粗忽者に伝う

佐倉島こみかん

粗忽者に伝う

 ︎︎こっぴどく、ふられた。

 どう考えても悪いのは自分で、自分以外に責めるものはなくて、だからこそたちが悪かった。

 思うに、人間誰しも選択をせねばならない時がある。

 ビーフかチキンか、退くか進むか、生きるべきか死ぬべきか、きのこかたけのこか、為せば成るのか為さねば成らぬのか、風呂なのかご飯なのか、仕事なのか私なのか、エトセトラエトセトラ。

 あの時、別の選択をしていたら、こうはならなかったのではないかと、いくつもの仮定が頭をぎる。

 それでも、それらの選択をどこかで、あるいはいくつも、誤ったせいで、今こうして袖を濡らす羽目になっているのだ。

 恨めしく空を見上げたところで時間は巻き戻らない。

 私の失敗は取り返せない。

 小さなサインを見落とした愚か者に、現実は冷たく降り注ぐ。

 握るべき手にあるべきものはなく、コンビニの店先で、無意味に掌を見つめた。


 思えば昔から自分は粗忽者で、忘れ物など日常茶飯事であり、学校にランドセルを忘れて帰って来たことも1度や2度ではない。家族の誕生日さえ忘れることもしばしばだった。

 そんな自分が社会人として辛うじて真っ当にやっていられるのは、こんな性格を分かって、根気よく一緒に対策を考えてくれた彼女のおかげである。

 ︎︎幼なじみの彼女は昔からしっかりしていて、面倒見がよくて、同学年なのにお姉さんみたいだった。

 ︎︎家が近所で親同士の仲が良いせいで『うちの子を頼むわね』と母から言われていたらしく、また、ぼうっとすることの多い私を彼女も放っておけなかったそうで、何くれとなく面倒を見てくれていた。

 ︎︎あまりに忘れ物が多いのを見かねて、俺ではなくうちの母へ『来週の図工は彫刻刀が要ります』とか『今週、給食当番なので週末に給食着を出すよう確認してください』的なことまで伝えてくれていた。正直、忘れっぽいうちの母よりしっかりしていた。

 ︎︎それに比べて私と来たら、何かに集中すると他のことは入ってこなくて大事な話を聞き逃す、周りの物が気になってすぐ集中力が切れる、鞄に入れたつもりが入れていない、補助カバンだけ持って満足してランドセルは学校に置いて帰るなどの常習犯で、注意しても注意しても繰り返すので両親含め、ほとんどの人間は匙を投げていた。

 ︎︎そんな、周りも呆れて諦めるほど粗忽者の私に、どんな時でも寄り添って、根気強くどうしたらいいか一緒に考えて試行錯誤してくれる彼女に惹かれたのは、ほぼ必然のようなものだった。

 ︎︎それでも、こんな自分を彼女が好きになってくれるはずなどないと、思っていた。

 ︎︎だから、高校の時、ふられる前提で好きだと伝えた時に受け入れてもらえて、死ぬほど驚いたのだ。

「え……いいの? ︎︎本当に?」

「いいよ、本当に。だって悠くんは、優しいじゃん」

 ︎︎驚いて思わず聞いた私に、彼女はキッパリと言った。

「確かに忘れっぽいけど、それをなんとか克服しようと一生懸命だし、人の話をちゃんと聞くし、誠実に対応しようとするしさ。それに、乱暴なことも言わないし、いい子ぶってるとか、余計なことするなとか、絶対言わないじゃん」

