第30話 金色の光る泡を2

 会長たちがいることも忘れて、俺は孝哉を抱きしめた。


「孝哉、孝哉……」


 この腕の中に孝哉がいる。

 追いかけていた記憶の中だけでも溢れていた愛しさが、肌から伝わるその存在の確実さによって倍増する。


 言葉は出ない。

 会いたかった、触れたかった、その思いが強過ぎて、何から言えばいいのかがわからなかった。ただ、ひたすらにその名前を呟くのが精一杯で、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように何も言えなくなってしまった。


「……隼人さん」


 耳にその声が響いた。俺は音が好きだ。好きな音を出すための努力は惜しまないし、そのために使う時間そのものが生き甲斐だ。そして、今俺を呼ぶ声は、俺があの踊り場で一言で恋に落とされてしまうほどに、好む音をしていた。


「ごめんね」


 でも、この音そのものの魅力が俺にそう思わせているわけではないことも、今はもうわかっている。俺がこの音をこれほどまでに好んでいるのは、それを奏でる体の持ち主が俺を思って愛してくれることを知っているからだ。

 そして、その男と二人で鳴らす音は、何よりも自分を幸せにしてくれると言うことも知っている。そういう、音にまつわるそれ以外の要素の全てが合わさって、全てを愛しく思える。


 その音を奏でるのが新木孝哉だからこそ、俺はこれほどまでに満たされるんだ。


「ごめんね、こんな痩せちゃって……」


 孝哉は俺の肩や腕を触り、今回の件がどれほど俺の体に負担をかけたのかを知ろうとした。手のひらでそれを確かめては、後悔の息を吐く。自分がしてしまったことの残酷さを目の当たりにして、顔色を青く変えていった。


 それを見ていると、この半年間忘れ去っていた自分らしさというものが、まるで当たり前のようにするっと戻ってくる。食事も摂れなくなるほどに衰弱していたくせに、目の前で狼狽える恋人を少しでも安心させてあげたいという気持ちが、ふつふつと湧き上がってきた。


「相手が狂ってたんだ。ああするしかなかったんだろ? 仕方ねーよ。それに……」


 俺は孝哉の右手をとり、その指先を開いて手のひらを確かめた。あの日、俺のタバコで孝哉の手のひらは焼かれた。あの鼻の奥にこびりついて消えない匂いが、その記憶だけは薄れさせてくれなかった。


「お前だって苦しんだんだろ? いなくなってからも、いなくなる前も。俺はそれをどうしてやることも出来なかった」


 右手の中央に、引き攣れたような痕がある。決して綺麗では無いけれど、それはきちんと治ってはいた。それでも、確実に焼かれた痕があり、そこに痛みと苦しみがあったという事実は変わらない。


「こんなことまでさせて……」


 おそらくこれは罰だったんだろう。


 他に手が無かったとはいえ、俺を壊すということを最終的に決めたのは、紛れもなく自分自身なのだと孝哉は思っている。だから、俺だけに痛みを負わせないようにしようとして、自分にも罰を与えた。それがこの傷の理由だったんだろうと、今なら思う。


 あの時俺からタバコを奪い取った後の行動は、何度思い返してみても不自然なものだった。しっかり握り込んで離さなかったのだから、どう考えても意図的に手を焼いたとしか思えない。


 俺を壊すのだから、それと同等の罰を自分に架さなければ気が済まないのに、具体的にそれをどうしようか決めあぐねていた。そんな時に俺が隣でタバコに火をつけてしまった。それを見て、あの小さいながらも凶暴な火の塊で、自分の手を焼こうと考えてしまったんだろう。


 そうすることで手の自由を完全に奪い、自分から歌を取り上げた。火傷という傷と、生きがいを失うという心の傷。大きな罰を二つ背負うことで、俺への贖罪としたかったのだろう。


