日々

黒本聖南

◆◆◆

 食う寝る所に住む所、どれもこれも金がいるが、家出したおれには金がなかった。


 売れるようなものもない貧しい家、しいて言うなら父の身体くらいしか売れるものはなく、父の喘ぎ声を聞く日々に嫌気がさして、おれは身一つで列車に飛び乗り、知らん街の裏路地にて、日がな一日ぼけっと空を眺める日々をしばらく送っていた。

 話し掛けてくる奴はそれなりにいたもんで、カツアゲに薬の押し売り、父譲りの見た目のせいで身体を求められることもあったが、逃げ足の速さが唯一の自慢、余裕でそれらから逃げ切っていたんだ。

 飯や衣類はゴミ箱から頂戴できたが、安眠できる場所は見つからず、睡眠の足りない身体は徐々に脚力を落としていき、このままだとまずいぞという頃に、何の奇跡か住み処を得られることになる。


「黒の至宝!」


 第一声はそれだった。

 裏路地でいつも通りぼけっとしている所に、そんな言葉を叫びながら近付いてきた奴がいたんだ。


「なんと見事な長い黒髪をしているのですか、あなた! 奇跡! 手入れをすればもっと美しくなりますよ!」

「は?」


 垢にまみれたおれの手を取り、大袈裟なほどに涙を流しながら奴は言う。


「ぜひ、あなたを描かせてください!」

「……描く? おれを?」

「ぜひぜひ! 描かせてくださるなら、うちで好きに過ごしてもらっていいので!」

「……好きに」


 衣食よりも住への渇望は日増しに強くなっていた。そこにこんな申し出だ、何よりも魅力的な提案に思えた。まあ、睡眠不足が判断力を鈍らせたとも言えるが。


「……変なことしないか?」

「しませんしません! 指一本触りま……これはお許しを」


 そうして奴ことアソンと暮らすことになったわけだが、アソンは本当に指一本触ってこなかった。服も脱がなくて良いとのことで、与えられた清潔な服を着て、求められるポーズを取るだけの毎日。


「やっぱり髪が素敵ですね! 奮発して高い石鹸と櫛を買って良かったです」

「ああ、ありがと」


 古びたアパートメントの一室、埃のこびりついた窓辺に頬杖をつきながら、外を眺めていた時のこと。風に舞い上がった髪をアソンが褒めてくれたが、父を思い出すこの髪があんまり好きではなかった。かといってしたい髪型もなく、伸ばしっぱなしにしていた。

 思っていることが顔に出ていたのかもしれない。何か失言を言いましたか? なんて申し訳なさそうな声で言うもんだから、つい、父の話をしたんだ。何故話したんだろうな、危険のない日々に気でも緩んでいたんだろうか。

 けっこう話し込んだらしく、窓の外は明るかったのに気付けば暗くなっていて、その間アソンは一言も返事をしなかった。

 おれが話し終えると、やっとアソンは口を開いた。


「あなたの気が済むまで、ここにいたらいいですよ、クラバ」


 クラバさんとそれまではおれを呼んでいたくせに、この時を境にアソンはおれを呼び捨てにするようになり、一日中部屋にいる日々だったのが時折、共に出掛けるようになった。

 この街の裏路地しか知らなかったが、表の世界というのはなかなか楽しいもんだった。

 空中を行き交う椅子の群れ、一分も掛からずに提供される飯、服屋のど真ん中に突っ立ってる女の服が瞬きの内にくるくる変わるのは興奮したな。

 そうそう、特に舞台ってやつはその中でも一番面白くて、一人でも行くようになったんだ。


「でよ! 首に刃物を刺すシーンは本当に刺してるみたいでよお! 血が辺り一面ぶしゃーって飛んでたまんねえのなんの! 確かこう言ってたな……『お選びになってございまし、私か彼か、二つに一つ。両方を欲すれば死あるのみ。さあさ、さあさ、決めなんし』つって」

