碧の揺らめき
涼やかな霜月の空気も、街灯を反射した夜の運河の煌めきも、十七の歳を迎えたばかりの六花には等しく空虚に感ぜられた。
本当はいつものように学校から帰って来て、やるべきことを済ませ、あとは風呂に入ってそのまま床に入るつもりだった。しかしながら、今日は普段と違っていた。課題を解いている途中、不意にペンが止まってしまい、そこからまた走らせることが出来なかった。
別に問題が難しかった訳ではない。むしろ、やさしいとすら思えるものだった。でも、紙に印字された文字が頭に入って来ない。
そのまま何も出来ずにプリントを眺めていると、妙な感覚を覚え始めた。焦燥のような、不明瞭な、ただ確かに不快なものが胸のうちに入り込んで侵食していくような感じがしてきた。
そのまま座っていると、じわじわと部屋の明かりの強さも、熱くも寒くもないその温度も、そして、ここにいることさえが耐えられなくなって来た。じっとしていることが出来なくなり、六花はとうとうペンを置いてしまった。
先に風呂に入ってしまおうかとも考えたが、そこで落ち着ける筈もないように感じられた。何よりも、今はじっとしているのが耐えられそうになかった。縋るような思いで六花は立ち上がると、それを紛らわすために玄関扉の方へと向かったのだった。
夜の帳が下りた後に外に出かけるなんてことは、いつもならしなかった。しかし、どうやら正解だったようだ。ほんの幾分かだけれども、先ほどの暗く重いものに囚われるような感覚が少し薄れている。
この気持ちが落ち着くまで、そうして歩いていよう。いつの間にか乱れていた呼吸を整えるよう意識をしながら、六花は近くの運河沿いの道をそのまま真っ直ぐ歩いて行った。
石畳の道の途中、以前、彼や柚月と一緒に入ったレストランのあたりに差し掛かった。すでに閉まっており、店に灯りはなかったが、いつかに彼らと過ごしたテラスが目に入る。すると、彼女の心象にその時の広く青い空と瑞々しい緑の芝生の風景、そして、どうしようもなく晴々とした気持ちが蘇った。
彼の顔を最後に見たのは、いつ頃だっただろう?
少なくとも、一年は経っていない筈なのに、それがどうしようもなく昔のことに思えた。柚月とはたまに顔を合わせ、変わらず楽しく話も出来ていたが、すぐ傍に住んでいる筈なのに、何故だか彼のことは見かけることもなかった。
間違っていると分かっていながら、もう一度だけ会いに行くことを肯定するためのおもちゃのような口実を何度考えただろう。思いつくだけで結局実行し得ないそれらのガラクタみたいな逡巡には、もうすっかりうんざりしてしまっていた。
屋形船が通り過ぎ、波の立つ音がする。いつかにあれが何のための船なのか、彼に尋ねたことがある。いつでも彼は私の問いに答えてくれた。たとえ答えられないものであっても、自分なりに色々考えて、答えようとしてくれた。彼はいつでも私のことを、真っ直ぐちゃんと見ようとしてくれていた。
それらの真実は深い部分を抉るように、彼女の意に反して、今を攻め立てた。またしても、動悸が激しくなるのを感じる。
あんなにも心地よかった筈の波の音が、今は苦しくて堪らない。あの時の安らぎが、何も知らずそれを享受出来ていた時の幸せが、もう自分には触れることは出来ないのだと、否応なしに突きつけられてしまう。
船の放つ眩いばかりのその光から逃れようと、六花はぎゅっと目を閉じ、耳を両手で固く塞いだ。そうしてただ立っていると、早くなった自分の心臓の音が聞こえてくる。外部から一番隔てられている自分だけの領域の音の筈なのに、今の彼女にはそれすらも不快に感じられてしまった。
船が通り過ぎるまで、しばらくそうしてから目を開くと、制服の自分の姿が目に入る。こんなに経ってもなお、あの日々のように着替えないままでいる自分の未練がましさに、六花は体の力が抜けて行くのを感じた。
「馬鹿だなぁ」
