第29話 金色の光る泡を1

「君は他人からどう思われようが、あまり気にしないタチらしいね。だから、好意を寄せられていても気が付き難いのだろう? 条野は、君を好いているんだよ。それはいわゆる劣情を含んだものだ。知っていたかい?」


 会長の声は、俺の鈍さに対して呆れるどころかやや哀れみの感情すら込めているような音をしている。曰く、条野は出会った頃から俺のことを好いているのだと言う。しかも、会長自身が、条野が恋に落ちる瞬間を目撃したと言うのだ。


「チルカがスカウトを受けたライブがあっただろう? その前の回のワンマンの時に、私と条野で直接見に行ったんだよ。その時だったね。演奏している君を見て、衝撃的に恋に落ちたんだ。私は隣にいたから、間違い無いよ。完全に心を奪われていて、惚けて君を見ていた。それからずっと思い続けているみたいなんだ。長い片思いだろう? あれでも、色々と君にアプローチしたつもりみたいなんだよ。それなのに、君はこの鈍さだ。振られる事も無く、条野は条野で嫌われていることに気が付かない。そうやって決定的な失恋をすることが出来ないまま、あまりにも焦がれてしまってね。どんどん想いを拗らせて行ったんだ」


 会長はそう言いながら、森村さんに指示を出す。彼は一つ頷くと、直ぐに一つのスマホを持って戻って来た。


「それ……」


「君にこれを見て欲しくて、借りてきたんだよ」


 それは、孝哉のスマホだった。握力の弱い孝哉でも落とさずに通話できるようにと、ケースに指を通すためのリングと手首を固定するためのバンドがつけてある。それをつけたのは俺だ。だから見間違うわけがない。


「孝哉が君の前からいなくなった日は、条野がはっきりと孝哉に戦いを挑んだ日なんだ。それを見て、時間が無い事を悟ったらしい。ほら、これだよ」


 会長はあるメッセージを表示させると、それを俺に見えるようにディスプレイをこちらへと向けてくれた。そこに書いてあった文を見て、俺は戦慄してしまう。


『お前が隣にいると、隼人は歓迎されない』

『早く消えろ』

『隼人を俺に渡せ』

『あいつは俺のものだ』

『どんな手を使ってでも奪うぞ』


「活動休止になる前に別れろ。隼人からバンドを奪うな。あいつは俺が幸せにしてやる……狂ってんのか?」


 それは、紛れもない条野から孝哉へのメッセージだった。その後も延々と数分以内に数十通のメッセージが送られていた。そのほとんどが、俺を性的に褒め称えているものばかりで、読み進めるうちに吐き気がしてきた。嫌悪感が募った後には、右目が酷く痛んだ。痛んだ後には、段々と笑いが込み上げて来た。


「っつはは! あー、笑わせんじゃねーよ。あれだけ色々と俺を苦しめておいて、……好き? バカにすんのもいい加減にしろって話でしょう。これは恋というんですか? 一方的に思い込んで暴走してるだけじゃないですか。確かに異常者だ。こんなやつとはまともに渡り合えるわけがない。そりゃあ森村さんの提案が妥当だって、受け入れるしかないでしょ」


「そうだな」と言いながら会長は項垂れた。それを森村さんが気遣うように見ている。


「あいつをこんな風にしたのは、初期の経営陣だった私たちの責任だろう。会社の恩人である条野は、何をしても許されてしまった。そうやって甘やかされているうちに、なんでも手に入るのが当たり前だと思うようになったらしい。その中で唯一思い通りにならなかったのが、君なんだよ」


 また右目の奥が痛む。ズキズキと拍動に合わせる痛みと、それとは別にずんと何かが居座るような重苦しさも増していく。

 この目が光を失う原因を作った男が、俺を好きだなんて信じられるわけがない。そう思うのもまた事実ではあるけれども、目の前にあるメッセージの狂気性が、条野の好意が本物であったことを、いやでも俺に理解させてしまう。


「でもあいつ、色田と付き合ってましたよね。色田はこのことは……」


 仁木さんが俺の問いに何度か首を縦に振った。そして、苦々しげに寄せた眉根に、さらに深い皺を寄せる。


「実は私にこの事を教えてくれたのは、色田さんなんです。彼はそれをずっとわかっていて、それでも条野さんとお付き合いされていたそうです。条野さんが本当に欲しがっているのは自分では無いとわかっていてもなお、彼のそばにいたかったと言われていました」


「知ってたのか……」


 俺は、数時間前に話した時の色田の顔を思い出していた。八つ当たりした俺を、同情するような目で見ていた。俺はあの時、色田は弱っている俺を見て同情しているのだと思っていた。だから憐れまれることに嫌悪感があった。


