#7:解決編
わたしは空っぽの家にいた。
両親と一緒に座ってテレビを見たリビング。小さいながらもわたしの城だった自室。母の知識のすべてが詰まっていた書斎。ペットの犬と戯れた庭。父の自慢の料理器具が並んだキッチン。そして、温かい食事をみんなで囲んだダイニング。すべてはわたしの頭にしか残っていない。この家にあるのは、冷たいフローリングだけだった。
三人暮らし。ひょっとするともう一人くらい増えるかもと考えて用意されたこの家は、一人で住むには広すぎる。残っている調度品は、わたしの自室にあるものとキッチンのいくつかの家電だけ。「家を売らないでやる代わりに、お前が生きていくのに必要ない物はすべて金にする」と言われて、すべて引っぺがされた。その時は、雨露のしのげる場所が残るだけマシだと思っていたのに、いざ空っぽの家にいると、外で雨に打たれていた方が楽だったと思うようになっていた。
頭に残った記憶だけの我が家が、現実の空虚な家に塗り替えられていく。どちらがわたしにとっての本来の家だったのか、だんだんと分からなくなっていく。父は、母は、いなかったんじゃないかと。
そういう時、気づけば痕跡を探していた。ダイニングのフローリングに残っているはずの痕跡。結婚記念日のパーティの席で、母が突然吐血して倒れた時の痕跡。フローリングの隙間に赤黒い、落としきれなかった痕跡を見つけたとき、一瞬だけ安堵して、それから心が苦しくなる。
母は父に毒を飲まされて、死んだ。わたしはそれに気づかず、父の傍でさらに一年を過ごした。
でも…………。
本当は気づいていたんじゃないか。だって、気づいていなかったら、あの事件は起こらなかったし、父の母殺しは露見しなかった。
わたしはきっと、気づいてて、それでも、傍に…………。
後ろに人の気配がして振り返る。そこには一人の男性が立っていて、どこか虚ろだけど柔らかい目をこちらに向けている。
いつもふいに思い出す顔。いつもふいに思い出す、言葉をかけてくれる人。その顔は一度揺らめいて白鵜のものになって、また元に戻る。
「………………探偵さん」
わたしを、助けてくれる人。
今度はその姿が揺らいで。
「あ、う、うあ…………」
次に姿を現したのは、同じ顔をした別人だった。
全身に、黒く焼けただれた皮膚と、剥がれて再生したらしい白い肌を持つ魔人。三色まだらの全身を臆することなく晒した探偵さんの姿。でも、恐ろしいのは――いつもわたしが怖気づくのはそこじゃない。
目だ。
目が。
以前よりも爛々と輝きを増して、活きている。それなのに、わたしを、どころか現実の何物をも見ていないような気がして。その目がこちらを射抜くと、震えが止まらなくなる。
手を伸ばす。どう変わろうと探偵さんは探偵さんで、わたしが縋れる人はこの人しかいないから。
でも。
いつも、伸ばした手は途中で力を失ってしまう。きっと、もう、この人はわたしを助けてはいけない。こんなふうになった探偵さんに、助けを求めようとも思えなかった。だからいつも。
わたしは目を閉じて。
わたしの夢は、ここで終わる。
目を覚ますと、目の前に貝原がいた。
「大丈夫か、戸毬木。うなされてたぞ」
「あ、うん……。大丈夫」
座っていたベンチから立ち上がる。体中がじっとりと湿って不快感が甚だしい。ただ、これは寝汗を掻いたというより外の気温のせいだろう。空は暗くなっても相変わらずの曇り空のために星空ひとつ見えない。風が吹いても、生暖かいから汗がまるで乾かない。
「寝ちゃったか…………」
あれから。
カフェテリアでいくら白鵜を問い詰めても、あいつは差出人の名前を白状しなかった。差出人――無差別ラブレター事件の犯人を指摘する必要がないと先に言い出したのはわたしだったから、口を割らせるのも難しかった。
「この件に関しては、僕があとで兄貴に説明しておくよ」
と、白鵜はそう一言言い添えてから、本来の予定であった学校の案内を買って出た。それはつまり、逢引の指定時間は今日の昼から夕方にかけてではなかったということなのだろう。
だからわたしはおとなしく白鵜の提案に乗っておき、寮の前に来たところで。
「あ、教室に忘れ物した」
と言い抜けて退散。以後こうして寮の前で張っていたわけである。
