第28話 Landing3

 そうやって思い出せた気持ちを噛み締めていると、会長はそれまで見せていた無邪気さとは違って、大きく包み込むような笑顔を見せた。そして、森村さんへと視線を送る。すると、森村さんはまるでそれを待っていたかのように、俺の手に真っ白なハンカチを握らせた。


「どうぞお使いください。必要になるだろうからとの事で、これもお預かりしました」


「はい? なんでハンカチ? 誰からの……」


 手渡されたハンカチは真っ白でふわふわしていた。しっかりとアイロンのかけられたそれを開いてみる。縁取りの糸さえ白く、全く模様の入っていないそれは、慶事用のもののようにも見えた。


「君は私の声を聞いて、孝哉の存在を感じてくれたのだろう? 君の思った通り、私は孝哉の血縁だ。母方の祖父にあたるんだ。君が私の声と顔に孝哉の面影を見てくれて、その上それを感じて泣いてくれるなんてね。あの子のことを大切にしてくれているのがわかって、嬉しいよ」


「え、泣いてる? あ、本当だ、涙……」


 頬に手を触れてみると、確かに涙が流れていた。感情が麻痺して久しいからか、涙を流していることにすら気がつけなくなっていたらしい。


「あ、それでハンカチを?」


「ええ。孝哉さんがこれを。隼人さんはすぐ泣いちゃうからと言われまして」


 森村さんにそう言われ、手元の白く優しい手触りの布地にそっと手を触れてみた。ふわふわで肌触りの滑らかな生地からは、確かにうっすらと孝哉の香りがした。

 持ち上げて顔に近づけ、すんと嗅いでみる。


——あ、まずい。


 そう思った頃にはもう遅く、途端に涙の量が倍増した。香りが記憶を刺激して、激しく感情が暴れ始めた。

 でもそれはさっきまでの悲しい涙とは違う。心を冷やす涙では無く、その底から温まるような嬉し涙だった。


「孝哉が俺に……? 本当ですか?」


 活動休止を嫌がる孝哉の味方をしてあげなかったことで、姿を消すほど嫌われたのだと思っていた。その孝哉が、俺のためにハンカチを用意してくれていた。その事実だけで、俺の心は少しずつ解けていく。


「きっと君は孝哉に捨てられたと思っていたよね。でも、孫が捨てた人にわざわざ爺さんが会いに来る理由は無いだろう? そのハンカチがあの子の気持ちを表しているはずだよ。それに、気がついたかもしれないけれど、さっきのスープも孝哉が作ったものなんだ。ずっと君への思いは変わっていない。それは信じてくれないかな。それでも、あのまま二人でいては危険だと判断したんだ。だから、私がまずは身を隠すことを優先するように孝哉に伝えた。それに、君が最も謎に思っていることも……まずはそのことについて報告しよう」


 輝島会長はそう言って、また花が咲いたような笑顔を見せてくれた。俺は、ここにいない恋人の思いをそこから汲み取って、


「はい。聞きます。聞かせて下さい」


 と言いながら、取り戻したつながりを噛み締めるように、ハンカチを握りしめた。


 会長は俺の答えを聞いて優しく微笑むと、ゆっくりと車椅子のタイヤを押して窓際へと移った。言い難い話なのだろうか、俺に背を向けて外の景色を眺めている。そして、この半年の間、俺が知らずに過ごしていた事を教えてくれた。


「何よりもまず、今の孝哉の居場所を教えておかないといけないね。あの子は今、私の別荘にいるんだ。海辺のやや高台にある家だから、周囲にあまり若い人が多くなくてね。そこなら、まだチルカに短期間参加していたくらいの知名度の人間なら、割と自由に暮らせるんだよ。そこに私の妻と、長年勤めてくれているお手伝いさんと一緒に行ってもらっている。一応、諸々警察へも連絡してあって、警備員もいるから身の安全は確保出来ているよ」


「そうなんですか。良かった、それなら安心ですね」


 俺はそれを聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。急に消えた孝哉が、誰かに攫われたという可能性を、おそらく俺はどこかで捨て切れていなかったのだろう。周囲が孝哉と連絡をとっているとは言っても、俺はそれを実際に目にしたわけでも聞いたわけでもない。全てを信用することは、到底出来無かったのだ。会長の別荘で安全に暮らしていると知ると、この半年間体を縛り続けていた緊張の糸が、一気に解けた。