 でももしかしたら、あれは条野への同情心だったのかもしれない。報われることのない条野の想い、そして、色田の想いもまた同じだ。

 どれだけ想っても叶わないという悲しい共通項で、あの二人はつながっていたのだろう。そういう繋がりは、一度出来てしまうと壊れにくい。その上、色田は特に人から誤解されやすい。メンバー間ですら、あいつの本心は理解し難かった。孤立しがちなあいつには、こんな狂った男ですら、安らぎになり得てしまったのだろう。


「条野はミュージシャンとしての君に魅力を感じていて、その興奮が性的なものと混同している。どの分野でも一線で活躍した人の中にはそういう類の者は、少なからずいるだろう。それはそれで問題は無いのだが、あいつはその思いを叶えようとしても叶わず、そのストレスを解消するために他人を傷つけすぎている。だから、短期間でもいいから君のその魅力を全て封印させてしまって、条野が君への興味を失うように仕向けようと森村は考えたんだよ」


「そうなんですか……」


 言いようのない思いが体に澱を作る。条野の狂気じみた愛情も、それを許していた色田のことも、そんな条野を封じようとした森村さんのアイデアも、全てに嫌悪感がついてまわる。それでも、その全てになぜか理解出来るものがあるような気がして、完全に否定する事が出来ずにいた。


「納得はいきませんけれど、少し理解は出来ました。それで、俺はあなた方の思惑通りに見事にぶっ壊れましたけれど、ちゃんと成功しましたか? 条野の俺への興味は削がれたんでしょうか」


 そんなに簡単な話では無いだろう。あれほどの思いをしたところで、長年変えられなかったことがそう簡単に解決するとは思えなかった。しかし、俺のその予想は会長の返答に簡単に覆されてしまう。


「ああ、成功したんだよ。今は君のことなどカケラも頭に無いようだよ。よく思い出して見るといい。君がミュージシャンを辞めていた期間、条野から連絡はあったかい? あいつが本当に君を愛しているのなら、弱っている時こそ支えようとするはずだろう? でも、そうでは無いんだよ。あいつが興味を持つのは、輝いているミュージシャンだけだからね。機械的な演奏しかしなくなった君を見て、条野は新しいバンドのボーカリストへと興味を移したよ。そして、それを見て色田くんも目が覚めたらしい。今回の森村の提案は、孝哉と君、そして色田くんを救うことが出来た。君には申し訳なかったけれど、やって良かったと私は想っているよ」


「マジですか……。そんな簡単なことだったんですかね。そんなものに俺たちは振り回されて……」


「隼人さん、ダメですよ。条野さんの行動は、今となっては病気の域に達しています。理屈で考えても、私たちには理解出来ないところにいるんです。そもそも、条野さんが傷つくことを恐れ過ぎたことが問題なんです。叶えたかったら振り向いてもらう努力をすれば良かったし、出来ないなら諦めなければなりません。それに、チルカがスタートした頃の条野さんは、狂っていませんでしたし」


 仁木さんがそう言って、俺を嗜めてくれる。そう言われてみれば、出会った頃の条野には、やや強引なところはあっても、人を傷つけて平気な顔をしているような狂気的な部分はなかったように思う。


 俺たちは、アマチュア時代からライブの経験だけはかなりあった。ただし、メジャーとしてやっていくのなら、それ以外のことにも慣れていかないといけない。そういう面で、条野はとてもいい目標だった。


 今でこそプロデュース業に専念してはいるものの、当時はまだ現役ミュージシャンとしても活躍していたあいつは、俺たちにとっては貴重な指標となっていた。わからないことを聞けば親切に答えてくれて、自分ではどうにもならないことがあれば、間を取り持ってくれていた。一般社会に当てはめると、出来のいいエルダーと言える存在だった。


「そうですね。初めの頃は、まだ未熟な俺たちにいろんなことを教えてくれました。演奏面でも引き出しを増やしてくれたりしてて、俺たちだけじゃ向かえなかった方向へ導いてもらったとも思います。本当に、いつからあんなクソヤローになったんですかね」


 記憶の中に、出会った頃の条野の笑顔を見つけた。そういえば、かつての条野の笑顔も、孝哉のものと同じように、パッと花が咲いたようなものだったように思う。

 レコーディング中にいいプレイが出来た時には、ガラスの向こうでその顔をして喜んでいた。俺たちはその姿をブースの中から見て嬉しくなったものだった。


『隼人ー! お前、今のすごかったな。やべえ、俺も練習しておこう。まだお前らに負けたくねえわ』


 いつもそう言って、俺たちと切磋琢磨してくれるような、敷居の低いタイプのプロデューサーだった。


 その頃の俺は、少なからず条野を尊敬していた。俺だけじゃない、チルカのメンバーは皆そうだった。ただ、俺はそれを表に出さないタイプで、言葉でも言えなかった。それが条野には面白く無かったのだろう。