……………………………………。
なにやってるんだろう。
逢引の場所が分からないから白鵜をつける。それ自体はいい。問題はそもそも、今日のいつ逢引に現れるか分からない白鵜をどうしてわたしが張っているのかということだし、第一今日が逢引の日とは限らないじゃないか。
本当に何やってるんだろう。人の出入りもとんとなくなって、少し休もうとベンチに腰掛けてすぐ寝入ってしまったし。
おまけに貝原には見つかっている。
「やっぱりお前も気になって確認に来たんだな」
さてどうやって言い訳しようかと思っていたが、どうやら貝原の言動がおかしい。少し様子を見ることにした。
「白鵜から聞いたぞ。無差別ラブレター事件のこと。目途がついたんだな。しかもあいつが本命をもらっていたとはな。いったい犯人は誰なんだ?」
「白鵜から聞いたの?」
「ああ。あいつの下駄箱に今日、ラブレターが入っていたのは今朝の段階で知ってたし」
たぶん逢引をすっぽかされて、すごすご教室に向かう前に確認したのだろう。思ったよりお互い様の関係だなこいつら。
「でもお前も興味津々とは驚いたな。こういうの、鼻で笑って終わりにするタイプだと思うが」
「…………まあね」
わたしはこいつらに邂逅一日目からどういう人間と思われているんだ。あながち外れでもないのが余計にムカつく。
「かくなる上は俺たちであの不埒なラブレターの送り主を突き止めてやる。生徒会長に伝える時に犯人を名指しするかどうかは、犯人を見てから決めようぜ」
この一件の報告は白鵜に一任しているわたしとしては、犯人が誰であれ会長に報告する気はなかったのだが……。どっこい騙された張本人の貝原は腹に据えかねているらしい。
「……あっ。貝原、誰か来た」
暗い寮のエントランスに人影が見えて、わたしたちは物陰に隠れた。今ばかりは星と月を覆い隠す雲がありがたい。適当に建物の陰に隠れただけだったが、寮から出てきた人間はこちらに気づいていない。
そしてその人物は、間違いなく白鵜だった。白鵜は周囲を伺う素振りも見せず、すたすたと島の南側へ足を向ける。砂浜か。
「あっちは砂浜だな。白鵜のやつ、あんなところで落ち合う気か?」
「でもなんで砂浜なの? あんな見通しのいいところ、逢引には絶対不向きなのに」
「学校の施設周辺は警備員が巡回してるし、残業の教員がいるかもしれないからな。ちょっと会って話すくらいならむしろ砂浜の方が安全なんだよ」
「そっか。だから今朝も貝原は砂浜にいたんだ」
「…………おい」
あ。
「見てたのか? ていうか俺見られてたのか? 転入初日のやつに自己紹介する前に悲しい現場見られてたのか?」
「そんなことどうでもいいから静かにしてよ。白鵜にバレるから」
「どうでもよくはないだろ!」
そりゃあ本人にとっては一大事だが、今は状況が状況なので差し控えてもらう。
「いいから。白鵜を追うよ」
幸い、白鵜にバレることはなかった。白鵜は砂浜に下りると、貝原とは違って周囲をはばかることなくじっと立ち尽くした。まあ、こいつの場合は事件の調査という名目もあるからな。堂々としたものだ。
わたしたちは防波堤から顔だけを覗かせて、その様子を観察した。ちょうど今朝と同じ構図だ。
「…………本当に来るんだろうな」
「さあね」
こうなったら一時間でも二時間でも待つ覚悟だったが、すぐに防波堤にある階段がちかりと光る。誰かが灯りを砂浜に指し示したのだ。すわ警備員かと一瞬構えたが。すぐに光は消えて、砂浜にいる白鵜の元へ誰かが近づくのが見える。その人物の持つ灯りだったらしい。
「あれは…………」
「……………待て。まだ遠いからそうと決まったわけじゃ……」
隣の貝原を見る。彼は食い入るように、砂浜の光景を覗いている。
彼には残念なことに、あの人を、遠目からでも間違えるとは思えない。
「火宮さん」
赤い眼鏡。バレッタで止めた後ろ髪。そしてすらっとして無駄のない立ち姿は、火宮珊瑚に違いない。
「……待たせて、悪かったね」
「いえ、今来たところで」
二人の会話はこちらまで聞こえた。
「砂浜から白鵜くんの姿が見えて、何をしているのか気になって近づいてみた……。なんて、冗談は通じないよね」
「ははっ。そうですね。まさか珊瑚さんが事件の犯人とは思いませんでしたよ」