 ただし、そうなると、余計に気になることが出てくる。


「あの、ではなぜ俺にそれを教えてくれなかったんでしょうか。そういうことなら、そう言ってくれれば、俺は捨てられたとも思いませんでしたし、こんなに体を壊すことも……」


 辛かった。


 この半年間、自分はこの世に必要無くなってしまったのだという思いにつきまとわれていた。

 自分が一番欲しいものをくれる人が、俺を置いて行く。それは、金色の泡が弾け飛んで体の中で滞り、時を経て毒へと変化した。真っ黒く変色して粘度が高まり、動くたびに不快になる。それが始終体を這い回る地獄の中に、俺は生きていた。

 何度振り払おうとしても纏わりついて来て、それは体から滴り落ちて地面と俺を縛りつける。その場所は常に思考が後ろ向きになるようなところで、そこから一歩も動けなくなってしまうのだ。


 動きたくて、傷つける。自分へと酷い仕打ちを繰り返し、いつからかその痛みを感じることでしか、生きている実感を感じられなくなっていた。


 今の話を知っていたら、それはおそらく起きなかったことだろう。どうして、孝哉は俺に何も言わなかったのか、どうして周囲も隠すことに協力したのか。それだけがわからない。


 その感情を思い出すだけで身震いする体を、自分の手で抱きしめるように包み込んだ。そんな俺の姿を見ていた森村さんが、俺のそばへと座り込んだ。労りの言葉でもかけられるのかと思っていたところ、なんと森村さんは突然額を床へ擦り付けるようにして這いつくばった。そして、震える声で謝罪を始めたのだった。


「それは、それは私がそうしてはいかがですかと、会長と孝哉さんに進言させていただいたからです。条野からあなたを守るためにどうしたらいいかとお二人は策を練っていらっしゃいましたが、なにせ相手は異常者です。普通の思考では太刀打ちできません。ですから、他に打つ手が無いのであればと……」


 森村さんは、体を小さくして床にひれ伏していた。その体はずっと震えている。


「あなたがどれほどの思いをされたのかは、私には計り知れないと思っております。こんなに弱ってしまわれて……大変申し訳ありませんでした」


「森村さんが孝哉に指示をしたと言うことですか? 俺には何も知らせずに姿を消すようにって……」


「はい、そうです。私から申し上げました」


「そうだったんですか」


 スラリとした長身を小さく折りたたむようにして謝罪している姿を見ていると、少しだけ胸がチクリと痛んだ。この小一時間程度の間に話をしただけでも、この人が誠実なのだろうというのはなんとなく俺にも伝わっていた。

 そんな人が、俺だけに情報を渡さずに、辛い思いをさせるようにという指示をしたと言っている。きっと、それを伝えた後には、ずっと罪悪感と戦っていたのだろう。


 それに、これが真実だというのなら、きっと孝哉も辛かったのではないだろうか。自分から進んで離れたのでは無いのなら、苦渋の決断だったはずだ。

 そう考えた時、ふと思い当たることが二つあった。あの頃、孝哉がいつもならしないことをしていた。それはこれが理由だったのかもしれない。


「森村さん、もしかしてそれを提案してからも、孝哉は実行を躊躇っていたんじゃ無いですか? あの頃孝哉に頻繁に電話がかかっていて、それを受けようとしなかったんです。そのうちの何度かは条野からでしたけれど、もしかして……」


 森村さんは僅かに顔を上げると、こぼれ落ちそうになる感情を、グッと息を呑むと同時に押し留めた。そして、冷静さを取り戻そうと必死な様子を滲ませながらも、俺の訊く事に答えてくれる。


「……はい、そうですね。一月ほどは渋られたと思います。会長から急いだほうがいいと言われておりましたので、何度か催促のお電話をさせていただきました。合わせて仁木くんと相談して、チルカはしばらく活動休止にしようかという話もしておりました」


