電話口。繰り返す悪夢。茉莉花の香り

「柚月はもう寝た?」

 電話越し、姉の葉月が煙草に火を点ける彼に尋ねる。

「葉月の家に歩いて行ったからか、珍しくさっき」

 手に持っていたライターを自室のサイドテーブルに置くと、彼はゆっくりと煙を吐いた。

「またタバコ吸ってるの?柚月にはあんたしかいないんだから、いい加減止めなさいよね」

 葉月はいくらか棘のある口調で、眉を顰める彼に何度したか分からない忠告をする。

「人間、死ぬ時は死ぬさ。それに、僕が煙草で死ぬにしても、その時には柚月もきっと家庭を持ってて、僕なんかもう必要なくなってるよ」

 彼は皮肉めいた笑みを浮かべながら、何度したか分からない言い訳を返した。

「そうなったからって、父親がいなくなって良いことにはならないわよ。それに、あんた自身のこれからだって、ずっとあるでしょうに」

 姉のため息交じりの説教が、電話口の向こうから聞こえてくる。

「勿論、僕だって出来る限りの範囲では長生きするさ。孫の顔も見たいしね」

 そう言って彼はまた煙を吐くと、天井に燻るその白い靄をぼんやりと眺めた。それは塊を成したかと思うと、緩やかに霧散してゆく。

「それだけじゃなくて」

 葉月はそう言うと、珍しく言い淀んだ。顔は見えずとも、姉との長年の関係から、彼女のためらう様子が彼には手に取るようにわかった。

「詩織さんのことがあるから中々言えなかったけど。お姉ちゃん、あんた自身の次の幸せも見つけていって欲しいの」

 それは姉にしてはいくらか遠回しな言い方だったが、薄々いつかは言われるだろうと覚悟していた内容だった。今までもこの話題に触れられるタイミングはあっただろうが、姉の方で少なからず躊躇の念があったのだろう、彼の方でそれとなく避けることが出来ていた。

 彼は彼女に聞こえないように、静かにため息をついた。

「僕は別にもう、パートナーなんて欲しくないよ。それに柚月のことで手一杯さ」

 姉に納得して貰うよう、彼ははっきりした口調でそう告げる。

「柚月のことはある程度お姉ちゃんに任せればいいじゃない。休日や夜にデート行く時くらい、お姉ちゃんが面倒見てるわよ」

 予想通り食い下がる姉に対し、彼は他の言い訳を考えようと、肘掛け椅子にもたれかかり宙を見上げる。そして、亡き妻への想いなんかをそれっぽく語れば、流石に引いてくれるように思い、適当な言葉を口に出そうとしたが、すんでのところで思い止まった。

「第一、子持ちのおっさんとデートしようなんて思う物好き、そうはいないよ。しかも、喫煙者なんて尚更さ」

 取ってつけたように彼は他の言い訳をこしらえると、満足げに煙草の煙を吐き出した。

「あら、あんた学生時代モテてたし、ウチの会社の若い子も今のあんたの写真見てキャーキャー言ってたくらいだから、いくら子持ちの喫煙者でも、探しゃ一人や二人、見つかるわよ」

 姉は彼のとっておきの返しなど意にも返さず、矢継ぎ早にそう捲し立てると、その得意顔を軽々と崩した。どうもこういった話題に関しては、昔から葉月の方が一枚上手である。

「キャーキャーは絶対嘘だし、なんで人の写真勝手に見せてるの。とにかく、僕はそもそも他の誰かと一緒になるつもりもないし、柚月の成長を見守るだけで十分なの」

 彼はそう言うと、まだ説得を続けようとする姉の電話を適当な理由をつけて切った。

 そのまま暫く皮の椅子に体を預けながら、煙草の残りを吸い終えると、彼はやれやれと大きく伸びをした。そこでふと、昼間の出来事を思い出した。

 結局、あの後、泣かせてしまった罪悪感から六花の申し出に断り切れず、なし崩し的に彼女の要望を聞き入れる形になってしまった。周りの目や要らぬ誤解を避けるために、娘を同席させることも検討したが、それが彼女の意に沿ったものでないことは明らかだった。

 正直なところ、話をするだけなら、二人きりで話そうが、娘が側にいようが、効果は変わらないように彼には思えた。ただ、どんなものを彼女が意図しているのか想像もつかないが、他の人にはあまり聞かれたくない話題である可能性もある。いずれにせよ、そもそも今回の話は、信用してくれているからこそ、彼女が自分に相談してくれたのであって、彼女の許可なしに娘も含めた他人にこのことについて知られてしまうのは、その信頼を裏切るような心持ちがして憚られた。

 また、これはあまり考えないようにしていたが、このことについて他の誰かが知ってしまうことで、何か彼が考えたくないような意見を聞く羽目になるかもしれない気がして、それが何だかとても恐ろしく感じられた。

 知らず知らずのうちに息を大きく吸い込むと、意図せず彼は深いため息を吐いていた。六花は自分を頼ってくれるからこその相談だったし、姉も自分を心配してくれるからこその説得だったので、そんな風に感じてはいけないと思いつつも、肩に何かが重くのしかかるような感覚を覚えた。