「今日の舞台は何回目ですか?」

「今日が初日だから一回目だぞ?」

「……クラバは記憶力がいいのですね。台詞の言い方にも気持ちがこもっていて惹き付けられる。どうでしょう、役者になりたいとは思いませんか?」

「おれが? まさか。舞台は観る方が楽しい」

「少しは考えてみませんか?」

「ははは! は……」


 そのまま、あることを訊ねようとして、おれはいつも口を噤んだ。

 時にアソンは一人で出掛けることがあり、その際におれは観劇に向かっていた。金は持たされていたから好きなだけ観られたんだ。

 ──アソンは金を持っている画家だった。

 画家といえば売れない稼業と聞く。住める所だけ提供してくれればいいと思っていたのに、三食衣類付きとたいそうなもてなしを受けてきた。

 不思議だ。

 一人で出掛けた時のアソンからは、よく変なにおいがした。甘ったるくて腐ったような、そんなにおい。眠るまで呂律もおかしくなる。

 一人でいる時に何をしているのか訊ねてみたかったけれど、アソンの背中がそうされることを拒んでいるようで、おれはいつも何も言えなかった。

 踏み込んではいけない、見えない境界線が、おれらの間にはあったらしい。

 絵を描かれて、舞台の感想を話す。それが、おれがこの家で暮らす上で許されていることだった。


 そんな日々を、一年と半年。


 アソンが死んだ。

 観劇から帰ると、アソンが床の上にうつ伏せに倒れていた。いつもよりもにおいは酷く、服はどろだらけで肌はしみだらけ、最後に別れた時はそんなんじゃなかった。精々目の下のクマが酷いくらいなもんだったのによ。

 揺さぶっても起きやしない。息もまるでしていない。ただ指を差していた。タンスをな。何かあるのかと探れば、一番下の段に札束がゴロゴロ入っていた。それだけじゃなくて手紙も。


『これを見ているのなら、私がしくじったということです。死体は傍にあるならそのままにしておいてください。すぐに片付けに来るでしょうから。彼らが来る前にお金を持ってお逃げください。できるだけ遠くに』


『クラバ、あなたと過ごした日々は』


 おっと、これ以上は言わねえぜ。黙秘権ってのは警官だけでなくあんたみたいな赤の他人にも適用されるはずだ。

 アソンは死んだ。とびきり厄介な事情も話さずとも、その場にいることの危険性は手短に教えてくれたからな、すぐに荷物をまとめて、言われた通りに逃げ出したよ。

 流れに流れてこの国に来たわけだが、あんまし言葉通じねえからどうしたもんかって困ってたから、あんたに拾ってもらえて助かったよ。あ、変なことしようもんなら噛みつくからな、そこん所は気を付けろよ。

 それにしても変わってんな、あんた。金払うっつってんのに、一番の思い出を語ってくれればそれでいいだなんて。……小説のネタにしたい? だからたまに外国人を泊まらせてる? ほー。芸術家は変な奴多いな。

 ……だから、アソンの最後の言葉は言えねえって。これだけは駄目だ。それ以上訊くなら出ていくぜ。ちと不安だが野宿したってい……分かってくれたようで何よりだ。

 取り敢えず、話はこれでおしまい。飯もご馳走になったことだし、風呂借りていいか? 髪がそろそろ気持ち悪くて洗い流したいんだ。石鹸なら持ってるから、場所だけ貸してもらえればいい。

 良いにおいだろう? 石鹸はこれしか使わないって決めてんだよ。こいつに一番金を取られるが、仕方ない。減るから使うなよ? 大事なやつなんだから。

 そうそう、ついでに訊きたいんだが、ここらに外国人でも入れてくれる劇団はあるか? ちょっと興味があるんだよ、芝居はずぶの素人だが、見てくれはそれなりに良いと思うんだよな。それでいっちょ、ぶちかまそうと思うんだ。

 まあ、まずは言葉から覚えるべきだが、大丈夫、おれは記憶力がいいらしいからな!


 あんたの作品が舞台になったら、誰よりもうまく演じてやるよ。

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