「ずっと歌ってないんだろう? この手じゃピックも握れないんじゃないのか。そうじゃなくても、俺が一緒にいないと歌えないくせに……」


「うん。歌えなかったね」


 痩せてしまった俺とは対照的に、孝哉はむしろ少し体格が良くなっていた。筋肉量が上がったようで、顔つきもやや精悍になっている。ただ、その体には、その形いっぱいになるほどの後悔の念を詰め込んであるようで、初めて会った日と同じように、今にも消えそうな脆さが滲み出ていた。


「……また死にたくなったのか?」


 キャンディブルーのストレートだった髪が、シルバーブロンドの巻き毛に変わっている。抱きしめた感覚が、これまでよりがっしりしている。


「何度かあったよ。でも、もう大丈夫だから」


 それでも、俺の腕の中にいるのは間違いなく、孝哉だ。唯一無二の声を持ち、俺の感情をかき乱す香りを持っている。

 そして、何よりも孝哉といる時にしか見えないものが見えている。俺にとって孝哉が特別なのだと実感した、あの不思議な現象。体を包み込む、あの金色の光る泡だ。


「俺ね、思い出したんだ。音楽が取り戻せてなかった時でも、唯一生きていこうと思えた瞬間があったってこと。隼人さん、覚えてる? 俺が、生きていくのに十分な理由だって言ったこと。それが何だったのか」


 孝哉は俺の髪を手で梳いた。そして、張り付いていた髪を耳にかけ、涙を手で拭っていく。そういえばハンカチを受け取っていたのに、それをテーブルの上に置いたままにしてしまっていた。


「理由? なんだったっけ」


 キャンディーブルーのニットにしがみついたまま、思い出せないふりをしてみる。でも、本当はその答えはわかっている。ただ、それを即答することで、俺がそのことを覚えていると思われてしまうのが、どうにも恥ずかしかった。


「うん。初めて会った日に救急車乗ったでしょ。足折って。病院についてから、俺が先に降りるときに言ったんだよね」


 そう言われて、今度はようやく思い出したように振る舞う。本当は、一度だって忘れた事はない。それを言われた時、胸が高鳴ったのが忘れられないのだから。今思い返してみると、あの時すでに俺は孝哉を好きになっていたのだろう。そう思わずにいられないくらいに、あの言葉は嬉しかった。


「俺のお世話をするだけで、生きていく理由としては十分って言ってたやつか?」


 そう問いかけると、孝哉は眩しそうに目を細めた。


「うん。だから、それを叶える日が来るまでは、絶対に死んじゃダメだって、必死で自分に言い聞かせながら毎日を過ごしてたよ」


 そう答えると、真っ白な肌をほんのりと赤く染めていった。


 窓の外には、遠くの方に光る電波塔が見える。クリスマスの近づく都会の夜は、そろそろ開けようとしていた。


 俺たちもこの時期は、クリスマス企画の制作準備にあたったり、その配信をしたりと忙しい。それをベストな状態で迎えるために、準備期間として今日から数日休みをもらっている。その一日目がもう始まろうとしていた。


「一番シンプルに考えたんだ。ずっとそうしろって言ってくれてたよね。あの時は無理だったけれど、今ならそれが出来るよ」


 太陽の光が、遠くの空を白く輝かせていく。その明度が増すにつれて、俺の心の靄も薄れていった。孝哉の髪は朝日を受けて輝き、その黒い大きな瞳は、その光を反射して煌めき始めた。


『おはよう、隼人さん』


 そう言って笑っていた時と同じ、俺の好きな朝の笑顔。またそれを見ることが出来て、俺の胸は嬉しさに震えた。


「ねえ、隼人さん。俺ともう一度一緒に暮らしてくれますか? 俺、また隼人さんのお世話してもいいですか?」


 涙が溢れてくる。

 嬉しさが喉に支えて言葉の邪魔をするから、問いかけられているのに、答えることが出来ない。働きの悪い口を諦めて、俺は必死に首を縦に振った。勘違いされないように、はっきりと何度も、強く頷いた。


