紫陽花の咲く季節で

 六月も暮れに差し掛かってくると、暑さが肌にまとわりついてくる。地下鉄の駅で柱にもたれ掛かり、忙しなく閉じたり開いたりする改札の音を耳にしながら彼はそんなことを思っていた。

 こちらの方になど、わざわざ用事もなければくることもないので、移動時間を多めに見積もってしまった。六花との待ち合わせの時間には、まだ十五分近くもある。もっとも、遅刻して待たせるのは避けたかったのでそこまで悪いことでもないが、こんなことならいっそもっと早めに来て、近くの喫茶店で本でも読むようにすればよかった。そんな考えに至り、彼は自らの目算の甘さにため息をついた。

 腕時計を持たない彼は、七分丈のポケットから携帯電話を取り出し、もう一度液晶の数字を確認する。まだ、一服するくらいの暇はあるだろう。紺のトートバッグに煙草の箱を確認すると、喫煙所はないかとあたりを見回した。

 その時、意図せず彼は、目の端で綺麗な若い女の姿を捉えた。いや、実際にはその娘が美しいかどうか、はっきり判別出来た訳ではなかった。しかし、たとえ離れた所で咲いていても、白百合の花が視界に入れば目を惹くだろう。同じように、遠目ではあったが、白いワンピースに身を包んだその華奢な輪郭は、どうにも目を奪われてしまう可憐さがあった。

 男の本性として気にはなってしまうものの、あまりジロジロ見るのは品がなく感じられた。そこで彼はくるりと反対側を向くと、そちらの方に上手く外へ出られそうな通路がないか目で探る。そして、どうにも定かではないが、ここで迷っていても時間がなくなってしまうからと、ふらりと一歩を踏み出した。

「あの、お父さん」

 背後から聞き馴染みのある、可愛らしい声が聞こえた。振り返ると、少し離れた所で、美しい身なりをした六花がちょっと息を切らしてこちらを向いていた。

「あれ。電車で来たんじゃ」

 先ほど目についた女性が六花であるなど露も思っていなかった彼は、若干の動揺を覚えながら、改札の方を見遣った。

「そうなんですけど、かなり早く着いちゃって。近くのカフェで時間を潰してたんです」

 息を整えながら、何だか照れくさそうにそう言うと、彼女は手櫛で髪を整えた。相も変わらず丁寧に編み込まれた赤毛が耳の後ろから肩に掛かり、首元あたりのレースの白と鮮やかなコントラストを成した。その感性を動かす六花の姿体に、彼は随分前に観たモネの女性画を思い出した。

「ああ、なるほど。僕も実はさっき、そうすれば良かったって思ったんだ」

 彼女の細い腕に掛かる薄いピンクの鞄の口から、この前彼が貸した本が覗いている。六花が自分と全く同じようなことを考えていたのが、彼には何だか可笑しく感ぜられた。

 何となしに彼がどんなことをしそうか、心のうちで思い描いていた六花は、あぁ、やっぱりと呟いた。そして、何気ない彼のその言葉に、しんみりと表情を綻ばせた。

「それで。この後の行き先はどっか決めてるのかい?ついでの用事があるようだったら付き合うよ」

 わざわざこんな洒落た街まで来たのだから、買い物か何か他の目的もあるのだろうと考えていた彼は、持ってきたビニール傘にチラリと目を遣った。昨日までは晴れていたのに、今日は正午過ぎから生憎の雨であった。

「特に用事というほどのものではないのですが」

 そう言って彼女は決まりの悪そうな顔をする。

「もしよければ、招き猫が沢山いる神社があって。そこまで行っても良いですか?勿論、雨の中歩くの大変だったら近くのカフェでも大丈夫です」

 目の前で手を合わせ、もじもじとそう提案する六花は、何だかねだりごとをする時の柚月のようだった。

「勿論、六花ちゃんがそこに行きたいなら付き合うよ。それに雨の中のお寺巡りなんてのは、風情があって良いものさ」

 大人びた格好の彼女のその幼なげな仕草に、彼は思わずクスリと笑いながらそう答える。六花は照れくさそうにしながらも、やはり嬉しそうに礼を述べた。


 街道の雨に濡れたアスファルトが、ぼんやりと黒く光を反射している。湿り気を帯びた空気は特有の質量と熱を帯びて、水無月の季節を形成していた。その中を飾り気のない鈍い透明の傘をさした彼と薄紫の洒落た傘をさした彼女が、互いの傘が触れないくらいの距離で並んで歩いている。

