この空の青さを何と伝えれば良いのだろう
目取真 文鳥
五月雨
五月の暮れの昼下がり。埃のついて薄汚れた網戸の外から雨音がする。少し短くなった煙草を吹かしながら、彼は灰色の中に佇む、中庭の木々の緑をぼんやり眺めていた。緩やかに流れ込む湿った空気が足元に触れ、少し肌寒く感じる。何か得体のしれない生き物にぬるりと舐められたような感じがして、彼はほんの少し眉を顰めた。
暫くの間、あてもなくその音を耳にしていると、不意にチャイムの音がして、不規則なホワイトノイズが遮られた。彼はもうひと吸いだけすると、灰皿の上に積み重ねられた吸い殻にそれを押し付け、肘掛け椅子から渋々立ち上がる。宅配を頼んだ覚えはないし、娘も今日は姉の家に遊びに行っているから、その客に心当たりはなかった。意図せぬ来訪に少し嫌な感じを覚えながら、再び鳴ったその音に、はいはい、と繕った返事をした。
玄関扉を開けると、そこには見覚えのある顔の少女が、見慣れない服装で立っていた。
「あれ?今日って柚月と待ち合わせしてたの?」
彼は戸惑いを感じながら、上擦った声をあげた。
「いえ!別にそういう訳では」
彼女がそう言って大袈裟に手をふると、肩に掛かる三つ編みが小さく揺れた。彼はよく忘れごとをする娘が約束をすっぽかしたのだろうと思い、目の前の気まずそうな面持ちを見て、胸が重くなるのを感じた。
彼女は隣家に住むいわゆるご近所さんで、娘と歳が7つかそこら離れているのに、小さい時からよく遊んでくれていた。快活な娘とは対照的に穏やかな性格だったが、何故だかお互い気が合うようだった。面倒見の良い気質なのだろうが、娘が小学校の高学年になると、たまに家で勉強まで見てくれるようになった。いくら仲が良いとはいえ、こちらとしてはやはり面倒を見てもらっている立場なので、彼は常日頃からどこか負い目のようなものを感じていた。
「ごめんね。本当に。柚月にちょっと電話掛けてみるね」
彼はそう言って、よれた半ズボンのポケットから、手早く携帯電話を取り出した。
「いえ!本当に違うんです!」
彼女にしては珍しく強い口調だった。あまり頼りない姿を子供には見せまいと心掛けていた彼だったが、思わず呆気に取られてしまう。そして、少しの間、次の言葉が思いつかないまま、どことなく潤んだように見える彼女のその瞳を真っ直ぐ見据えていた。いつもは必ずと言っていいほど娘も一緒にいるので、彼女と面と向かって二人きりで居ることに些か奇妙な感じがした。
「えっと。もしかして、柚月と喧嘩でもしたとか?」
彼が探るように尋ねると、彼女はいえ、と小さく答えた。正直なところ、年頃の女の子が何を考えているのか自信を持てたことなどなかったが、今回に関しては見当もつかなかった。
頭の中の整理が追いつかず、困惑を隠しながら目を泳がせていると、ふと、彼女の肩の綺麗な黄色のカーディガンが少し濡れていることに気がついた。視線を左下に移すと、手に持った華奢な傘からは大きな雫が滴っている。
彼にとって、若い女の子と二人きりの状況というのは出来れば避けたいところだった。普段なら、何かと理由をつけて家に帰しただろう。しかしながら、わざわざ雨の中出向いてくれたことを考えると、どういった用件であれ、このまま何も聞かずに帰すのは不義理なような気がした。
「まぁ、こんなところで話していても何だし、良かったらウチに寄ってく?」
おずおずと彼が尋ねると、彼女は雨音にかき消されそうな声で、短く、しかし、丁寧に礼を言った。
本心を言うと、娘がいない中対応をすることの不安からも、決心がついた訳ではなかった。ただ、どこか縋るものを求めるような、弱々しいその表情を見てしまったら、ここで引いてはいけないような気がした。もし、何か抱えているものがあるのなら、それが何であれ、どうにかそれを、たとえ少しでも軽くする義務が自分にはあるように感じてしまった。
ホットコーヒーの入った青鈍色のマグカップに、角砂糖の入った壺とコンデンスミルクの入ったプラスチックカップを1つ、それに小さな銀色のスプーンを添えて、いつも通り品よく丁寧な座り方をする彼女の前に差し出した。
「リッカちゃんは今年で大学生だっけ?早いものだね」
居間のテーブルを挟んで向かいに腰掛けた彼は、六花の姿体とは正反対にだらしなく背中を丸め、何も入れず、湯気の立ち昇るそれを啜る。鼻腔に特有の芳醇な香りが広がり、彼女のために用意したつもりが、意図せずほっと一息つけた。一方で、反対側の彼女もミルクと砂糖を入れたそれに静かに口をつけていたが、娘がいる時とは違い、今日は何だかその細い肩がこわばっているような感じがした。
「歳も、もう18です」
短く同意した後、少し間を空けて、六花はそう続けた。あまり意識することはなかったものの、そう言われてみると、中学生かそこらの歳の時に初めて会った少女は、いつの間にか大人の女とさして変わらない姿になっていた。
「そっかぁ!出会った時は今の柚月とそこまで変わらなかった筈なのに、今では全然見違えちゃってるもんねぇ!」
五年かそこらの月日と人の成長の早さに思わず出た感慨だったが、そう言って方々に跳ねた頭の癖毛を掻くと、何だか年寄りじみたことを言っているのに気がついた。退屈な返答しか出来ない自分に情けなさを感じたが、意外にも、彼女は可笑しそうにクスリと笑った。
「お父さんは初めて会った時からあんまり変わっていませんね」
微笑んでそう言う彼女の笑顔は何だか見慣れたもので、彼は気分が軽くなるのを感じた。