「やっぱりそうなんですか。じゃあ、孝哉が俺の前で電話に出なかったのは……」


「その話を聞かれたくなかったのかもしれません」


 そう言って一呼吸置いた後に、小さな声で「ごめんなさい」と零し、項垂れた。その声は、社会性を全て取り払ったような、森村さんの心の底から湧き出た声だった。


「でも、どうしてですか? 別に離れるにしろ活動休止にしろ、俺は理由があるなら理解出来ますよ。納得は出来ないかもしれませんけれど、理解するくらいには大人になったつもりです。仁木さんもその話を知っていたのなら、あなたから俺に説明してくれても良かったんじゃ無いですか? そうすれば俺だって……」


 俺は、森村さんの隣に寄り添って、その背中に手を添えてあげている仁木さんへと話を振った。すると、仁木さんも感情が振り切れたのか、突然目に涙を溜めて嗚咽を漏らし始めた。

 彼がかけている銀縁の丸メガネが、ガチャガチャと鳴る。その音の隙間に、小さく


「そんなこと、私の口からは言えませんよ」


 という言葉が聞こえてきた。


「だからそれがわからないんですよ。森村さんからの提案って、孝哉が俺から離れるってことだけなんですよね。それなのに、なんでそこまで罪悪感を感じる必要があるのか、そこをちゃんと教えてもらえませんか?」


 二人の謝罪と異様な深さの後悔に、俺は呆気に取られていた。さっさと話せば済んだことを、いつまでも隠していたから面倒なことになっただけだろう。それをこんなに動揺するほど悔いているのはおかしいとしか思えない。


 すると、ちょうど俺の背中側にいた会長が、「真島くん」と声をかけながら俺の正面へと回り込んで来た。大企業の会長職をこなす人は、あまり動揺などしないのだろう。それでも、余程酷い話をしようとしているのか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。それでも二人とは違い、勤めて冷静に俺に真実を教えてくれたのだった。


「森村は、孝哉に君の精神を壊せと言ったんだ。君が最も傷つき、かつ最も簡単に回復出来る方法は、孝哉が君に心を閉ざし、そのまま姿を消すことだろうから、そうするようにと伝えた。そうやって君を壊して、君からその魅力を奪うことで、条野の手から君を守ろうとしたんだよ」


「……すみません、全く意味がわからないのですが。俺を壊せって? 孝哉に?」


 うっすらと耳鳴りが聞こえる。それは段々と音量を増していき、次第にうねりを伴っていった。理解出来ない言葉を聞いた脳が、それを処理しようとして必死に働く。増えた血流の音は、高音の壁となり、俺の思考を却って遮っているようだ。


「そうだ。まさに先ほどまでの君の状況を作り上げろと言ったんだよ。ギターを弾けてはいるけれども、その音には真島隼人らしさはカケラも無い。誰が弾いても代えが利くような存在へと成り下がっていた。人としても食事さえままならない、情けない状態だ。君には一切連絡を取らせず、メンバーやスタッフには孝哉から近況報告をさせた。そうすることで君はどんどん追い込まれていくだろう? 事務所総出でそうなるように仕向けたんだ。あの状態の君は、私たちが孝哉に指示して意図的に作り上げたようなものだよ」


「そんな……」


——あの地獄が、意図的に作り上げられたもの……。


 心臓がバクバク言っている。肋骨を突き破って飛び出して、目の前で大量の血をぶちまけてしまいそうなほどに、跳ね続けていた。

 日々弱っていく俺を助けてくれていた人たちが、意図的に俺を弱らせていた。それは俺を守るためなのだと言う。全く意味が理解出来ない。


 それでも、このままパニックを起こして騒ぐほど俺は幼稚でも無かった。あの会社は、条野に振り回されている人たちを除いては、基本的には暖かくいい人が多い。俺はチルカに復帰して、何よりもそれを強く感じていた。

 その人たちがそんなことをしていたと言うのであれば、そこには間違いなく重大な意味があるはずだ。そう思えるくらいには大人になっている。


「あの、そ、それはどうしてでしょうか……。あ、えっと、条野から守るためとおっしゃってましたよね。どうして俺を壊すと条野から守れることになるんですか?」


 俺がそう問うと、会長は眉根を寄せて苦笑し始めた。力無い笑いをこぼしながら、


「いやはや、鈍いのも罪だな」


 と言う。


「どう言うことですか?」


 やや呆れたような目で俺を見ている会長に、見当もつかない俺はほんの少しだけ憤りを感じてしまった。

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