「それで。男に慣れるためって、こんな感じでただ世間話をするだけで良いのかな?」

 他愛ない話の切れ間に、今回の待ち合わせの本題について彼は切り出した。六花はハッとしたような素振りを見せると、雨雫の降り注ぐ空をちょっと見上げた。

「本当は、もうちょっと踏み込んだ形でお話がしたいです」

 何だか意志の籠った眼差しをしながら、六花は思い切ったような口調で彼にそう告げた。それははっきりとした態度だったが、裏腹に表情は少し強張って見えた。

「そのためにも、最初に一つお願いをさせて貰っても良いですか?」

 彼が返答の仕方に躊躇していると、控えめな彼女にしては珍しく、畳みかけるようにそう尋ねる。ここ最近のことだが、彼女が以前よりも積極的になったように彼には感じられた。

「勿論。僕なんかで叶えられるかどうか分からないけど、先ずは何でも言ってごらん」

 相も変わらず心の内ではドギマギしつつ、余裕のある落ち着いた様子を繕って彼はそう返した。

「呼び方、なんですけれど」

 そう言って彼女は少し上目遣いで彼を見る。

「出来れば、今までとはちょっと違う形で呼ばせて貰えると嬉しいです。例えば、下のお名前とか」

 彼からすれば、それはなんでもない相談だったが、彼女はとても躊躇するような様子でそう話した。それを聞いて、確かに外でも彼女を”お父さん”と呼ばせてしまっていたことに、彼は自分の気遣いのなさを思い知らされた。

「配慮出来てなくてすまない。確かに、柚月もいないのにお父さん呼びは変だね。僕の下の名前は柳之介というんだ。あだ名でもなんでも、好きに呼んでくれて構わないよ」

 名字で呼んでくれても良いような気はしたものの、特段問題もないので彼は要望通り、あっけらかんと答えた。一方で六花の方はそれを聞いて、パッと表情を輝かせる。

「”りゅうのすけ”さんって言うんですね。じゃあ、これからはお名前で呼ばせて貰いますね」

 そう告げると、彼女は秘密の合言葉でも教えて貰ったかのように、小さくもう一度その名前を呟いた。

 彼は家族か旧友以外にその呼び方で呼ばれることがないので一抹の新鮮さを覚えると共に、呼び方の違いの何がそんなにも彼女を喜ばせるのか不思議に思った。しかし、理由はともあれ、幼い少女のように嬉しそうなその様子を微笑ましい心持ちで眺めていた。

「あの、どのような字を書くのですか?」

 六花は彼の方を向き直し、思いの外、大して面白くもないその名前について興味津々で尋ねる。

「”りゅう”は柳の字で。”の”はええっと、なんて言えば良いのかな」

 そう言ってマゴついた後、彼は携帯を取り出して、検索画面に自分の名前を入力して彼女に見せた。彼女は傘を近づけて覗き込むと、やはり興味深そうに、画面に映ったその文字を眺める。

「穏やかで全部を受け入れてくれるような、柳之介さんらしい素敵な字ですね」

 満足そうな表情を彼女は浮かべると、彼自身あまり深く考えてみたこともないその名前の印象を述べた。

「そんな風に言って貰ったのは初めてだよ。六花ちゃんこそ、君の花のような可憐さと雪のような綺麗な儚さがよく表れていて、素敵な名前だと思うよ」

 気恥ずかしさを感じながら、半ばお返しのつもりで彼は自分の率直な感想を述べた。しかしながら、言い終えた後で、いい歳した自分がうら若い女の子に気味の悪いことを言ってしまったことに気づき、苦々しい思いがした。

 彼の感覚が的を得ていたのか定かではないが、それを聞いた六花は紅潮して口元を少し引き攣らせたかと思うと、すぐに目を逸らしてしまった。

「柳之介さんはいつもさらっとそういうこと言う」

 彼に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぼそりと彼女は呟いた。

「えっと。六花ちゃんは中高は女子校だったと思うけど、大学で同い年くらいの男の子とはやっぱり話しづらいものかな?」

 やはり気を悪くさせてしまったかと、彼は作り笑いをしながら、話柄を変えようとそう尋ねる。その質問に平素の様子に戻ると、六花はちょっと考え込むような素振りを見せた。

「そうですね。そういった人と関わる機会がほとんど全くなかったので、正直、接し方がよく分からないというのはあります。話も合わないですし」

 それまでの雰囲気とは違い、何だかあまり感情の乗ってない口調で彼女は淡々と答えた。それを聞いて、なら尚更なぜ自分なのだろうと彼は疑問に思う。しかし、おそらく彼女なりの苦肉の策といった所なのだろうと思い至り、それを腹に落とした。そして、そんなことを思いつつ、ここで彼はふと不可解な点に気づいた。