「俺、最初の頃の条野のことは尊敬してました。それが、色田に有る事も無い事も色々と吹き込んでいくのが、だんだん嫌になって行って。気づけば、ただ嫌いになっていました。俺もあの時、ちゃんと話せば良かったんですかね。そうすれば、少なくともあんなに酷い奴にはならなかったのかも知れない。俺がもっと……」


 同じことを耀と話した時にも言った覚えがある。色田について話していた時だった。俺たちは、圧倒的にコミュニケーションが不足していた。元々それが下手な人間だけが集まっていたのだから当然と言えば当然だったんだろう。


 チルカは、音楽の話ならいくらでも続けられるけれど、人の気持ちを推測ったりしようとすると、途端に言葉が口から出なくなるタイプばかり揃っている。全員があまり気が利くタイプではないからか、たまに激しい揉め事を起こしてしまう事があった。


 だから、次第に直接的なものの言い方を控えるようになり、結果的にさらにコミュニケーションは不足していった。何か思いや悩みがあれば、それを歌詞やフレーズに乗せるようにしていた。そうすると結果的に仕事はうまくいく。それが続くことで、良くないサイクルは強化されていってしまった。


 自分たちが関わる人間は、大体音楽をやっていた。だからそれで困る事がそう無くて、俺がそのやり方では人とコミュニケーションがとりづらいのだと気がついたのは、会社員になってからだった。


 その時に初めて自分たちは、かなり非常識で幼稚なのだと知った。それ以来、コミュニケーションに関して問題が起きた場合は、いつも自分に否があるように考えてしまいがちになってしまう。

 今の条野の話ですら、自分のせいでそうなってしまったのかも知れないなどと考えてしまうようになっていた。


「隼人さんは何も悪くないよ」


「いや、でもですね……えっ?」


 仁木さんへ返事をしようとして彼の顔を見ると、ニコニコと笑いながらその目の前で手を振り、「今のは私じゃありませんよ」と言う。


「え、でもそっちから……いや確かに。そう言えば、仁木さんの声じゃなかった」


 会長は俺を真島くんと呼び、森村さんは真島様と呼ぶ。だったら、今の発言は仁木さんに違いない。そう思ったけれど、今の声は確かに仁木さんでは無かった。


「え?」


 それに、あの声だ。ついさっき、思い出してたまらない思いをしたばかりの、あの声。それを俺が聞き間違える訳がない。俺はそれを確かめるために、キッチンへと向かった。


 リビングスペースからダイニングへ向かいながら、キッチンとの間に設置してあるパーテーションラックの向こう側へと目を凝らす。その向こう側に、やや黄味がかったシルバーブロンドの巻き毛が揺れていた。


 それは、ゆっくり上下に揺れながらパタパタと軽い足音を響かせて、だんだんとこちらへ近づいてくるように見えた。お互いの足音が近づくにつれて、この半年の間に俺を泣かせていた香りが、だんだんと濃くなり確証を持たせていく。


 条件反射のように刺激された涙腺が、目に涙を溜めていく。早く見たくてたまらないものがあるのに、視界を涙が歪めていくのが嫌だった。


——くそ、邪魔するなよ。


「っ……」


 涙が出ると体は疲弊する。スープを飲んだとはいえ、半年間ろくに食事をとっていなかった体は、室内を早足で歩いただけで、すぐに息を切らしてしまった。


 それでも、あの顔が見れるのならと、必死になってオープンラックになっているパーテションに手をかけて立ち上がる。すると、目の前にキャンディブルーのニットの塊が見えたて来た。


「おわっ!」


 思い切り体当たりされた体はまるで踏ん張りが効かず、そのまま膝を折って崩れ落ちた。そのニットと香りに包まれて、俺は立ち上がれなくなってしまった。動けなくなると共に、涙の量は増えていく。


——泣くな。はっきり見たいんだ、あの顔を。


 それでもすぐに溢れていく涙に苛立ちながら、俺は相手を確認しようとした。出会い頭に倒れ込んだ俺を、咄嗟に抱きしめて庇ったまま床へ倒れ込んでいる。


「おい」


 罪悪感からか、絶対に自分から口を開こうとしない。俺はその顔にかかった髪をそっと掻き上げた。その頬に手を添える。ほんのりと伝わる体温が、そこにいると実感させる。そして、また触れる事が出来たという安堵が、急激に感情を呼び起こしていった。


「……孝哉」


 やっとの思いでその名を口にすると、その大きな目はようやく俺に視線を合わせてくれた。

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