第27話 Landing2
「隼人さん、リビングまで行けますか? 実は先ほどお話ししたディレクターの方に、ここで既にお待ちいただいているんです。その方は、あなたのこれまでの音楽人生をずっと見ていた方でして、同時に孝哉さんのことをよくご存知でもあります。そして、私が大好きなシンガーのお父様でもあるんです」
硬い廊下に両膝から思い切りしゃがみ込んだため、パンツの膝あたりに血が滲み始めた。それをじっと眺めていても、対して痛みを感じることはない。ただ、ウールの生地に赤いシミがじわじわと広がり始めたことで、痛みがあるはずだと認識した脳から、その感覚を少しだけ分けてもらっているというような、奇妙な感覚はあった。
「……孝哉をよく知る人? あいつの知り合いって優太くんくらいしか知りませんけれど、他に親しい方がいるんですね。でも、その方がなんで俺の音楽人生を知ってるんですか? チルカの古参のファンの方ってことですか?」
仁木さんは訝しむ俺の表情を眺めながら、嬉しそうにくすりと声を漏らした。明らかに何かしらのいいことがあるのだとその顔は言いたがっている。気持ちが弾んでいるのが、全く隠せていなかった。
彼はそのままの笑顔を保ったまま、徐に俺の膝の下に腕を通して勢いよく俺をおぶった。
「よいしょ」
そしてその優しい手で俺の手首をギュッと掴むと、ゆっくりと立ち上がる。そうして、救助活動でよく見るような、傷病者を搬送するスタイルで俺を奥へと連れて行こうとした。
「すみません、許可を取らずにおぶってしまいました。でも、急いだほうがいい気がしたので。今少しだけ隼人さんの目に活力が戻ったように見えました。なので、急ぎましょう」
弾んだ声で新木家の廊下を颯爽と歩く。俺を背負っているにも関わらず、機敏で流麗な動きを保ったまま段々と歩を速めていった。
「さっきまで話していた時とまるで雰囲気が違いますけど、そんなにいいことが待ってるんですか?」
「少なくとも私はそう思っていますし、あなたにとってもそうであってほしいと願っています」
俺はその仁木さんの変貌ぶりに言葉を失って、ただ黙ったまま背負われていた。
そして見えて来たリビングの扉のガラスには、車椅子のハンドルとタイヤ部分が僅かに見えていた。肘掛けに当てられている手の様子からすると、相手はどうやら年配の男性らしい。
仁木さんは扉の前で俺を下ろした。そして、重厚なガラスと木で出来た味のある扉を軽くノックする。
「すみません、お待たせいたしました、会長」
彼には珍しく、返答も待たずに性急な様子でリビングへと声をかけた。そこには、思った通りに老齢の男性が待っていた。
「ああ、仁木くん。すまないね、急に時間が空いたものだから」
「いえ、こちらこそありがとうございます。お二人にとっていいお話になるといいのですが」
仁木さんが会長と呼んだその男性は、上質そうなスーツを着て、足が弱っているようではあるけれども姿勢良く車椅子に座っていた。
柔らかく耳あたりのいい声で話しながら、時折その声と同じようにふわりとした笑顔を浮かべる。上品で穏やかそうな、俺とは無縁の世界の住人のように見えた。
そして、その隣には秘書らしき男性が一人控えている。その男性はキリッと表情を引き締めていて、一見すると厳しそうにも見えたのだが、俺と目があった瞬間に、深く穏やかで包容力に満ちた笑顔を見せてくれた。
そして、いつまでも仁木さんと雑談を続けている会長を嗜めるように、
「会長、憧れの真島隼人さんですよ。お恥ずかしいのでしょうが、いい加減に話しかけてあげて下さい。あのままでは手持ち無沙汰で困ってしまわれますよ」
と、声をかけた。会長と呼ばれたその男性は、秘書にそう言われて渋々仁木さんとの会話を切り上げると、ひどく照れながらもようやく俺の方へと視線を合わせてくれた。
「うっ、わ、わかった。しかしなあ、緊張するんだ。俺の憧れの人だからなあ」
何度も視線を合わせては逸らしている。面白い人だなあと思いながら相手が浮かべた照れ隠しの笑みを見て、俺は久しぶりに心の底から驚くことになった。
「え……?」
『隼人さん』