自分に向けたその言葉は、自然と口から漏れてしまっていた。いつも通りの変わり映えのない一日だった筈なのに、何だか体も心も酷く疲れてしまったように思える。
歩きつづける気力も無くなってしまった六花は、近くの欄干にもたれかかるように体を預けた。海水を引いているその河からは、懐かしい潮の香りがした。
意志を持って決めた筈なのに、こんなにも酷い有様になるなんて。
自身の未熟さを痛感させられ、またしても彼女は自分に自信が持てなくなってしまっていた。
彼を困らせたくない、苦しませたくない、だからこそ、誇りを持って下した決断の筈だった。でも、もう一度だけでいいから、あの全てが満たされるような想いを感じさせて欲しいという気持ちが抑えられない。それに気づく度、彼女は自分の浅ましさと勝手さを心底軽蔑するのだった。
もしかしたら、あれから頑張ってやってきた物事のいくつかの成果が現れて来たから、油断したのかもしれない。
何とか気持ちを切り替えるように、六花はそんなことを考えた。
そう。これはきっと油断であって、一時の気の迷いとか、そういった類のものだ。
そう思い、埃っぽくざらざらとした手すりを持つ手に力が入る。
きっと明日はもういつもの私に戻っていて、だから大丈夫。今はちょっと落ち込んでいるだけ。こうやって休めば、きっともう大丈夫。明日からはまた、これまでみたいに頑張れる。
自分にそう言い聞かせると、そのままぼんやりと水面に映る夜景を眺めていた。
でも、何のために?
ふと、心の奥底からそんな言葉が聞こえた。その短い言葉は他のどんな言葉よりも、六花の胸のうちに響いた。
「何のため?」
そんなのは決まりきっていて、誰にでも答えられる筈だった。目標を見つけて、それに向かって努力するのは当たり前。そうした目に見えるものに対し、努力するのを否定する人はいない。結果も出てきている。誰が見ても、間違ってなんかないはずだ。
「そんなの」
そう呟いた自分の声が震えていることに、六花は気がついた。その瞬間、頭が真っ白になるような感覚に陥った。
それはよく話に聞くような、本当に、ぽっかり空いたと形容するのが相応しい、真っ暗な穴だった。
寂しい。もう一度だけでもいい。あの人と話がしたい。話を聞いて貰いたい。私を見て欲しい。あの人に会うことが出来ない孤独なんて嫌だ。一人でいたくない。一緒にいたい。私が願うことは、それ以外になんてないのに。
六花はずっと、それがそこにあることを知らなかった。いや、それから無理矢理目を逸らして、なかったようにしていた。
それはひっそりと誰にも知られないように流した涙でも、その想いを振り払うように取り組み続けて得た成果でも、満たされるものではなかった。そのことをここに至って、思い知らされてしまった。彼のいない世界に、自分の望む未来がないことを実感してしまった。そして、この先モノクロの世界を生き続ける侘しさへの、底の見えない深い恐れに気づいてしまった。
彼と出会い、どうしようもなく素晴らしい感情が芽吹いていったある時から、自分にはそれより大切なものなど、とっくに何も無かった。
「こんなことなら」
心の中に潜んでいた叫びが絶望から漏れるように口を突いて出たが、六花はその先を言うのを何とか堪えた。それはどんなに泣き腫らしても、最後まで口にはしなかった言葉だった。
でも、いつまでも大切にしていたって。結局、願いなんて叶わないのに。
心の中で自分の冷めた声が囁いた。その囁きは客観的で、冷静で、そして、あまりにも真実味を帯びていた。それは六花に残っていた最後の矜持を削ぐのに、十分なものだった。
「こんなことなら。出会わなければよかったのに」
絶対に言うまいとしていた嘆きが、声となって口から溢れ出てしまった。その瞬間、彼女の中で大切だったものが音も無く崩れていくのを感じた。それはきっともう、戻らないものだった。
