矯正の末路
時苑朝雪
矯正の末路
えっ、タメ口?例えばこれだけでもよかった。
軽いノリで冗談ぽく、さっと返せば良かったのだ。
土曜の昼下がり、食べログで適当に見繕ったカフェ・レストラン。
男とは、今日が初めての顔合わせだった。この2週間、マッチングアプリのDM欄で大切に育んできた「なんかいいかも」の柔らかな芽は、みるみるうちに萎れていく。
私さえ気をつけていれば防げたし、取り返せた失敗だった。
32歳にもなっていまだに心の開け閉めがよくわからない。
今回も、潔癖なくせにトロい自尊心のせいで無駄に傷ついて、腹を立てて、そのわりに何か言い返すどころか妙な訳知り顔でぐずぐずなままその場の流れに乗っかりつつ、内心もうこの男を切る準備をしている。
いつも最後には、りんごの茶色い部分みたいに、傷ついた心ごと相手の存在を切り取って、捨ててしまうしかなくなるのだ。
そもそも、何が良くて右側へスワイプしたのか。正直あまり覚えてない。顔はプロフィール写真がぼやけててよくわからなかったし、職業も身長も元々そこまで興味がなかった。
よっぽどナシなら左、それ以外は右。右、右、右、左、右、左、左。アプリを始めて3日もすれば、ただの流れ作業になる。
繋がったのは他に5人ほどいた。だけど会おうと決めたのはこの2つ年上の男だけだった。この男だけが、ずっと敬語のままメッセージを続けてくれた。私がいつまでも手放せない妙な堅苦しさに歩調を合わせてくれる文面に、「なんかいいかも」と思った。久々に芽吹いた手触りが、素直に嬉しかった。
だけど約束の時間に1分遅れてヘラヘラやってきた感じが、猫背気味の妙な歩き方が、ペラペラで中途半端な丈の、大学1年生の男の子がおしゃれだと信じてなんとなく着てそうなアウターが、すでにちょっと嫌だった。
私に全然話を振らないというわけじゃないけど、中途半端なところで話をかぶせられて、気づけばどれも男の話のとっかかりでしかなかった。私は食い散らかされた私の情報の欠片をとぼとぼ拾いながら、むっとしていると思われないようなタイミングを見計らってフォークを口に運んだ。
会うと決まってからすぐに、任せっきりな奴だと思われまいと口コミを頼りに私が選んで予約した。評判のパスタはオシャレに全振りしたせいか、妙に酸っぱかったりしょっぱかったりする。半分くらいの値段のサイゼの明太パスタが無性に恋しくなった。
でも、しばらく敬語だけはDMと同じように続けてくれたから、その一点に夢中でしがみついていた。しがみつきながら、男の言動を祈るような眼差しで見張っていた。どうかこれ以上、私の気持ちが冷めちゃうようなことを言いませんように。
男がタメ口を混ぜ込んできたとき、まずぼんやりと感心した。温かくも冷たくもない乾いた温度で、ガラスの向こうの生き物を眺めているような感じで、へえ、と思った。へえ、普通の人はこうやって敬語を崩すのか。
だけどそれは、防衛反応のようなものだった。咄嗟に気の利いた反応ができなかったから、その代わりに、「感心したことにした」に過ぎない。
本当は、断りもなく敬語をやめた男にむかついていた。なあなあな感じで、でも目は油断なく、私を試すような怯えた色を灯して小刻みに揺れているのも嫌だった。自覚すればするほど、吐き気じみたモヤモヤの熱は、後頭部の辺りを暗く濁らせはじめる。
そして気づけば自分の気持ち含めたこの場をうまくコントロールできない自分自身が猛烈に嫌で嫌で仕方なくなっていた。
◇
つい10年ほど前、地元を離れて大学へと進んだ頃は、もう少し気楽な性格だった。それまでずっと憧れていた恋人もできた。
だけど同時に、知り合いの輪が広がるにつれて、「ぐいぐいくるよね」と苦笑いを向けられるようになった。
最初のうちは、ピンとこなかった。確かに口数だけ見たら多い方だけど、そのほとんどは相手を中心に据えたものだった。学部は? どこ出身なの? じゃあ一人暮らしなんだ?
