二、生きづらさの正体

・バランスが崩れると

 自分の世界と外の世界とのバランスが崩れると、人は精神的に辛くなる。そしてそうなると、二つのどちらかのバランスの取り方をする。


 一つは、自分の世界と外の世界とが同一の状態。もう一つは自分の世界と外の世界が心地よくお見合いしている状態(辛くなる前の状態)である。


 特に公的な私に与える影響が、「自分の世界<外の世界」であり、その差が特別に大きい場合、精神的に辛くなる。


 この差が大きい場合、人は二つの方法でこれを乗り切ろうとする。一つは、外の世界に自分の世界を迎合させようとする。もう一つは私的な私を外の世界に出そうとすることだ。


 どちらも私的な私と公的な私のバランスが保たれるのならそれで良い。しかし失敗すると以下のようなことが起きる。


 まずは後者、私的な私を外の世界に出そうとすること。これをして、外の世界に認められ、バランスするのならそれで良い。しかし外の世界に認められなくなると、どちらかの行動をする。一つは、さらに外の世界が自分の世界に従うようにすることである。


 これは自分の思い通りにすること、他者に私の世界を強要することである。さらにこれが行き過ぎると、悲惨な事件が起こる。外の世界は自分ではないため、こうなるのは当然である。


 もう一つは、それを悟って鼻をへし折られ、諦めて前者になる、外の世界に自分の世界を迎合させるのである。


・空虚な器

 外の世界に自分の世界を迎合させるとはどういうことか。それは公的な私を外の世界によってのみで規定し、その公的な私が私的な私を丸め込むことである。


 これは、外の世界と自分の世界とが同一になるようにするのである。そうすることによってバランスを取ろうとする。


 これが成功するとどうなるか。それは空虚な器になる。


 元来その人の人生というのは、その人のものである。しかしその自分の人生が、他者のための人生になる。そしてこの他者のためとは、積極的な他者のためではない。


 積極的な他者のためとは、自らの人生において、自分の意志で、責任で他者に尽くすことである。それに対して消極的な他者のためとは、他人やその場の空気の指示で行う、受身的なものである。


 空虚な器は、この消極的な他者のためをする。これは別に悪いことではない。消極的とはいえ行動として、社会や他者に貢献する。


 しかしこれは、他者や空気などの、その人を従わせるものの人格や思想が秀でていなければならない。空虚な器は自分の世界がないため、自ら善悪の判断をすることができない。空虚な器の行動の本質は、社会全体を豊かにすることではなく、指示するものに従っているだけだからである。


 私個人的には、こういった生き方は否定しない。しかしながら、こういった人が人の上に立つ役には向いていないと思う。



・生きづらさの正体

 外の世界と自分の世界とのバランスが崩れ、外の世界は自分に従わず、自分の世界が外の世界に飲み込まれることもできなかったらどうなるか。


 もう打つ手はない。自分の世界と外の世界のギャップに苦しみ続ける。この差に苦しむのが葛藤である。外の規定する私と本来の私(こうありたい私)との対立である。そしてこれが生きづらさの正体である。


 かつてこれは中年に多かった(と思う)。外の世界である社会に組み込まれていく中年は、特にこの葛藤が激しくなる。そしてそれがうつ病として発症したりする。しかし近年ではこの葛藤、生きづらさ、閉塞感を持つ若者が増えてきている(と最近感じる)。



・責任から逃れたい若者

 現代の若者は公的な私が、外の世界に丸め込まれている。周りの顔色を伺って行動することが多いのである。


 ここでいう若者とは私(22歳)±7歳くらいと思っていただきたい。


 そんな若者を世間は消極的であると言うが、現代の若者にはそもそも積極的にやりたいことがないのである。いや、それだと誤解がある。自分の人生に責任を賭けてやりたいことがないのだ。


 最近の若者にとっては、責任という言葉は重く、圧迫感があり、できればこれから逃れたいものなのだ。ではなぜ、現代の若者がこうなってしまったのだろうか。


 その理由の一つはデフレである。



・デフレーション

 我が国日本は30年以上のデフレを経験している。デフレとはデフレーションの略であり、経済が停滞、収縮していくことである。


 実体経済は生産者がモノ・サービスを作り、消費者が支出しそれを消費し、それが生産者の所得になる。そしてその生産者は所得をもとに消費者として、別の生産者のモノ・サービスに支出し消費する。そして所得を得る。また……。というように循環している。


 簡単にいうと、デフレはこの循環が弱まることだ。そして消費者の消費が減り、生産者の所得が減り、その生産者は消費者としての支出を減らし、別の生産者の所得が減る。また……。という悪循環が起きる。これがデフレスパイラルである。