耳の奥に孝哉の声がこだまするような感覚に襲われた。そして、思わず驚きの声を漏らしてしまう。俺のその反応を見た会長は、それが嬉しかったのだろう、さらに一段階ギアを上げたような破顔をして見せた。
「真島隼人さん、いやー会いたかったんだ。やっぱり君はかっこいいなあ。私は君の大ファンなんだよ。チルカモーショナがデビューする前からずっとね。君の作った曲とギターが大好きでね。何度かライブにも行ったんだよ。それでもこうして会う機会はなかなかなくてねえ。ずっと躊躇っていたのだけれど、今回は権力を行使して急遽会わせてもらうことにしたんだ。仁木くん、急なわがままを聞いてくれてありがとう。さあ、座ってくれ。森村、あの子から預かっているものを持ってきてくれないか」
会長は緊張しているのか一気に捲し立てたかと思うと、また恥ずかしそうにニコリと笑った。
——やっぱり、似てるな……。
「はい。失礼します……?」
混乱しながらも、言われた通りに椅子を引いた。居候とはいえ、自分が暮らしている家で他人から自分の席を勧められる。妙な気分ではあるけれども、なぜか俺はそれを当然のように受け入れていた。
そこへ秘書の森村さんが、スープ皿の載ったトレイを持って戻ってきた。
「森村と申します。失礼ながら、ご挨拶は後ほど改めてさせていただきたく存じます。まずは真島様、前を失礼致します。お食事が摂りづらくなっていると伺っておりまして、少しでも栄養が取れるようにと、こちらをお持ち致しました」
そう言うと、温かそうなスープを一皿出してくれた。それは、新木家でも滅多にお目にかかることは無く、特別な日にだけ使うという金縁の装飾のあるスープ皿に注がれていた。
深いバーガンディーカラーの液面に、少量のパセリとクネルが浮かんでいる。超庶民の俺には滅多に出会うことの無い、ホテルのレストランくらいでしかお目にかかれそうもないような、深い香りのするスープだった。
「……お、お気遣いありがとうございます。いただきます」
いきなり会ったばかりの人から唐突に食べ物を勧められるなんて、本当は恐ろしくて仕方がなかった。ただ、仁木さんが何も言わずただニコニコと笑っているのだから、信用しても大丈夫なのだろう。そう思い、戴くことにした。
スープを、トレイに載せられていたコロンと丸い形のスープスプーンで掬い、ゆっくりと口へ運ぶ。力尽きている手には、スープスプーンを口に運ぶ事すら大仕事だ。それでもどうにかゆっくりと近づけると、途端に野菜とスパイスの香りが鼻に抜ける。
——ほんの少しだけ懐かしい感じがするな……。
飲み込んでもそれは続いた。久しぶりに感じた味と香りは、記憶の中のどれよりもずっと深くよりふくよかなもので、あまりの感動に思わず大声をあげてしまった。
「なんだこれ、うんまっ!」
そうして飛び出した下品な感想を耳にしながら、会長は心の底から嬉しそうに微笑んでいる。その顔を見てはっと我に返ったが、もう口から漏れてしまったものはどうしようもない。恥ずかしさに顔を赤ながらも、正直に自分らしく伝えることにした。
「あ、申し訳ありません。下品な感想がつい。びっくりするくらい美味しくて、思わず……」
俺を気遣ってかややぬるめに仕上げてあるスープは、幸せと嬉しさの枯れた体にそれを満たしていく。まるで今の俺に足りないものを理解している人が作ったかのようだった。飲んでいるだけで涙が溢れそうになるほどに優しい。その味を堪能しながらも、気づけば夢中になって飲み干していた。
「ごちそうさまでした」
皿を空にする頃には、久しぶりの滋味に体が高揚しているのを感じた。食べた物の内容もそうなのだろうけれど、作った人の思いが感じられるような味がしたのだ。
そして、食欲という本能が満たされたからだろうか、急激に会長の存在が気になり始めた俺は、仁木さんにその詳細を尋ねたくなった。本人を目の前にして聞いてもいいのだろうかと躊躇したのだが、この状況で聞かずにいるのもまた失礼だろうと思い、思い切って訊ねることにした。
「あの、お訊きしてもよろしいですか? 会長って……どちらの会長なんですか?」