「良かった。もう嫌われてしまったかと思って、ずっと怖かったんだよ。今日も普通に帰れば良かったんだけど、どうしても怖くて二木さんに相談したんだ。そしたら、今日ディレクションの件で相談するから、そのタイミングで帰って来たらどうかって言われて……」


 孝哉はそう言うと、突然嗚咽を漏らすほどの号泣をし始めた。感情を押し殺しがちな孝哉がこんな姿を見せたのは、これが二度目だ。あの会議室でのパニック発作以来だろう。

 あの時のものは、全てがいいものでは無かった。でも、今の号泣はそれとは対極的にある、安堵の涙だろう。あの仄暗い感情に囚われそうになっている泣き顔とは比べ物にならないくらいに、朝日に照らされて美しく煌めく綺麗な笑顔がそこにあった。


「隣に居られないことが、こんなに苦しいなんて思わなかったよ」


 それから二人で抱き合って、ただひたすらに泣いた。半年分の苦しみを流し切ってしまおうとして、そして、これからの日々を喜んで、ひたすらに、涙を流した。


 遠くの方で、分厚いガラスの嵌め込まれた木製のドアが閉まる音がした。二人分の足音と、車椅子の軋む音を響かせて、三人は新木家を後にする。

 まだ話すことはあっただろう。でも、もう俺たちの心には、冷静に話せるような余裕は残っていなかった。


 それに、おそらくあの話は口実だったはずだ。孝哉が戻って来るのなら、俺にディレクションは必要ない。二人で一緒に歌えるのなら、俺のギターは勝手に感情を表すはずだからだ。少なくとも、仁木さんにはそれはわかっているだろう。


 これから先の仕事のことは、休み明けに考えさせてもらおう。今はとにかく、ようやく取り戻した恋人との時間を大切にしたい。それだけが頭の中を占めていた。


「隼人さん、本当に会いたかったんだよ。もうこのまま会えなくなったらどうしようって、ずっとそればっかり思ってた。やっと会えた……もう離れたくないよ」


「俺も、お前がいない間苦しくて仕方無かった。ギター抱えても、お前がいなくてなんか物足りなくて、それだけで寂しくなるし、お前の声が聞こえないし、部屋の中のお前の香りを感じると辛くて……。でも、今お前がそばにいると、それが全部ひっくり返った。声も香りも幸せしか感じない。俺も、もうお前無しじゃ生きていけねーよ」


 早朝の窓の外には、早くも出勤する人たちの姿が見え始めた。それぞれが生きていくために、これから戦いの場へと向かうのだろう。そして、日が暮れるとまたこの場所へと帰って来る。


「愛してるよ、孝哉」


 俺たちもそうやって生きていく。またいくつかの試練に出会うのかもしれないけれど、その時は二人で乗り越えて行けることを願いながら。


「俺も愛してるよ、隼人さん」


 指先と視線を絡ませ合うと、それはだんだんと見えてくる。引き寄せて抱き合うと、それはお互いの内面を満たしていく。俺とお前だからこそ見えるようになる、あの現象。


「俺ね、今金色の光る泡が見えるよ。足の裏から頭の先まで、それに満たされていくのがわかる。うまく歌えてる時にしか見えなかったのに、隼人さんといる時は何をしてなくても見えるんだよ。すごく生きてるって感じる、幸せだって思う。これって誰でも見えるものなの? 俺しかわかんないのかな」


 孝哉の視線が、まるで夢を見ているようにふわふわと漂っている。今その泡を見て、肌で感じているのだろう。そしてそれは俺にも見える。孝哉の体に触れた時にだけ、共に音を奏でた時にだけ働く、あの共感覚が見せる金色の泡だ。


「実は俺もお前といる時だけ見えるんだよ。お前の歌を初めて聴いた時から見えるようになったんだ。その動きを追ってると、めちゃくちゃ多幸感に包まれていくんだよな」


「そうなの? それすごいね。運命って感じだ」


 孝哉は嬉そうに笑いながら俺の方へと向き直る。俺はその顔へと近づき、そっと唇を寄せた。触れた瞬間に、その泡は背中を駆け巡る。一人ではなく、二人で共に生きているという実感に痺れた。