 私たち若者の親世代は、このデフレの影響を受けてきた。就職が困難であったり、非正規で働かざるを得なかったりした人もいる。


 そしてこのデフレの中で流行ったのが自己責任論である。良いところに就職できなかったら、それは能力が足りないから。非正規で働いているのは、まともに求職活動をしなかったから。努力が足りなかった。だから自己責任でしょ?という論である。


 自己責任論は、個人が努力する推進力になる。しかしながらそれを社会全体に反映すると、強者(経済的にうまくいった人)が弱者(経済的にうまくいかなかった人)を叩く。そして強者が転落すると弱者がそれを喜び、また叩き、別の強者も転落した元強者を叩く。そのようにして人々が分断していく。


 それを経験した親世代。親世代を見ていた祖父母世代は若者にこうアドバイスする。「何かに備えておけ」と。



・「何かに備えておけ」

 一体何に備えよというのか。私は実際に、「ご飯を3食食べれるようにしろ」と言われたことがある。これはこういうメッセージである。


「やりたいことをやるのは結構だが、この先何があるか分からない。そのためまずは食べていくことが大事であり、やりたいことは二の次だ。そうやって過ごしていれば、どこかでうまくいく」

といったものだ。


 若者のやりたいことは、大抵食っていけるか分からないものが多い。いや、現代人は自分の人生に責任を賭けなければ、やりたいことはいくらでもある。しかしながら、デフレや自己責任論の世の中を生きてきた大人たちは、上記のようなことを言うのである。


 別に間違っているわけではない。現代のアドバイスとしては正しいのだろう。実際に日本は長年のデフレにいたし、これからも続いていくかもしれない。備えることを私は否定しない。しかしそれが若者に生きづらさをもたらす。


 若者は、自分より社会を知っている大人たちを信じて、その限られた枠の中で自分のやりたいことを考える。本当に自分のやりたいことをやるには食っていけないため、安定的でかつ親などの大人が言うこと、親が納得することを「やりたい」と言い出す。いや、そうするより他はないと思い込んでしまう。これは私的な私を引っ込めることである。


 この言葉を信じることによって、公的な私は親や大人といった外の世界に侵食され、さらに私的な私もそれに侵される。そして若者は空虚な器になっていく。だから世間には「若者は消極的」と映るのである。


 本当は何かしらの夢、やりたいことがある(あった)のだが、どこかに隠したり、無くしたりしてしまったのだ。



・生きづらさから逃れるには

 外の世界に公的な私を規定され、それによって私的な私を規定してしまうことが空虚な器になることだ。もちろん、空虚な器でも生きることはできる。実際に一つの生き方として存在する。その生き方ができればそれで良いのかもしれない。しかしそれでは良くないから「生きづらさ」を感じるのだ。


 そして自分の世界に籠り、アニメやゲームなどに熱中したり、外の世界に絶望して精神疾患になったり、最悪自死の道を選ぶ。これが現代に起こっていることである。(私はそう思っている。)


 ではどうすればこの生きづらさから逃れることができるか。一つは社会を明るくする、デフレから脱却することである。そしてもう一つは自分を変えることである。


 デフレから脱却するとはどういうことか。指標でいうと、実質GDPが安定的に2%以上上がり、実質賃金も継続的に上がることである。


 日本にはかつて高度経済成長時代、バブル期があった。この時代の若者は、現代の若者よりも未来のことを考えなかった。なぜならばその今がうまくいっているからだ。


 しかしデフレの現代において、今がうまくいっていない。実質GDPはほぼ横ばいで、実質賃金は1996年をピークに下がり続けている。この今において、未来のことを考えなければ生きていけないと感じる。おそらくそうしないと弱者(経済的にうまくいかなかった人)になり、自己責任として強者に叩かれ、悲惨な未来になる(と思われる)。


 だからこそデフレ脱却が必要である。しかしこれには政治の力が必要で、手っ取り早く生きづらさから解放されるものではない。そのためもう一つ、自分を変えるという手段がある。


 人は主観で生きている。ということは「生きづらさを感じる」ことは、主観の中の出来事である。どうすれば自分を変えられるのかはさまざまな方法がある。ネットサーフィンをしていればたくさん見つかる。本屋に入ればそのような本はたくさん並んでいる。それらを読んで行動すれば良い。


 問題は行動できるかどうかである。それが最も困難であろう。ただこれをアドラーに言わせれば、それは勇気の問題である。


 私もいくつか生きづらさから逃れる方法、自分を変える方法を持っている。(書く気が起きれば次回は)それを書いてみようと思う。

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