無差別にラブレターをばら撒いても見咎められにくい人物。
ラブレターを置くために下駄箱や他人の教室をうろついても違和感のない人物。
仮に置く予定のラブレターを持っていることを誰かに見られても言い訳のきく人物。
火宮珊瑚。生徒会副会長はその条件に当てはまる人物であり、かつそれらの条件を活用しきれる才のある人物だ。
生徒会役員、および下部組織の執行部ならば、ラブレターを置くために学校中をうろついたところで怪しまれない。彼らには事件の調査という名目があった。置くために隠し持っているラブレターが見つかっても問題ないのも同じこと。回収したラブレターだと嘘をつけばそれで終わり。
ただし、それは頭の中の合理でしかない。人を人として見ないストラテジーゲームの中の合理。実際に、恋愛禁止のこの高校で無差別にラブレターを撒くという行為のプレッシャーに耐え、かつ何かしらの言い訳を求められた際にそれをたやすく乗り切るだけの能力と自信を備えた人間。そんな人間はそういない。その筆頭が彼女だった。
「あれ? わたしが今回の一件の犯人だって分かったの? 差出人の名前まで書いてあるラブレターを、あなたが無下にするとは思っていなかったけど……。でもわたしが今回の件の犯人だって推測するとまでは思ってなかった」
「僕じゃないんですよ。僕だけだったら、ラブレターには応じてもあなたが犯人だとは夢にも思わなかったでしょうね。羽衣ですよ。彼女が差出人が犯人だって教えてくれました」
「あの子が……。へえ」
「……………………」
「……………………」
遠目で、しかも暗いから二人の様子までは伝わってこない。ただ声が、遮るものもないために澄んで聞こえるだけだった。
だから沈黙が続くと焦れる。
「ねえ、それで。えっと。……あまり引き伸ばしてもしょうがないから、答えを聞かせてくれない?」
「…………すみません」
意を決したように、白鵜が言う。そこには少しだけ、いつもの柔らかくて、だけどどこか濁したような口ぶりはなかった。
「僕、やっぱり珊瑚さんをそういう風には見れないですよ。僕にとって、珊瑚さんはお姉さんみたいな存在だから」
「…………………………」
「だから、すみません」
人がその恋愛感情を突っぱねられたとき、どういう態度を取るのか。わたしには予想もつかなかった。だけど……。
「ふふっ」
だけど、火宮さんがほんの少しだけ苦く、しかし愉快そうに笑ったのは、意外ではなかった。
「謝らないでよ。なんか、そう言われる気がしてたから」
「そうですか?」
「ええ。海坂に恋愛禁止の不文律があるのは知ってたから、本当なら進学前に告白しちゃおうかなって考えてたんだけど、こんなふうに玉砕するんじゃないかって思えて足踏みしてたんだよね。もし進学前に告白してたら、ラブレターを百通も書かなくて済んだのに。もう腕が痛くって」
おどけて火宮さんが言う。じゃあやっぱり本番は今週だったのか。
「でもありがとう。白鵜くんがきっちり断ってくれたおかげで未練もなくなったし、わたしも君を弟分として見ることに異存がなくなったから」
「……だったらよかったです。ねえさん」
白鵜がふざけて言って、それからまた二人はひとしきり笑った。
「それじゃあ帰りますか」
「そうね……。あ、でもさすがに一緒に帰ったらまずいかな。白鵜くんは先に戻ってて。わたしは夜遅く出歩いても言い訳はできるし」
「そうですね。じゃあまた明日!」
遠くにぼんやりと見える二つの白い点。そのひとつが離れていく。わたしはただ、その光景をぼうっと眺めて、今のやり取りの余韻を噛みしめていた。噛みしめるほど、当事者ではないのだけど。
「…………覗き見は感心しないかな、羽衣ちゃん!」
「………………げっ」
突然大声で、火宮さんがこちらに呼び掛ける。ばれてたのか。
「ふふん。わたしは白鵜くんほど警戒心が薄いタイプじゃないからね。バレバレだったよ。正直どうしようかと思ったけど、あなたがわたしを今回の一件の犯人だと見抜いたって白鵜くんに聞いたから、見逃しておいてあげたよ」
「…………それはどうも」
近づいてくる。ようやく火宮さんの姿を暗がりにもはっきりと捉える事ができた。
…………あれ? 貝原はばれていない?
