浮立つ足と宝石箱
自宅での仕事の合間。息抜きにコーヒーでも淹れようと、彼は自室から居間へと向かった。先ほどから、パソコンを見るときに使う眼鏡が見当たらない。
「柚月。お父さんの眼鏡見なかったか?」
そう尋ねながら扉を開けると、娘と長机の上に教材を広げる六花と目が合った。
「あ。いらっしゃい」
集中していた所為か、客人の来訪には露も気づかなかった。娘もこちらを見ると、何故だか眉を吊り上げた。
「頭に乗ってるじゃん!」
柚月はそう言って、彼のおでこの方を指さした。咄嗟に彼は額の辺りを探ったが、確かにそれは其処に掛かっていた。
「おお!ほんとだ!全然気づかんかった!」
彼はそれが一番身近なところにあったことと、呆けた老人でもしないような自分の間抜けさに思わず驚嘆の声をあげる。
「しっかりしてよね!リカちゃんいるのにパパがそんなんじゃ、アタシが恥ずかしくてしょうがないよ!」
柚月がそう言ってわざとらしく腰に手をやった瞬間、彼の眼鏡が片方だけ急にずり落ち、可笑しな形で顔に掛かった。言った側からの父の醜態に、娘は小さく悪態をつく。
一部始終を見ていた六花は、いつものように少し堪えた笑いをしている。そして、普段と変わらない調子で、お邪魔してます、と言って軽く会釈をした。彼はこの間のことなどなかったかのようなその様子に、何だかほっとしたような、拍子抜けしたような感覚を覚えながら、照れくさそうに首の後ろに手をやって会釈を返した。
「リカちゃん。パパなんか放っといてお勉強しよ」
柚月はそう言うと、恥ずかしそうな、少し怒ったような顔をして、筆箱からいくらか短くなった鉛筆を取り出した。六花の方は、笑いを抑えながらそうだね、と言うと、机の上の学科の課題に目を向けた。
彼の方は、折角集中しようとする彼女達の気を散らさぬように、そそくさと居間の横の台所に滑り込んだ。そして、静かにやかんに水を入れ、それをそっと火にかける。
少しの間、やることもなく、キッチン天板を指でとんとんやっていたが、娘がしっかりと勉強出来ているか気になった。そこで彼は湯が沸くのを待つ間、彼女たちに気づかれぬよう、コンロの前の袖壁からこっそりその様子を覗き込んだ。
柚月は普段は騒がしいが、六花が来ると少し見栄を張るのか、落ち着いて目の前の教材に取り組んでいた。彼が娘に勉強を教える時はてんで集中しないので、毎度のことこの変化には驚かされるが、何にせよ、願ってもないことである。
娘の直ぐ隣に座る六花の方はというと、自分の課題をこなしながらも、時折娘に気を配り、彼女の進捗状況を確認してくれているようであった。そんな様子を目の当たりにすれば、親としては家庭教師代を払いたい位で、彼女の献身ぶりには頭が上がらなかった。
彼がそんなことを思いながら心の中で平伏していると、不意に六花と目が合った。覗き見をしていたことから、彼はバツの悪い思いを禁じ得なかった。それとなく目を泳がせながら、どう反応しようか考える。
そんな心中を知ってか知らずか、彼女はちょっと驚いた顔をした。しかし、目を逸らすでもなく、そのまま観察するかのようにじっと彼を見ていた。そして、不意に目を細めたかと思うと、にこりと彼に笑い掛けた。
その笑みに彼は何故だかどきりとした。そして、ぎこちなく作り笑いをすると、手をヒラヒラとして壁の陰に隠れてしまった。
すっかり熱せられたヤカンからは、白い水蒸気がその伸びた口から出始めている。
六花のその笑みは、少し照れくさいような、あどけなさの残る表情だった。しかし、彼の気のせいかもしれないが、そこに何か熱を帯びたような眼差しを感じた気がした。そして、その所為か、その時の彼女の面持ちは、彼が今まで見たことのないものに思えてしまった。
彼はすっかり湯の沸いたやかんを持ち上げる。しかし、火がつけっぱなしなのに気づくと、慌ててそれを置き、コンロのハンドルを回した。そして、再びその取っ手を手に取ると、慎重にコップの上に据えたコーヒーバックの上に湯を注ぐ。
心のどこかで六花は娘と同じように、まだまだ子供だと思っていた。しかし、先ほど彼女が見せたのは、おそらく彼の知る無垢な少女の表情ではなかった。理由は不明瞭だったが、ざわざわとした感傷とともに、その情景が彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