「いい歳したおっさんにもなると、見た目なんて変わらなくなる訳さ」
安堵のせいか、彼は少し大袈裟に笑い、つられてか、それとも、合わせてくれたのか、彼女もクスクスと笑った。そして、そのまま、窓の外で降りしきる雨の中、日常の出来事の他愛ない話に二人は花を咲かせた。
「えっと。それで、今日はどうしたのかな?」
雰囲気が大分と和んだところで、なるべく彼女が話しやすくなるよう、声色を少し意識して彼はさりげなく尋ねた。彼女はそこでやはり困ったような表情を浮かべた。しかし、先ほどとは異なり、どこか意志を宿したような眼差しをしていた。彼女が手に持っていたコーヒーの器から手を離し、そっと座り直す。
「今日はお父さんに相談があって来ました」
いくらかハッキリとした口調で、六花は机の上で指を組む彼にそう告げた。
「そっか。僕なんかで良ければ、勿論、話は聞くよ」
彼は落ち着いた、余裕のある口調でそうは言ったものの、内心では年頃の女の子の困りごとに対応出来る自信などなかった。ただ、少しでも何か助けになることがあるのであれば、出来ることはしてあげたいという気持ちは確かだった。
僅かに彼と彼女の目線が、ピタリと重なる。
「これから、出来ればこうやって、お父さんと二人でお話しする時間が貰いたいんです」
彼女は一息ついた後、慌てるようにちょっと早口でそう伝えた。彼の方は全く予想していなかった内容に、素っ頓狂な面をしてしまった。加えて、その理由は判然としなかったが、彼は自分の頭の中が奇妙なほど真っ白になるのを感じた。
「それは、どうして?」
少しの間、なんとか思考を巡らせてみたものの、彼女の意図が読めず、彼は苦し紛れにしゃがれたような声でそう尋ねた。六花に伝わらぬよう、表情では平静を取り繕っていた彼は、自分の声の不自然さに気付き、後悔の念から奥歯を少し噛み締める。
「えっと。大学に入って、今までと違った環境で。例えば、男の人が多くて」
ほんの一瞬、表情を歪ませたかと思うと、彼女は頭の中から言葉を引っ張り出すようにそう話したが、そこで言葉が詰まってしまった。
俄かに沈黙が訪れた。しかし、それは僅かな時間であったが、その間、必死に頭を巡らせた彼は、自分が言うべき言葉を閃いた気がして思わず手を打った。
「それで男と話す練習がしたいってことか!」
彼はそう言うと、意図せず納得したように首を縦に振ったが、今度は彼女の方が呆気に取られた顔をした。
「そう。そうなんです。それでお父さんとお話がしたくて」
示し合わせたように、少し主張するような口調でそう言うと、彼女はそれを裏付ける理由を弱々しい声で続けた。
「まぁ、自分のお父さんとかだと中々練習にならないか。でも、僕だと、君のお父さんと同じような感じだから、やっぱり全然練習にならないんじゃないの?」
彼は腕を組みながら、硬い椅子の背もたれに寄りかかり、何か別の良い案がないか考え込む。
「そんなこと、全然ないです!お父さんは、私、お父さんって呼んじゃってますけど、全然お父さんって感じじゃないです!」
先ほどとは打って変わり、今度は少し怒ったような、非難するような口調で六花は彼の言葉を否定した。彼の方はというと、一保護者のような立場から、多少は彼女の成長を見守って来たような自負がどこかにあったので、少なからずショックを受けてしまった。
「いえ。お父さんが頼りないとか、そういうことを言いたいんじゃなくて。お父さんは全然若々しいですし、その、素敵です」
彼女は落ち着きを取り戻すと、目線をやや逸らしながら、彼にそう伝えた。心なしか、頬は紅潮しているように見えた。
「気を使わせてしまってすまないね。確かに、君のお父さんと同じようには、全然いかないよね」
寂しげな笑みと共にそう言うと、彼はいくらか冷めたコーヒーを静かに啜った。何となく侘しげな彼の様子を見て、彼女は何か言おうとするも口篭ってしまった。
「でも、六花ちゃんのそんな優しいとこに、柚月も僕もいつも救われている気がするよ」
彼は気を取り直すようにそう言って微笑むと、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。
「それに、君は優しいだけじゃなくて、人のためにそんな恥ずかしいことも言ってのけてくれる勇気がある。それは素晴らしいことだと、僕は思うよ」
それは彼の本心から、自然に口をついて出てきた言葉だった。ただ、言い終わった直後、ふと、今言った自分のその言葉にどこか既視感を覚えた。
直ぐに我に返り、またしても何だか年寄り臭いことを言ってしまったことの気恥ずかしさから、彼は頭をボリボリと掻く。それから六花を見ると、彼女は何故か、その澄んだ眼を見開いていた。
彼がどうしたのか尋ねようとした時、彼女の大きな瞳から、一雫の涙がこぼれ、頬を伝った。その瞬間、彼は何故だか、その姿に心臓が握りしめられるような感じがした。動揺を隠すように、彼は咄嗟に立ち上がった。
「ごめんね!いくら何でもこんなおっさんにそんなこと言うのは恥ずかし過ぎたよね!」
彼はそう言って、おたおたと謝る。
「いえ。そういうことじゃないんです。これは」
六花はそう言って、溢れ出る涙を手のひらで拭った。そして、何かハンカチのようなものが無いか辺りを見回す彼に聞こえぬよう、小さく、嬉しかったんですと呟いて笑った。
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