声と共に全身の力が抜け出てしまったような、不可解な感慨を六花は覚えた。頭の中では、言ってはいけないことを言ってしまったことへの罪悪感が響いている。
自分の声の余韻のようなものに浸りながら、ぼんやりと、星の見えない空を見上げる。
「あーあ。言っちゃったなぁ」
他人事のように彼女は呟いた。
その瞳からは不思議と涙は出なかった。しかし、たとえ大事に抱えていたものを手放してみたって、ちっとも楽にはしてくれないみたいだった。生まれて初めて、彼女は世界が敵になったような感慨を覚えた。
ぽつりぽつりと雨垂れが天から落ちてくる。いくらか幼い顔だちに不釣り合いな虚な目の端が水滴を受け、それは静かに頬を伝った。まるで示し合わせたような通り雨だった。黒い水面にいくつもの波紋が広がってゆく。
「こんなところだけ叶えてくれなくたって、いいのに」
次第に強くなる雨に、彼女は泣いているのか、笑っているのか分からないような表情で、口元を歪ませながら世界にそう告げた。そして、抜け殻になったかのように、そのままじっと動けず、あまり焦点の合わぬ目でただ水面を見ていた。
どのくらいそうしていたのだろう。とても長い間だったかもしれないし、ほんの数分ほどだったかもしれない。今の彼女には時間の感覚が定かではなかった。
ふと自分の周りに、雨が落ちていないことに六花は気がついた。判然としない頭で雨が止んだのかと思ったが、目の前には相変わらず無数の波紋が水面に広がっている。そこにきて頭の上で雨雫を弾く音が意識の中に入ってきた。
徐に振り返る。そして、思わず目を見開いた。
そこには、心配そうな顔をした彼が、彼女の頭上に来るように少し手を伸ばして傘をさしていた。
「なんで」
純粋な驚きと共に、言葉が口をついて出る。彼の方は、ちょっと怯むような素振りを見せた。
「えっと。柚月を姉の家まで送って行った帰り。たまたまこっち通ったら、リッカちゃんかなって」
何だか申し訳なさそうに、でも、こちらを和ませるように彼は笑顔を交えてそう話した。
もう聞くこともないんじゃないかと思っていたその穏やかな声に、六花は自分の暗澹たる心もそこに空いた穴も瞬く間に光で満たされていくのを感じた。
同時にそれまで無色だった辺りの景色が、わずかに橙がかった街灯に照らされて鮮やかに色付いていく。世界はこんなにもカラフルだったのかと、六花は改めて思い知らされた。
それは本当に魔法みたいだった。
「これは夢?」
惚けた表情で思わず呟く。
こんなにも都合のいいことが、本当にあり得るだろうか。六花は自分がいつの間にやら寝てしまっていて、ありもしないものを見ているのではないかと真面目に疑った。しかし、肌に張り付いた濡れた衣服の冷たさと、頬の熱さは確かに現実のものだった。
「ああ。ほんと信じられない偶然だよね。それより」
そう言って、彼は姉が先ほど無理矢理渡した黄色いカーディガンを脱ぐとずぶ濡れの彼女に差し出した。
「気休めくらいかもしれないけど、風邪ひくと良く無いから、よかったら使って」
差し出されたそれを、六花は言われるがまま手に取った。その際、彼の大きな手に自分の指先が触れる。それはたとえ夢であるにしたって、あまりにも幸せな夢だった。
「もしかしてだけど。お家で何かあった?」
夢現でただ彼を見つめる六花に、優しく彼が尋ねる。湿気でいつもより強くはねる癖毛に男前の渋い顔立ちが、彼女の耳を真っ赤にした。
「いえ。そうじゃなくて」
そう言ってしどろもどろな返事をしながら、あまりの単純さに彼女は自分が恥ずかしくなった。先ほどまでの後戻りの出来ないような感情がまるで嘘みたいだった。
動揺を誤魔化すかのように、渡された綺麗な上着を羽織る。すると、柔軟剤のフローラルな香りと僅かな煙草と彼の匂いがした。六花にとって、それはとても落ち着く匂いだった。
