入れた目玉は、夕飯に出た魚のものだ。くりくりとした黒目がかわいらしくて、嬉しくなってくり抜いた。食べ物で遊ぶなと家政婦に叱られたので、ひとつは食べて、もう片方はこっそり部屋に持ち帰って飾った。朝も夜も、親が帰ってこない間もずっと、目玉が蓮を見てくれるのが嬉しかった。

 

 味をしめた蓮は、他の食べ物でも同じことをした。

 海老。蟹。貝。海の生き物ばかりを見ていたけれど、中華料理屋で鳥の頭が丸ごと出てきたときには、目を剥いた。

 鳥の白目は黄色かったのだ。

 白と黒だけが目玉ではなく、海の生き物だけが生物ではない。自らの見識の浅さを、蓮は子どもながらにひたすら恥じた。

 兎の赤。エミューのオレンジ。猫の青。世界の眼球は色に溢れていた。

 色だけではなく、瞳孔の形も色々だ。山羊は横長、蛇は縦長。タコは四角で、犬は丸。バリエーション豊かな目玉を知るたび、世界が鮮やかに色付いていくようだった。

 全部集めて並べたい。

 欲望に突き動かされるがまま、蓮は目玉を集めて回った。

 生きた動物の目を抉ると騒がれるので、死骸を狙って、毎日道路の脇を練り歩く。

 一ヶ月と経たないうちに、蓮のコレクションは十個を超えていた。残念ながら、当時は防腐処理を知らなかったので、集めた目玉は長くは持たなかった。悪臭をきっかけに蓮のコレクションを見つけた母は、悲鳴とともに全ての目玉をゴミ箱にぶち込んだ。


 けれども蓮の目玉愛は、そんなことでは挫けない。せっかく集めたコレクションを諦めきれなかった蓮は、夜中にこっそり外に出た。

 潔癖症の母親は、生ゴミを部屋に置かずに外に置く。ポリバケツを開け、いそいそとゴミ袋を漁ると、予想通り、中に目玉が混ざっていた。家の中から言い争う声が聞こえたけれど、手は止めない。何しろこんなところを両親に見つかった日には、また深刻な顔をして、医者に連れて行かれてしまうから。

 幸か不幸か、夜中にゴミ箱を漁り、嬉々として目玉を拾い集める息子の姿を、両親が目にすることはなかった。

 あるいは、できなかったと言うべきか。


 触れてもいない勝手口が、ゆっくりと開く。のそりと出てきた男を見上げて、蓮はぽかんと口を開いた。


「んん? 子どもがいたのか。マズったな……」


 誰だと問うこともできなければ、勝手口から除く両親の死体に、悲鳴を上げることもできなかった。


「……きれい」


 それくらい、その男の目は美しかった。

 中性的な顔立ちと、真っ白な長い髪。その奥に、月明かりの下でも分かるくらい、鮮やかな深い赤色がのぞいていた。瞳孔まで真っ赤に染まった瞳は、白兎の赤い目に似ているけれど、角度によって青にも紫にも色合いを変える。複雑な色合いは、これまでに見たどんな宝石よりも美しい。