 ︎︎そう答えた彼女の、どこか影のあるはにかんだ顔を、今でも覚えている。

 ︎︎それを聞いてハッとした。

 ︎︎しっかり者で、学級委員などいつも引き受けていた彼女は、周りの生徒、特に男子や不真面目な女子から鬱陶しがられることも多いようだった。

 ︎︎それを気にした様子など見せたことのない彼女だったが、やはり傷ついてもいたのだろうと分かって、今度は自分が力になりたいと切に思ったのだ。

「あ、あのさ、頼りないかもしれないけど、しんどいこととかあったら、言ってよ。話を聞くことなら出来るし、これまでしてくれたみたいに、一緒に考えるから」

 ︎︎自分が彼女の力になるなど、どうやったらいいか見当もつかなかったけれども、自分がしてもらって嬉しかったことを、返してあげられたらと思って、必死に言った。

「ほら、そういうところ。私も、ずっと好きだったんだよ」

 ︎︎花がほころぶように笑う彼女を、大事にしようと思った。

 ︎︎それから付き合うようになって、どんなに記念日を忘れても、うっかりをやらかしても、素直に謝れば、仕方なさそうに笑って許してくれた彼女優しい笑みを思い出す。

 その笑みにどれほど救われてきたことだろう。

 それなのに。

 そんな彼女の言葉を忘れて、行動した結果がこれだ。

 とめどなく濡れる頬を手の甲で拭って、夜の街をひた走る。

 どうして忘れていたのだろう。

 あんなに、いつも伝えてくれていたのに。

 なんで気づかなかったのだろう。

 少し気をつければ見落とすことなどないはずなのに。

 本当に、自分の馬鹿さ加減に、辟易する。

 アパートの鍵を開けて、疲労困憊の足で玄関に入った。

「ただいま……」

 靴箱の横の傘立てを力無く見ながら言う。

 ︎︎そして、部屋の奥から、パタパタと駆け寄る足音。


「あー! やっぱり降られてるじゃん! 傘持って行きなって、あれ程言ったのに!」


 大雨にひどく、そのうえ傘を忘れてずぶ濡れの私に、大好きな彼女は言った。

「ごめん……すっかり忘れてた」

 俯いて謝れば、彼女はいつものように、仕方なさそうに苦笑した。

「ほらもう、タオル持ってくるから待ってて! ていうか、途中でコンビニか何かで傘買えば良かったのに」

 彼女は風呂場に向かいながら、もっともなことを言う。

「財布もSuicaも家で、コンビニまで来てスマホは会社に忘れてきたことに気づいて、途中で買えなくて……」

 俺は情けなさで顔を覆って答えた。

「え〜! うそ〜!? そんなフルコンボで忘れることある!?」

 バスタオルを持ってきてくれた彼女は、私の話を聞いて大笑いしている。

「今朝、寝坊して慌てて支度したせいで色々忘れるし、天気予報も見逃すし、昨日『明日雨だよ』って言ってくれてたのに、それもすっかり頭から飛んでて傘も忘れて……せっかく注意してくれてたのに、ごめんなぁ」

 受け取ったバスタオルで身体を拭きながら靴下を脱いで玄関に上がり、彼女に謝った。

 ︎︎朝は彼女の方が早く家を出る。

 ︎︎そのため、昨夜、天気予報を見ながら『明日雨だって〜、傘持って行くんだよ〜』と言ってくれていたうえに、傘立ての手前の方に私の傘を出してくれていたのに、このザマである。

「そんなにしょんぼりしなくたっていいじゃない! 次、気をつければいいでしょ。ほら、風邪ひくといけないから、お風呂に入って。着替え、適当に出しとこうか?」

「同棲中とはいえ、さすがにパンツまで用意されるのは恥ずかしいから、大丈夫」

 ︎︎悪戯っぽく笑って言われて、私は赤面して答えた。

「あはは! ︎︎可愛い〜! ︎︎洗濯もしてるのに今更じゃない?」

「そういう問題じゃないんだよ……」

 ︎︎おおらかな彼女の言葉に苦笑して言い、自室のタンスから着替えを持ってくる。

「とりあえず、今度からこういう時のために、会社に折り畳み傘でも置いといた方がいいかもね。週末、買いに行く?」

 ︎︎風呂場の方へ引き返す私に、夕飯の支度に戻りながら彼女は言った。

「そうだね。デートのついでに、どこか買えそうなところに寄ってもいいかな?」

「あ、デートはちゃんと覚えてたね!」

 ︎︎彼女が嬉しそうに言うので、苦笑いした。

「さすがに覚えてるよ。カレンダーに書いたし」

 ︎︎壁にかけたカレンダーに大きく書いた『デート』の文字を指して答える。

「うむ、よろしい」

「あはは、恐悦至極にございます」

 ︎︎何故か偉そうに頷くのが可笑しくて、笑って答えた。

「こんなこともあろうかと、お湯は張ってあるから、しっかり温まるんだよ〜!」

「え、ほんと? ︎︎ありがとう!」

 ︎︎キッチンから言われて、脱衣所で服を脱ぎながら礼を言う。

 ︎︎お見通しな彼女に、今度のデートの時にお礼に何か買おうと思い、風呂から上がったら忘れないうちにすぐメモしておこうと思うのだった。

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粗忽者に伝う 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

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