「そうだな。これからも見せてやるよ。だから、お前も俺に見せてくれよな」


「わかった、約束するよ」


 そう答えた孝哉の笑顔は、久しぶりにみる満開の花のようなエネルギーを放っていた。


 窓の外には、朝焼けの黄金色が広がっていた。二人でそれを見て、「綺麗だね」と呟く。そして、その次に思うことも同じだった。


「いい朝だな。お前、今歌える?」


 俺は孝哉の後ろにまわり、いつものスタイルでギターを弾くように構えた。その形を組み上げた途端に、じゅわっと泡が増える感覚がした。


「いいよ。嬉しい時ほど音の中にいたくなるよね」


「おう。音の中で、金色の泡をもっと継ぎ足そうぜ」


 いつも孝哉の体を抱き寄せている右手で、ビールグラスを傾けるような仕草をしてみる。調子に乗った俺は、手を叩かれながら叱られてしまった。


「もう! ビールじゃないんだから!」


「あ、いいね。ビール飲みたい。久しぶりに飲んじまおうっかなー」


 こんなやりとりが出来ることさえも幸せだと思ってしまい、揶揄いたくて仕方がなくなってしまう。自分の体調が良くないことさえ忘れてしまっていて、ふざけた途端に目が眩んでふらついた。


「ほら、ダメだよ。さっきも倒れそうだったでしょ。俺の部屋行こう。ここじゃギター弾けないから」


 そう言うと、徐にしゃがみ込んだ。どうやら部屋まで俺をおぶって行くつもりらしい。


 その背中を見て、ついさっき仁木さんに要救護者のように運ばれたことを思い出した。いい大人が日に2回もおんぶされるという事実に、おかしくなって笑ってしまった。


「どうかした?」


 俺が突然笑い始めたことで、孝哉は怪訝そうな声を出した。俺はそれに答えず、その背中に飛び乗った。そして、体を預けるとその首元に顔を埋め、胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。


「なんで嗅いでるの」


 犬のように嗅ぎ回る俺のことを、孝哉がケラケラと楽しそうに笑う。この状況に急に胸が詰まり、思わず後ろからぎゅっと抱きしめた。


「どうしたの? 今度は何?」


 ルームシューズが床を擦る音を聞きながら、腕の中の温もりを実感した。俺は今一人じゃない。それを実感する度に体の奥に甘い痛みが生まれる。


「本当に戻ってきたんだな、孝哉」


 頬を擦り付けながら、幻じゃないことを何度も確認する。安心しては不安になる。それを何度も繰り返していた。


「うん。もう離れたりしないからね」


 孝哉の言葉に、思わず鼻の奥が痛んだ。ここにはっきりと存在するのなら、どうしてもはっきりと言っておきたい言葉がある。


「なあ、孝哉」


「んー?」


 それを言うまでは、絶対に泣きたくない。今日思わず何度も泣いたけれど、いつか帰ってきたら絶対に大きな声で言おうと決めていた。その言葉を言う日を、心待ちにしていたんだ。


 何度も呼吸を繰り返し、感情の波が引くのを待った。そして、凪いだ時を見計らって、その言葉を送り出す。


「お、おかえり」


 半年間言えなかった。この言葉が言えるということがどれほど幸せな事なのかということを、ずっと身にしみるように感じていた。やっと言えたという安堵で、すぐに涙が溢れ始めた。


「うん。ただいま。ね、こっち向いて」


 俺は言われるままに顔を上げた。何度も泣いてはそれを拭っていた頬は、少しヒリヒリし始めていた。その頬に、孝哉の唇が触れる。


「泣かないで」


 孝哉の部屋に着き、そのドアを開ける。そして、俺はその背中から降りた。二人で中へ入ると、俺は顔中に降り注ぐ優しいキスの雨を受けながら、後ろ手にドアを閉めた。


(了)

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追いかけて 皆中明 @mimeina

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