 うっかり見惚れていたせいで、知らずと腕の力が緩んでいたらしい。ぽろりと零れ落ちた蓮の目玉コレクションのひとつを、男が訝しげに拾い上げた。


「……んー? 目玉、か?」


 面白がるように、男は手の上の目玉をしげしげと眺める。慌てて蓮は手を伸ばした。


「返して」

「人間の目じゃねえな。何だこれ」

「烏だよ。僕のコレクション」

「コレクションだあ?」


 下品に語尾を跳ね上げた男は、蓮に見せつけるようにぐしゃりと目玉を握り潰す。


「ひどい!」

「ひどくねえ。腐りかけのゴミだろ、こんなもん。一丁前にコレクターぶるなら、ホルマリン漬けにくらいしてから言えよ」

「ホルマリン? それがあったら、崩れない? どうやったら作れるの? 兎のお兄さん」

「俺はアリスだ、バーカ」


 投げ捨てられた目玉の残骸が、ぴちゃりと粘ついた水音を立てる。足元を見れば、真っ赤な血の海が床一面に広がっていた。


「ああ……そういや、お前の親殺したわ。悪いな」


 仕事だから恨むなよ。明日の天気でも話すみたいに、軽い口調でアリスは続けた。


「でさあ、この家には、死体しか残ってもらっちゃ困るわけよ」


 銃口を突きつけ、アリスは笑う。

 悲鳴を上げるべきかと考えて、一秒と立たずに諦めた。どう考えても人が来るより引き鉄を引く方が早いし、今はそれよりよほど大切なことがある。


「僕、ここにいちゃいけないの?」

「その通り」

「分かったよ。でも、父さんと母さんの目玉は持っていってもいい?」

「……何だって?」


 アリスの笑みが不自然に引きつった。どうせ死ぬなら、ダメで元々。蓮は欲望のままに口を開いた。


「僕はお祖父ちゃんと同じ黒い目だけど、母さんの目は青いし、父さんのは赤茶色なんだ。綺麗だから飾っておきたい。僕、くり抜くのは得意だから、すぐできるよ。待たせないから、大丈夫」

「大丈夫って、お前……、え? こいつら、お前の親じゃねえの? 違った?」

「あってるよ」


 ぽかんとしたアリスが銃を下げたのを良いことに、脇から家に入りこんだ蓮は、きょろきょろとスプーンを探してまわった。あれが一番くり抜きやすいのだが、どこに仕舞われているのか分からない。ため息をついた蓮は、しぶしぶアリスの近くに戻ると、彼の手にあるナイフを指差し、問いかけた。


「それ、貸してくれない? 本当はスプーンがいいんだけど、見つからなくて」


 聞こえていないのかと思うほど、アリスは長い間固まっていた。


「アリスさん?」


 どうかしたのかと声を掛ける直前で、アリスは吹き出すように笑い出す。


「ひっ、ひっはは! すげー、イカれてる! ホンモノって本当にいるんだな! こんなガキのくせして、親が死んでも泣きもしねえ!」


 腹を抱えてゲラゲラ笑うアリスを前に、蓮は途方に暮れて立ち尽くす。


「あの……?」

「気に入った。ガキ、一緒に来るか? ホルマリン漬けの作り方、知ってそうなやつ、紹介してやるよ」

「本当? 行く。ありがとう!」


 アリスに借りたナイフで蓮が両親の目玉を抉る間も、血の滴る眼球をうっとり眺める間も、アリスはずっと笑っていた。綺麗な赤い目がこちらを向いているのが嬉しくて、蓮はねだるようにアリスを見上げる。


「アリスさんの目も、きれいだね」

「やらねえぞ」

「死体になったら、もらってもいい?」

「殺害予告か? 百年早えわ、クソガキめ」

「ガキじゃない」


 名前は、と聞かれて高瀬蓮と名乗れば、「生意気だ」とデコピンされた。


「苗字は捨てろ。このまま育ったらお前、サイコパスの犯罪者まっしぐらだ。親が泣くぞ」


 数分前に親を殺した張本人は、臆面もなく言い放つ。


「俺が優しくて良かったな? 俺がお前を、立派な殺し屋にしてやろう」



 アリスは極悪人だった。

 誘拐、拷問、人殺し。男にも女にも姿を変えて、アリスはありとあらゆる犯罪を請け負った。

 悪名高いアリスは、業界一の有名人だ。本名も来歴も本当の年齢も、知ろうとすれば殺される。素行の悪さとは裏腹に、依頼達成率は百パーセント。どんな人間なのかも知らないが、とにかくアリスは強かった。

 アリスが蓮と行動をともにする時間は決して多くはなかったけれど、気まぐれのようにナイフと銃の使い方を蓮に教えては、血反吐が出るまで鍛えてくれた。時には何が入っているかも分からぬ料理を作っては、ふたりで家族の真似事をする日もあった。

 外科医と呼ばれる老人に、ホルマリン漬けの作り方を教わってからは、アリスは蓮を連れ回し、死体の目玉を抉らせるようになった。『アリスの弟子か隠し子か』と好奇の目を向けられることもあったけれど、アリスは全く気にしない。