「……………………」
隣を見ると、貝原はその場で膝を抱えてうずくまっていた。そのおかげでバレなかったらしい。火宮さんの想い人が白鵜だったのがそんなにショックだったか。こいつ明日から学校来るのかな。
「まさか羽衣ちゃんみたいに聡い子が土壇場で転入してくるとはね。運がなかったなあ」
「わたしとしては、あなたのことを会長に報告するつもりはないですよ」
「ありがとう。助かるよ」
階段を降りるのも面倒だったので、一度防波堤に上ってから、砂浜の方へ滑り降りた。僅かに傾斜がついているので、ちょっと危なっかしいが降りる事ができる。
「でも、どうしてこんな面倒なことを? 確かにラブレターを危険なく渡す方法として、大量の偽のラブレターに混ぜるというのは考えられる方法のひとつです。でも、結局落ち合うならあまり意味のある行為でもないんじゃないかと……」
カフェテリアでは、自分の思考が繋がってひとつの答えを導く快感に負けて見逃していたが、やはりこれは現実的な手ではない。もっと簡単な方法はある。たとえば、メールなどで白鵜とやり取りして、渦島の外で落ち合うとか。いかんせん島は簡単に出られないと勝手に思っていたし、わたしは携帯電話の類を持っていないからあの時は思いつかなかったけど。そういうシンプルで確実な方法はもっとあったはずだ。
なのに火宮さんは、確かに無差別ラブレター事件の犯人として目の前にいる。
「うーん。そこまで気づいちゃうか」
目の前の火宮さんは、困ったように微笑んだ。本当に気づかれたくないところに踏み込んでしまったらしい。
「すみません。その……」
「いいんだよ。うん。羽衣ちゃんの思ってる通り、無差別にラブレターを配りまくるのは手が込んでるばかりであまり堅実な方法じゃない。でもね、わたしにはもう一つ目的があったの」
「目的…………」
「さすがに全部は言えないけどね。でももやもやさせるのも悪いからちょっとだけ白状しようかな。わたしは生徒会室を一人で調べたかった。だから、こんな事件をでっち上げて生徒会の役員と執行部を仕事漬けにした。ただでさえ今の時期は海開きの準備で忙しいからね。そこにこんな事件をぶつけたから、狙い通り先週からずっと、生徒会室が空になる機会はいつも以上に増えた」
「…………………………」
「さすがに会長はあの椅子が気に入ってるのか、なかなか消えてくれなかったけど。それでも生徒会室が無人になる機会が増えて、わたしはこそこそと調査がしやすくなった。それだけだよ」
なるほど。それなら、理解できるけど。
じゃあ、そこまでして火宮さんが調べたかったことってなんだろうと、次は気になってしまうわけで。
「羽衣ちゃん。もう夜も遅いし、帰ろうか」
「は、はあ……」
火宮さんが後ろに回り込んで抱き着いてきたために、わたしの思考はそこで止まった。
「明日からも授業はあるんだし、羽衣ちゃんは病み上がりなんだからよく食べてよく寝ないと駄目だよ。……あれ、ちょっとべたべたするね。汗かいた? 一緒にお風呂入ろっか?」
「お風呂くらい自分で入れますよ…………」
恋愛禁止令。暗黙にして絶対の戒律。
馬鹿げた事件を生み出す舞台装置。
でも、少し調べた方がいいのかもしれない。
穏やかな生活を、また足元から掬われたくはないから。
無差別ラブレター事件:恋愛禁止令高校事件録・試論 紅藍 @akaai5555
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