すると、仁木さんはニヤリと不適な笑みを浮かべる。彼がこんな悪戯めいた顔をすることなど珍しい。
「気になりますか?」
もったいつける仁木さんに多少の苛立ちを感じながらも、それに軽く戯けながら、
「いやあ、普通気になるでしょう。だってこんなお偉いさんが俺のファンだって言うし、何でかその方からスープご馳走になってるし。そんな状態で名前もわからないのって、変でしょう?」
と返した。すると、会長はひどく慌てたようで、
「そうだね、確かにそうだ。名乗りもせずにファンだと騒いでしまって、申し訳ない」
と頭を下げてお詫びしてくれた。仁木さんはそれを見て、
「会長、そうやって簡単に頭を下げるのは良くありませんよ。森村さんも注意されないのですか?」
と秘書を咎める。すると、森村さんはふっとまとう空気を緩め、
「いいんですよ、今日は半分はプライベートのようなものですから。それに、会長は本当に時間がある限りチルカを追いかけていましたからね。真島隼人を前にして冷静でいられるわけはありませんよ」
と笑った。
「まあ、それはそうかもしれませんね……。では、私からご紹介しましょう。隼人さん、こちらは、スパークルレーベルが所属する輝島グループの創業者で現会長、
「えっ! うちの?」
まさか自分の事務所とレーベルが所属するグループの会長だとは思わず、驚いて大きな声を上げてしまった。
俺のいるレーベルは事務所と同じ系列だ。グループ企業内でその両方を担うことも、そう珍しいことでも無い。それくらいのことは知っている。
ただ、一般的にミュージシャンが会社の会長や役員の顔を覚えたりすることも、まず無い。メジャーデビューしているような奴らは、大半がそんなことを気にするほどの時間を持ち合わせてい無い。基本的に何よりも音楽に興味が強いのが俺たちだからだ。
それでも、俺は一応会社員を経験している。自分がお世話になっている偉い人が目の前に急に現れたら、粗相をしていないかどうかを気にするくらいの感覚は、幸か不幸か持ち合わせていた。今日これまでの行動を振り返りつつ慌てている俺を見て、会長と仁木さんは楽しそうに笑い声を上げ始めた。
「そんなに驚くことだったかい? すまないね、先に言っておけば良かったかな」
そして、会長がその表情を見せるたびに、最初に見た時から感じていた思いが、俺の中で確信へと変わっていった。
この人には、もう一つ俺を驚かせる肩書きがあるに違いない。その真偽の程を確かめたい。そう思っていると気が逸って落ち着かなくなってしまう。
「あの」
辛抱たまらずとなって、どうせならもうそのまま尋ねてしまおうと思い、口を開いた。すると、会長の方も早くそれを暴露したくてたまらなくなったのだろう。ワクワクと期待に胸を膨らませた子供のように、車椅子から身を乗り出すようにして俺の方へと顔を近づけてくる。
「似てるかい?」
柔らかく耳あたりのいい低音に包まれているのに、騒音を掻き分けて相手にしっかりと届くような、強くて優しい素敵な声をしている。俺はそれに似た声を初めて聞いたあの日を思い出した。
『……死ぬなよって言わねーの?』
胸に詰まった思い出の欠片が、俺の内側を刺激する。それは、なかなか思い出せずにいた甘い気持ちを呼び起こした。スルスルと心地よく心を撫で、孤独に囲まれて小さく冷えていたものが、ゆっくりと膨らむように開いていく。
実感ほど強い刺激は無い。いくら思い出に浸ろうと、それは所詮自己完結するものだ。それに比べて、意図せず受け取った好意的な外部からの刺激は、より強いものとなって人を動かす。
消えていたはずの感情という伝達経路が、突然息を吹き返す。画面の向こうのように温度を失いつつあった孝哉の笑顔が、それに似た質量を持ったものとしてそこに存在するだけで、俺の起動スイッチを入れ直した。
「はい、似てます。驚くほどに。孝哉の笑顔と声にそっくりです……」
——愛しているよ、孝哉。
その気持ちが素直に胸に咲き戻るのを感じて、俺はそこをぎゅっと抑えて逃さないようにした。
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