業務をひと段落させると、人差し指の中腹で眼鏡を持ち上げ、鼻の付け根を揉みながら、彼は疲れを確かめるように強く目を瞑った。パソコン横にある愛用の陶磁器のカップを覗き込むと、案の定、中は空だった。肩を回して大きく息を吐き、一服しようかと思った時、自室の扉を叩く音が聞こえた。
「あぁ、ちょっと待ってね」
自然とその音の主が六花であるのを悟った彼は、ラップトップを閉じ、あまり待たせぬようにと立ち上がる。扉を引くと、やはり彼女が立っていた。しかしながら、いつもは付き添って来る柚月がいないのは意外であった。
「もしかして、この間貸した本のことかい?」
軽い違和感を覚えながらも、別にそう感じる必要もない間柄の筈なので、彼は平素の様子で、この間渡した本のタイトルを思い出しながら尋ねた。
「いえ。そうではなくて」
彼女としては彼の話柄が予想外だったのか、きょとんとした表情をした。しかし、何かに気づくと部屋の中に目をやった。
「この香り」
そう呟いて、彼女はそっと目を瞑る。すると、瞼の下のその長い睫毛が、ふわりと揺れた。
「あぁ。これはジャスミンだよ」
ちょっと遅れてそう言うと、彼は僅かに自分の体を退け、自室の天井間際で咲く白い花を指差した。しかし、位置的に見え辛いのか、彼女は覗き込みながらも首を左右に動かす。もっと見えやすいようにと、彼は部屋の中ほどに入り込んだ。すると、彼女も招かれるようにつられて入って来た。
「なんだか、金木犀の香りに似ていますね」
その小さな白い喇叭のような花を見つめながら、六花は興味深そうに感想を述べた。彼の方はというと、散らかった自室の有様から落ち着かない様子でそれを聞いていた。
「うん。確か、同じモクセイ科かなんかだった筈だ。ナイスセンス」
彼女の足元に積まれた本をヒヤヒヤした思いで見ながら、彼はその洞察力に関心を覚えた。普段はおっとりしていてあまりそう見えないが、彼の知る限り、彼女はかなり賢い部類の人間だった。
「お父さんはいつも私に新しいことを教えてくれますね」
そう言って、彼女は嬉しそうに輝くような笑みを見せた。
「君は柚月と違ってとても素直だから、教え甲斐があるよ」
少し照れくさそうにそう言うと、彼は頭の後ろをボリボリと掻いた。実際、彼女は彼の些か変わった種々の趣味に興味を持ってくれることがほとんどで、彼が少し遠慮気味に説明すると熱心に聞いてくれた。
「本棚。増やしたんですか?」
最近やっと組み立てた、まだ空っぽのそれに目を移し、彼女が尋ねる。彼は現状ただの白い棚を見て、決まりの悪そうな表情を見せる。
「スペース足りなくて床に適当に積んでたら、流石に柚月に怒られてね。ただ、これを機に分野ごとに整理して並べようと思ったけど、面倒でそのままだ」
正直に彼は答えたが、情けない体たらくに、やはり余計なことまで言ってしまったと自責の念を覚えた。しかしながら、六花はそんな彼の思いは他所に、既に本の詰まった本棚と無造作に床に置かれたそれらを眺め、ちょっと考える素振りを見せた。
「これはあくまで私の考えに過ぎませんが、別に本棚を整理し直す必要はないんじゃないですか?だって、一応この並びはお父さんが今まで読んできた順番に並べられていて、それはそれで一つの順序です。新しい順序がそれに勝る保証はありません。それに、わざわざ並べ直そうとすると、その分時間と労力がかかります」
幾分か背の高い彼を少し見上げる様に見遣ると、六花はわざとらしくその人差し指を立てながら、彼に悟すようにそう言った。
「それはこの間貸した本の受け売りかい?なるほど、確かに実践しなければ、その知識に意味はないね。やはり君は優秀な生徒のようだ」
実際彼は彼女の理知的な提案に感心を覚えながら、ちょっとおどけたようにそう返す。
「お父さんのお陰です」
彼女は誇らしげにそう言ってみせたが、それがなんだか彼には眩しく見えた。そして、お世辞にしても、そう言ってもらえたことを素直に嬉しく感じた。