 物憂げな目を横にやると、吸い殻で埋め尽くされた灰皿が視界に入る。捨てるのが億劫で、騙し騙し積み上げていたが、流石に限界のようだ。漸く彼は立ち上がると、くしゃくしゃになったその残骸たちがこぼれ落ちないよう、金属でできたそれを慎重に机から持ち上げた。

 台所まで行き、シンクの上で吸い殻を薄いビニールの小袋に入れる。ぼんやりとそんなことをしている最中、ふと彼は六花と特別次の約束を決めた訳ではないことに気がついた。また、よくよく考えてみれば、姉の方とは暫く話をする用事もない。そこで彼は、どちらの話もまだ猶予がある上、場合によっては向こうの気が変わるかもしれないと思い至った。ステンレスの灰皿を洗いながらそんなことを考えていると、何だか気持ちが軽くなるような思いがした。

 蛇口を閉めたところで、彼は先日飲んだウィスキーのことを思い出す。確か、ボトルの底から半分近くまで残っていた筈だ。運が良いことに、今日は娘ももう眠ってしまっている。丁度、読み残した小説も枕元に置いてある。

 彼は颯爽と振り返ると、目の前の、ずんぐりとした縦長の戸棚の扉を開いた。そして、先ほどの憂いごとなどすっかり忘れ、鼻唄交じりに目当てのものを漁り始めた。


 その晩。彼は夢を見た。それは、よく見る夢の内容だった。

 いつの間にやら彼は、艶やかな黒髪の美しい女と、ごつごつとした舗装されていない道を歩いている。よく見れば、そこは大学時代に何度となく歩いた堤防の上で、手を繋いでいるのは学生時代の妻だ。不思議なことに、彼の方は幾分か年老いた今のままの姿をしていて、いつもの不格好な短パンとシミのついた白いTシャツを着ている。

 彼女は、何を言ったのか分からないが、何か冗談を言って、彼に笑いかけた。彼も何を彼女が言ったか判らない筈なのに、それが可笑しくて笑った。彼女の柔い手からは温もりが伝わって来て、それが何とも心地よく感じる。見上げれば、いつか見た桜の花が、ちらちらと、この世とは別のもののように舞っている。

 そこで彼は、これが夢なのではないかと、ふと思った。どうにも、自分はこの夢を何度も経験しているように感じる。そして、目が覚める度に、そんな夢を見たことを後悔したような覚えがある。

 これが夢であるならば、それはどうしようもなく浅はかで、無意味な夢だった。こんな所で散歩をしたところで、何かが変わる訳でもない。

 しかし、夢の中の彼は、気づかないふりをして、このまま、堤防の先まで行こうかと、彼女に笑いかける。彼女が返した言葉は聞き取れなかったが、清々しい顔をしているから、どうにも同意してくれたみたいだ。

 夢にしては、あまりにも意識がはっきりしているように思える。だから、今回こそは、夢ではない筈だ。彼は彼女のその白い手の生々しい感触に、ほっと胸を撫で下ろす。

 しかしながら、直ぐに柚月がいないことに気がついた。そして、どうしても、娘がどこにいるのか、また、自分がいつどうやってここに来たのか思い出せないことに気付き、やはりこれが夢であることを悟った。

 春麗らかなその幻想の中、これは偽りだと、漸く彼は自分に言い聞かせる。

 こんなにも幸せな時間は、実際には存在しなかった。それに、亡き妻との学生時代にも、また、その後にも、こんな感情を彼女に抱いたことなど、心当たりがなかった。こんなに安らかな気持ちになったことなど、身に覚えがなかった。

 この想いは執着に過ぎない。彼は自分に言い聞かせる。これはもう届かないものに対する未練であり、偽りの心情だ。そんなことを思い、水面を煌めかせる眼下の川を、寂寥とした面持ちで見下ろす彼の頬に、いつかの彼女がそっと口付けをする。

 夢の中の彼は、その柔く瑞々しい感触に、胸の奥が熱くなり、喉の奥がつかえるような心持ちがした。そして、どうしようもなく、これが夢でないことを祈った。

 振り返り、彼女のその朧げな顔を、今一度確かめようとする。そこで目が覚めた。

 辺りは薄暗く、しんとしている。頭を少し横に向けると、暗がりの中、見慣れた自室の光景が目に入る。ここでの生活は彼がこれまで築き上げてきたもので、しっかりと輪郭を持ったものであった。昨晩飲み過ぎた火酒の余韻を頭に覚えながら、いつも通りの天井を眺め、先ほどまで見ていた景色とその意味を彼は思い返していた。

 頭上の壁を這う蔦から咲く茉莉花の優美な香りが、彼の鼻をくすぐった。室内で育てるのは難しいかと思ったが、ちゃんと枯れずに花をつけてくれて良かった。彼は少し満足げに笑みを浮かべた。そして、やはり自分がどうしようもなく愚かで、浅はかであると感じた。

 もし、さっきの、覚めないでくれという願いが、人が愛と呼ぶものであるのなら。本当にあれが、人々が平然と口にするその感情であるのなら。そんなものは、自分なんかが触れて良いものではないと、彼は思った。

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