 蓮の身長がアリスと並ぶころになると、アリスは蓮に本格的に仕事の手伝いをさせるようになった。


「アリスさん。僕、綺麗な目の人以外はあんまり興味がないんだけど」


 ぼやきながら二発使ってターゲットの眉間を撃ち抜くと、アリスは満足げに頷いた。及第点らしい。ほっとしながら、蓮は次弾を装填する。


「働かざる者食うべからずって言うだろ。やりたくないことでも毎日ちゃんとこなしていると、神様はご褒美をくれるもんさ」

「僕たちみたいな殺し屋でも?」

「当然。神様ってのは善にも悪にも平等だ」

「どうだか。そういうアリスさんには、ご褒美が降ってきたこと、あるんですか」

「あったかもなあ。例えば、クソ生意気な、目玉マニアの変なガキとか」


 不意打ちの言葉に、手元が狂う。見当違いの方向に飛んで行った銃弾を見て、何がおかしいのかアリスはゲラゲラと笑い出した。


「かわいいやつだよ。お前は」


 アリスを狙う狙撃手に、慌てて照準を合わせ、撃ち殺す。

 命が掛かった状況でふざけるのはやめてほしい。この人のこういうところばかりは、好きになれなかった。

 自分の命をおもちゃみたいに投げ捨てるその悪癖が、本当に大嫌いだ。



「アリスさん!」


 蓮の二十の誕生日に、アリスは死んだ。眉間に穴を開けて、腹からおびただしい量の血を流して、ゴミみたいに路地裏に落ちていた。

 抱き上げた体は、とっくに冷たくなっていた。

 いつも通りの仕事のはずだった。難しい暗殺業務ではあったけれど、昔のアリスなら、鼻歌混じりにこなせたはずの依頼だった。

 いつも通りでなかったのは、アリスの方だ。

 元々アリスは、死にかけていた。アルビノとして生まれたアリスは、先天的な病を抱えていたのだろう。日に日に薬の量が増え、隠そうにも隠しきれないほど、体が細くなっていた。

 けれども当の本人は、それを決して認めようとはしなかった。心配すれば本気で殴られ、仕事を奪えば半殺しにされた。今回の仕事だって蓮が同行するはずだったのに、気付けば薬を打たれてベッドの中だ。

「舐めんな、クソガキ」と笑い混じりに囁いていったあの声が、アリスの最後の言葉になった。

 元々死ぬつもりだったのかもしれないし、いつも通りに依頼をこなすつもりだったのかもしれない。アリスがどういうつもりでここで死んでいるのかなんて、蓮に分かろうはずもない。


「だからあなたは嫌なんだ」


 ふらりと立ち上がって、振り返りざまに銃を撃つ。うめき声とともに倒れた同業者を見下ろして、蓮は静かに項垂れた。

 本人が死んでいることを除けば、アリスの仕事は完璧だった。

 細々とした後始末を済ませた蓮は、そっとアリスの死体を抱き上げる。虚ろな赤い瞳を見つめながら、蓮は恐る恐るアリスの頬を撫でてみた。


「よりにもよって眉間に弾丸喰らうだなんて、らしくない。情けないなあ」


 笑ってやろうと思ったけれど、蓮の口から出たのは、引きつった空気の音だけだった。


 アリスの死体は、袋に詰めて寝ぐらに持ち帰ることにした。


「百年経ってないけど、いいよね? アリスさんの目、くださいね。ずっと欲しかったんです」


 肩を支えることさえ許さなかった矜持高い男の体に刃を突き立て、その美しい中身を抉り出す。背徳感と興奮で、めまいがした。

 けれど、取り出した眼球を愛でても、瓶詰めにした赤い目を眺めても、蓮の心は満たされない。邪魔な皮を取り去った眼球は美しいはずなのに、あのムカつく笑い顔におさまっていたころの方が、よほど美しくきらめいていたようにさえ思えた。


 アリスの残りは、外科医に渡した。依頼の斡旋と死体の処理は、胡散臭い老人の領分だ。


「アリスは……失敗したのか」

「いいえ? いつも通りに終わりましたよ」

「……なんだと?」


 外科医が訝しげに眉根を寄せる。にこりと笑って、蓮は答えた。


「アリスの依頼達成率は百パーセント。敵は死んで、『アリス』は生きてここにいる。何の問題もないでしょう? お仕事はいつも通り回してください。僕の腕を信じていただけるなら、の話ですけど」


 言葉の意味を確かめるようにゆっくりと瞬きをして、やがて、噛み締めるように外科医は頷いた。


「そうか、そうか……。独り立ちおめでとう、『アリス』」


 お大事に、と囁く外科医に別れを告げて、蓮はひとりぼっちの寝ぐらに戻る。

 寂しいくらいに静かな寝ぐらの中で、蓮はアリスの眼球が入った瓶を腕に抱えて、背を丸めた。


「あなたの名前は、傷つけません。見ていてください、アリスさん。ずっと。そばで」


 冷たいガラスに額を当てる。養父のような師のような人の、触れたこともない体温を夢想しながら、薄く笑って目を閉じた。

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