「ところで、僕に何か用があるんじゃないのかい?」
ふと彼は当初の経緯を思い出し、彼女に尋ねる。彼女の方もそうだったと言わんばかりに、軽く手を口に当てた。
「次の約束のことで来たんですよ」
さも当然のことのように彼女はそう告げたが、彼の方はなんのことだったか思い出せず、宙を見上げる。
「この間話した、例の二人きりの」
少し怒ったような、照れくさいような顔をして彼女が言った言葉に、彼は突如として先日の話を思い出した。
「あぁ!あのことね!」
思わず彼はそう漏らしたが、柚月に聞かれたのではないかと入り口の方に意識を集中させた。特に向こうから物音はない。どうやら気付かれてはいないようだ。
「それで、次なんですけど。ちょっと三軒茶屋の方まで行って、そこで歩きながらなんてどうですか?」
その鮮やかな赤毛の三つ編みを無意識にいじりながら、彼女はどことなくそわそわと彼に尋ねる。
「確かにそれはいい考えだね」
彼の方はというと、人目が今のところ一番の懸念事項だったので、そこまで行けば知人もいないだろうと、しめたとばかりに親指を突き出す。その瞬間、少女の面影を残す彼女の相好が俄かに綻ぶ。
「じゃあ、決まりですね!」
六花は未だ幼さの残る調子で、思わず喜びの声を上げた。刹那、彼女は足元の本にでも足を取られたのか、大きく体勢を崩してその華奢な体を後ろに傾ける。
すぐ側に立っていた彼は、その光景をスローモーションのように見ていた。そして、どこにそんな機敏さがあったのか、咄嗟に手を伸ばすと、彼女の肩を抱いてその体を引き寄せた。
自分でも信じられない俊敏さによって、間一髪転倒は避けることが出来たが、彼は自分の心臓が激しく脈を打つのを感じた。
一方、六花は目の前にある彼の顔を吃驚したような目つきで見ていた。しかし、少しすると口元を緩ませ、ありがとうございます、と細い声で礼を言った。
その言葉で彼は我に返ると、文字通り目と鼻の先にある、鈴の音のような綺麗な声を吐くその瑞々しい唇と、どこか潤んだようなその瞳に目を取れらた。優しく包まれるように、どこか落ち着く六花の匂いがする。そして、強く掴めば壊れてしまいそうな彼女の体、その体温を指先で感じると、抱いていたその手をパッと離した。
「あの。本当にすまない。散らかっているせいで」
そう言って彼は謝るも、平素と違い、自分でも随分と落ち着いたおとなしい口調であるのに気がついた。そして、何だか呆気に取られたような面持ちでそのまま彼女のことを見ていたが、しかしそれでいて、何に驚いているのか分からないような不思議な心持ちであった。
「いえ。私の方こそ」
六花のその短い言葉は、少し震えているような感じがした。そして、そのまま惚けた面持ちで、無精髭の生えた彼の相貌を見つめていた。
まるで時が止まったかのような間が訪れた。しかし、彼はいつの間にやら六花と見詰め合ってしまっていることに気付くと、さっと目を逸らした。そこで六花の方も頬の熱さを感じながら、俄かに下を向いた。取り繕うように、彼女は先ほど踏んでしまった本を見つけてそれを拾い上げると、積み重ねられた本の上に丁寧に載せた。
「じゃあ、細かいことはメッセージで連絡しますね」
そう言って彼女は、彼から目を逸らしたまま、入り口に体を向ける。他方、彼の方は彼女を見送りながら生返事をしたが、なぜ彼女が自分の番号を知っているのかぼんやりとした頭で疑問に思った。しかし、六花と柚月を連れて花火を見に行った際、彼女に携帯の番号を伝えた時の記憶が直ぐに脳裏に浮かんだ。
扉を閉めようと、六花が徐にドアノブに手を掛ける。その時、何かを思い、そのまま少し動きを止めた。そして、不意にすっと振り返ると、手を後ろで組み、呆けた彼の目を真っ直ぐ見つめ直した。
「でも」
そう言って、六花は頬を赤らめながらも、悪戯っぽい笑みを見せる。
「お部屋散らかってるの。お父さんらしくて、私は悪くないと思いますよ」
上機嫌そうに彼女はそう言い残すと、そのままゆっくりと扉を閉めた。そして、軽やかな足取りで、華やかな香りのするその部屋を後にした。
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