「あれ。でも六花ちゃん。そういえば、高校の時、彼氏いたんじゃ」

 彼がなんの気無しにそう言うと、六花は心底驚いたような顔をして、彼の方を見遣る。

「どういうことですか?私、今まで一度も誰かとお付き合いしたことありませんよ」

 六花は落ち着いた口調でそう言ったが、その眼は心外だとでも言わんばかりに強い非難を訴えていた。心なしか、瞳孔すら開いているように見える。

「え。そうなの?だって、確か二年前くらい。ウチに全然来なくなった時あって、プライベートな事情って聞いたからてっきりそういうことだったのかと」

 今まで彼女から受けたことのない圧にしどろもどろしながら、彼はそのように弁明をした。

「あの時は、柳之介さんのことを!」

 其処まで言って六花は不意に口を止めた。そして、そのまま俯くと、いえ、なんでもないです、とだけ言い、自分の口調が強くなってしまったことを詫びた。

 彼の方はまたしても不味いことを言ってしまったのかと自責の念を覚えると共に、過去の自分が何かしでかしてしまったか、当時のことを必死に思い出そうとする。

「あの。柳之介さんは、私が誰かとお付き合いしてると思って、どう感じたんですか?」

 弱々しく目線を彼に渡すと、彼女は何だか辛そうな様子でそう尋ねた。あまり定かではなかったが、彼は頭を捻ってそう遠くない筈の記憶を思い起こす。

「正直」

 そう切り出して、彼は一呼吸置く。

「やっぱり最初はいつも来てくれた六花ちゃんに会えなくなっちゃったし、このまま会えなくなるかもしれないと思うと、それは素直に寂しく思ったかな」

 頭の中を整理しながら、辿々しい口調で彼がそう述べる。一方、六花はその回想を真面目な面持ちで聞いていた。 

「でも、それは今も変わらないけど、六花ちゃんが幸せなら、それが僕にとっても一番だと思ったかな。それに、もし何かあってまたウチに来てくれるようなら、君の居場所の一つとして、いつでも柚月と待っていようと思ってたよ」

 漸く最後まで言い終えたそれは、彼の本心だった。またしても六花の意に沿わぬことを言ってしまうかもしれないと思ったが、彼女のその真剣な眼差しに取り繕った言葉ではなく、誠意で応えるべきだと感じた。

 嘘偽りなく語った彼のその言の葉と穏やかな表情に、六花はある日の追憶と共に、安寧と物悲しさが体の奥底に落ちていく感覚を覚えた。思い返せば彼がそんなことをいつかと変わらずに口にするのは、当然だった。だからこそ、彼女にとっての彼は彼で、いっそのこと全てを終わりにしてくれる筈も、自分が終わらせることも出来る筈がなかった。

 寂しげな笑みが漏れそうになるのをなんとか堪え、ぐっと顔を上げる。そして、彼のその瞳を見つめて、小さく息をついた。

「なら、柳之介さんは」

 今日、やっと知ることが出来た彼のその名前を呼び、六花は微笑みを浮かべる。

「今でも、私を待っていてくれますか?」

 そう尋ねた彼女は、自分の心がこの雨空とは対照的に、不思議と晴れ渡っているのを感じた。雲ひとつ無い青空が頭上に広がる街中のように、そこから強くなる影をなくすことは出来ないけれど、そこに今までの迷いはない。

 その問いかけに、彼はそれがどういう意味なのか考える。その真意を問おうと喉元まで言葉が出かけたが、そこで止めた。彼女の自分を真っ直ぐ捉えるその眼差しには、見覚えがあった。

 随分と長い時間を経て、彼は六花の感情の一つの可能性に思い至った。そして、なぜ、今までそれを考えもしなかったのか、自分の盲目さに驚きの念を感じずにはいられなかった。

「それは」

 その先、何と答えればいいのか、今の彼には分からなかった。そのまま、何も言うことが出来ず、静かな雨音がただ二人を包み込む。

 そんな彼の様子を見て、六花はゆっくりと僅かに瞼を閉じた。

「良いんです。知ってますから」 

 そう告げて、彼女は柔らかな表情をする。胸の内が、何だかとても温かかった。その温度を確かめるように、そっと手を当ててみる。

「でも。それでも構わないって思えるのが、今はただ、嬉しいんです」

 どうしようもなく美しいその奇跡から溢れる想いは、自然に声として形を成し、この世界を緩やかに透過していった。

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