よかれと思ってせっせと私が話を振るのを、素直に喜んでくれる人はたくさんいた。
だけど5人に1人くらい、目が泳ぎ、居心地悪そうに身を固くする人もいて、残りの4人よりもそっちの方が気になって仕方なかった。内臓の隙間に冷や汗のような、心当たりのない罪悪感が積もっていった。
「そりゃ、君みたいな女がいたらそうなるでしょ」
ある夜、日課になっていた寝る前のライン通話で、恋人がうんざりしたように言った。
私みたいな女。
そんな風に縁取られたのは生まれて初めてのことで、一瞬頭が真っ白になった。だけど同時に、否応なく急速に、腹落ちしている自分もいた。端にライターで火をつけられたティッシュみたいに、惚けた顔でわからないふりをしている自分が容赦なく塗り替えられ、捻れていく。
当時は今以上に、「陽キャ」が文字通りの「明るい奴」というより、どちらかといえば「声がデカくて厚かましい奴」という嘲笑のニュアンスで使われていた頃だった。そこに「女」という要素がぐるぐる混ざって、きっと皆んなの言う「ぐいぐい」と同化していく。
途端に、それまで「ぐいぐい」という言葉で押し除けられてきた自分の存在が、猛烈に恥ずかしくなった。
敬語は、そんな居た堪れない自分を包んで隠す毛布だった。
「陰キャ」で「コミュ障」だと自分を卑下するのを覚えたのもこの時期からで、相手に不快にさせないよう、自分を小さく弱く丸めていくのに夢中になっているうち、気づけば本物の、暗くてオドオドした陰キャコミュ障になっていた。
ちなみに、その恋人とは5年続いた。
私から好きになって、しがみついて、傷ついて、そのうちくたびれてしまって、つい緩めてしまった私の手からすり抜けて、そのまま戻らなくなってしまった。
ふんわり聞いた元カノの感じから察するに、元々、「ぐいぐい」みたいなキモさのない、絶妙に控えめな女の子がタイプだったんだと思う。
ちょうど、高校の文化祭実行委員長の女の隣で静かに微笑んでいる女の子みたいな。あるいは、大学の第2外国語のクラスで自然発生的にできる男女グループで、飲み会をいつも率先して企画する女、と仲のいい、ほとんど相槌しかうたない、でも身内だけになると毒舌になる女の子のような。
どうやら、率先して口を開く女は「ああいう女」の箱に放り込まれるらしい。かといって、輪の中で瑞々しく馴染んで慈しまれるには、か弱いだけでもだめみたいだった。静かでありながらも、それなりに意地悪でずるい、そしてそんな邪悪さをあえてほんのり見え隠れさせる、賢いメスでなければならない。
そしてそのしなやかさを、世間は都合よく愛したり、憎んだりしているようだった。
◇
1時間が経った。
その間うっかり2、3回、空のカップに口をつけてしまった。男のラテの泡は、一向に減る気配がない。
この人と結婚しちゃったら、何度もこのうんざりを味わう羽目になるんだろう。思考は脳みそのニューロンからニューロンをひとっとびに駆け巡り、2度目のデートどころか最初のセックスや同棲、結婚を飛び越えて、その先に待ち受けるであろうセックスレスや離婚届という翳った未来へ広がっていった。
今日のために洗濯のサイクルの標準をうまく合わせて着てきたとっておきのワンピースも、苦労して滑らかに整えたファンデーションの膜も、少し歩きづらい靴も、小さすぎてあまり物が入らない小洒落たバッグも、全部がくすんで乾いて、恥ずかしさで汚れていく。
そのくせ私の意識の外皮は、男の自尊心が傷つかないように、せっせと相槌を打っているのだ。露骨に不満な感じを出してしまって、相手に「幼稚だ」とか「無神経だ」とか思わせる隙を与えたくなかった。もうこの先二度と会うことのない赤の他人にすら、「ああいう女」と思われたくなかった。
「……なんか飲み物、追加で頼みます?」
崩れたはずの男の敬語が、ふっと戻る。
はっとなって男のカップにこびりついた乾いたラテの泡から視線を上げると、男は不安げにこちらを伺っていた。
1時間も顔を突き合わせて座っていたはずなのに、改めてまじまじと見ると、男の顔はそれまでずっと思っていたどのイメージともずれていた。
ツヤツヤした真っ黒い目に、一本一本が鋭そうな太いまつ毛。鼻筋や小鼻は意外なほど繊細な造りをしていて、肌はやや脂っぽく所々毛穴が開いているが、どこか瑞々しさも感じられた。
多分、かっこいい人なのだと思う。だけど男のもつ美しさや魅力のどれもが、そもそも私の好みではなかった。そんなことに今更気づいて、透き通った罪悪感と、男への静かであたたかな親しみが、乾いた胸の内をほんの少し潤した。
店を出てすぐにラインを聞かれた。私はもう会うつもりもないくせに、待ってましたみたいな素ぶりをして、自分からQRコードを読み取った。
気付けば一人で住んでいるアパートの最寄りの駅を通り過ぎ、大宮駅でJRからニューシャトルに乗り換えていた。
人影がまばらになっていくにつれて、故郷の無防備な匂いが濃くなっていく。淀んだ脆弱の束に「ああいう女」と一括りにされ疎まれた幼い自分の気配が、澄んだ薄い夕焼けと一緒に私を包んだ。
スマホの画面がふと明るくなる。通知バナーには男から、「また近いうちにご飯行きましょう」とあった。
電源ボタンを押して画面を閉じる。私は寂しいと思った。途端に、静かで暖かな嬉しさが広がった。
そうか、私は寂しいんだな。ようやく捕まえた心の輪郭を、私は一人静かに撫で続けた。
矯正の末路 時苑朝雪 @j_asayuki
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