2 思い出の樺太 (1)伏子の思い出【松浦老人と鹿治青年】

 樺太には熊が多い。春先や秋の末頃には、よく各地で熊の被害を耳にした。上伏子の周辺にもよく出没した。私はフレップ採りなどで、少し前に熊が通ったという足跡などは見た事はあるが、実際山の中で熊を見た事はなかった。小学校の四年か五年の頃だったろうと思うが、こんな事があった。


 上伏子に農業をやるかたわら郵便配達をしていた松浦という老人がいた。この老人は銃猟が好きで、よく鳥獣を獲っていた。秋のある一日、この老人は自宅の近くの雑木林で熊を見つけ、村田銃で撃ったのである。十分手ごたえはあったが、熊はその場には倒れずに点々と血のあとを残しながら藪に逃げ込んでしまったのである。老人は深追いはしないで一旦引き返し、腹ごしらえをしてから、近所の家の鹿治という青年を誘って、逃げた熊のあとを追ったのである。雑木林の中の雑草は身の丈程に生い繁っていたが、二人はそれをかき分けて、点々と続いている血のあとをさがしながら進んだのである。五十間も進んだろうか、突然二間程前に先程の手負いの熊が立ちはだかり、怒りに燃えた形相で二人を目がけて襲ってきたという。不意をつかれた二人は慌てて銃を構えて撃ったというが、その時にはもう熊の一撃は二人の体に届いていた。その後は夢中で熊と格闘になって、二人は意識を失ってその場に倒れてしまったという。どのくらいの時間がたったかわからないが、我にかえった鹿治青年が、脇腹や顔の痛みをこらえて立ち上がって見ると、松浦老人も傍に倒れていたが、熊は附近には見えなかったという。鹿治青年は元気を出して、松浦老人を助け起こした。老人の意識は戻ったが、相当な負傷だった。鹿治青年は老人に肩をかしはげましながら部落に戻ったのだった。


 早速二人は病院に運ばれた。


 それから上伏子の部落の人達は、多くの人数で十分準備をして隊を組んで、先程の熊のあとを追ったのである。二人が倒れていたと思われる所から、十五、六間程離れた所に倒れている熊を見つけたのであった。その時は熊は死んでいたらしかったが、用心して更に何発か弾を撃ち込んでから熊のそばに集まったという。その熊が部落に運ばれ、この話はすぐ伏子中に広まった。わざわざ下伏子からこの熊の皮がはがされるところを見に行った人もあった程だが、随分大きな熊だったということだった。


 その後松浦老人も鹿治青年も元気になったが、鹿治青年は丁度その年徴兵検査もすんで入営することになっていたのだが、この怪我のため入営出来なかったようにおぼえている。片腕を失った松浦老人が逓送テイソウカバンを肩に配達している姿を見たり、熊の爪でひき裂かれた鹿治青年の口の傷跡や、頬の傷跡を見るたびに、その当時のことが思い出されるものだった。

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