「そっか。じゃあ、これは僕のただのグチなんだけど。よかったら、ちょっとだけ聞いてもらってもいいかな?」
少し情けなさそうな顔をして、彼は六花に微笑み掛ける。彼女は多幸感に包まれながら、首を縦に振った。
「昔さ、親父とウマが合わなくて、よく喧嘩したんだよね。今思うと、別に何でもないことだったんだけどさ。でも、当時の僕にとっては深刻で、いつも結構悩んでたんだ」
それは取り留めのないような話だった。しかし、彼がこういう表情をする時のことを、六花はよく知っていた。
あぁ、いつも彼はそうだった。その話ぶりに、彼女は思う。
「近くに祖母の家があってさ、いつもそこで色々言いたいことを祖母に聞いて貰ってた。何も話したく無いときも、気が済むまでお菓子食べたりテレビ見たりして、しょっちゅうそこで不貞腐れてたな。でもそうしてると、我ながら単純なことに結構気持ちが落ち着くもんなんだよね」
そう言って、当時のことを思い出しながら、無邪気な少年のように彼はちょっと笑った。
「って、なんの話だろうね。でも、何だかリッカちゃんには話しておきたかったんだ」
上手く話をまとめられず、申し訳なさそうに彼は頭を掻きながら、聞いてくれたことに礼を言った。
泣きそうな顔をしながら、六花は思った。
感謝しなきゃいけないのは、私の方だ。
彼女のそんな心を知ってか知らずか、傘からはみ出した肩を濡らしながら、彼は優しい口調で続ける。
「リッカちゃんはとても優秀だから、そんなこともないかもしれないけど。もし、なんか嫌なことあったり、落ち込んでたりしたら、ウチでよかったらまたおいで。柚月も僕も、リッカちゃんに会えるの楽しみに待ってるからさ」
社交辞令でも何でもなく、彼は六花に心からの言葉を伝えた。
そうだった。
貸して貰った上着の柔らかなウールの温もりを覚えながら、彼女は心が救われるのを感じた。
この人は私が沈んだ気持ちの時、こうやってさりげなく元気づけようとしてくれる人だった。
その瞳からは自然と涙が浮かび、そして零れていった。
きっと、これは彼にとって特別なことではないのだろう。でも、この人の普通が、どうしようもなく私にとっては特別だ。
祈るような思いと共に、六花は自分の手をそっと組んだ。
あぁ、もう駄目だ。たとえ、間違っていたって、自分勝手だって止められない。最低だって言われたっていい。
「ありがとうございます」
溢れるばかりの想いを、久々に心から浮かべた笑みと共に彼に告げる。間違いだらけだけれども、やっと素直になれたことが、何だか清々しかった。
「お家の近くまで、このまま入らせて貰ってもいいですか?」
涙を手のひらで拭うと、何事もなかったかのように、あどけない顔で六花が問いかける。
「近くとは言わず。家まで送ってくよ」
安心したような表情を浮かべながら、彼が答える。
短い礼を述べながら、彼の方を見て、六花は少し思慮を巡らせた。そして、心の内で小さな決心をすると、彼も濡れないよう、その傘にもっと入ろうとぐいと体を寄せる。
自分としては随分と思い切った行動に、六花は顔を紅潮させ、それを悟られぬように思わず下を向く。彼の方は少し笑って何か言い、平素の様子で帰り道に向かって小さく足を動かした。彼の方を見れないまま、六花もそれに合わせて歩き出す。
心なしか、側の彼の体温が伝わってくるような気がした。そして、それを思うほどに、先ほどとは違うリズムで心臓の音がうるさい。
衣服越しに自分の肩が彼の腕に触れるくらいの距離で、六花は気づかれないようにその横顔をちらりと覗いた。そして、胸の内で高まる鼓動と熱を感じながら、静かに思う。
やっぱり、私。どうしようもなく、この人のことが大好きだ。
この空の青さを何と伝えれば良いのだろう 目取真 文鳥 @philosopher_kei
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