第26話 エピローグ『全選手退場』

     三


 どこをどう走ったかなんて憶えていない。


 ただただ絵梨は必死に走った。後ろを振り向かず逃げた。泣かなかったと思う。涙は堪えた。だが、とてつもなく恥ずかしかった。あれだけ大見得を切っての大惨敗。全力で抗した。しかし、南口田尾は自分を圧倒的に上回った。一瞬での敗北が現実。絶対に負けない? 笑わせる。『女帝』? そもそも『女王』なんて名前さえも不似合いかつ不釣合いなんじゃないか。どれだけの恥晒しだ。生きている価値なんて皆無だろ。考えた。自己嫌悪。身を切るような羞恥心。結局の所行き着く思考。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい!


 息が切れ、乳酸で足が怠くなるくらい走って走って走って――。

 絵里は気がつくと学校から離れた公園にいた。

 大村公園である。

 そういえば、ここであの男は不良相手に大立ち回りをしたんだよなぁ、と思った。

 トボトボと歩きながら彼女は息を整える。汗が目に入った。痛い。拭う。

 夕刻。人通りはない。静かだな、と絵梨は思った。ボソッと口から気持ちが漏れる。


「あー……死にたい……」


 すると、


「死んじゃダメだよ」


 そう言われた。


「ひっ!?」


 背後には南口が平然とした顔で立っていた。


「やぁ、絵梨ち――」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 絵梨は化け物でも見たような悲鳴を上げる。

 そして、乳酸が溜まって怠い足を無視して逃走しようと――。


「逃げないで」


 ――その瞬間、ガシッと後ろから南口に抱きしめられていた。

 いや、それは抱きしめられるなんて詩的な表現が似合うものではなく、羽交い締めだった。絵里は脇から腕を差し込まれ、持ち上げられていた。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 絵梨は後頭部で頭突きしようとする。避けられる。自由な足で南口の足を踏もうとする。避けられる。足を振り回し、腕を振り回す。全て避けられた。

 南口に耳元で囁かれる。


「落ち着いて」

「は・な・せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! バカァァァァァァァァァァァァァァァッ!」


 叫ぶ。

 絵里に冷静な思考がないわけではないが、それよりも混乱が大きかった。


「落ち着いて。話をしようよ」

「う・る・さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ! バカァァァァァァァァァァァァァァァッ!」


 叫ぶ。

 手足を振り回して抵抗する――殴り蹴る手応え。

 南口は避けなかった。無抵抗で攻撃を受けている。


「落ち着いて。絵梨ちゃん」


 そして、絵梨は頭を撫でられた。

 どうどう、と言わんばかりの優しい手つきだった。南口の声が、撫でられる感触が――まるで自分が人に慣れていない野生動物か何かで、それを必死に宥められているような気がして――莫迦らしくなった。


 我に返った絵里は抵抗を止める。

 力が抜けたのを理解したのだろう――南口は拘束を解いた。そのまま絵梨は地面にへたり込む。顔は上げられない。意味なく公園の地面の固い土を指先でつつく。


「絵梨ちゃん?」

「……もう……逃げないわよ……バカ……」


 黙っていてよ、と呟くと南口は素直に口をつぐんだ。

 本当に、バカ正直よね、と絵梨は思う。

 器用なのに不器用で、賢いくせに莫迦で、素直で大人しくて、才能に溢れているくせに自分の意見を言えなかったりして、モテるくせに女性が苦手で、自分にとっては幼い頃に出会った、唯一の友達だった。

 中学に入って再会したけど、絵梨は無視し続けた。

 しばらくすると、南口は自分に近づかないようになった。処世術を得て、人との関わり方を覚え自分にも友達ができた。でも、やっぱり、彼のことが気になり続けた。自然と眼でその後ろ姿を追った。自分にとっては大切でも、つまらない意地を張り続けて違和感を抱き続けた。

 南口田尾は『最強』と呼ばれ、『超人』と呼ばれ、相変わらず孤高を保っていた。


 認めよう、と絵里は素直に思った。

 自分は、この少年のことが『羨ましかった』のだ。


 だから、初夏の空気を吸い、吐き、顔を上げて、問いかける。


「……何しに来たのよ」


     四


「……何しに来たのよ」と絵梨に言われ、南口はどう答えて良いか分からなかった。

 正直に答えれば「逃げたから」としか言いようがない。逃げられなければ、追いかけることもなかったからだ。

 でも、そんなことを答えたとしたら「莫迦」と罵られるに違いない。いや、「ストーカー」とか「死ね」とかもっと酷い罵詈雑言かもしれない。少しひねって「罰ゲームの履行をしてもらいたかったから」というのはどうだろう。


 しかし、別に何かしてもらいたい罰ゲームがあるわけでもない。

 いや、任されたとは言え、そこまでする権利が自分にあるかどうかも定かではない。

 というか、メイド服姿で街中を全力疾走した絵梨はもう十分に罰を受けているのかもしれない。街行く人に「お祭り?」「どこの生徒?」「罰ゲーム?」「若いわね」「追いかけられている? 逃げている? ストーカー?」とか噂されていたことに絵梨は気づいているのだろうか。

 南口自身、かなり恥ずかしかった。割と自分にも罰になっていた気がする。


 では「心配だったから」――嘘でも間違いでもないが、絵梨が一時的に錯乱したとはしても、そんなに自棄的な行動に出るとは思えない。

 きっと明日には割りきって、何気なく平静を装うだろう。そのくらいの才覚はあるし、そもそも、信頼しているのだ。うちの中学は善良な人格が揃っている。日々の雑事に埋もれて、掘り返されることもないだろう。問題ない。

 結局の所、一言でまとめられるのだ。


「話がしたくて」


 二秒ほど思考をフル回転させて出た南口の答えがそれだった。


「私は話なんてしたくない」


 絵梨はにべもなかった。俯いたままで南口と目を合わせようとしない。

 彼はポリポリと頬を掻き、どうしよう、と思った。


「でもさ、絵梨ちゃん」

「絵梨ちゃん言うな」

「僕が勝ったし」

「……ぐぅ……それはつまり、罰ゲームということ……?」


 南口は罰ゲームになっちゃうんだ、とため息を吐く。

 不本意ながら結局、こういう展開になってしまった。

 この少女は結局の所、他人との関わり合いにおいて勝ったか負けたかで判断してしまうのだ。

 アスリートとして最適化された性格が日常生活においても有用であるとは限らない。


 それは悲しいことだと彼は思う。少なくとも窮屈そうだ。

 南口は何か気楽な話題でも振ろうと、


「ちょっとそこのベンチにでも座っていてよ。喉乾いたでしょ。何が良い?」

「逃げるわよ」

「そう言う人間は逃げないと思うよ。逃げても追いかけるしね」

「……水」

「うん、分かったよ」


 公園入口にある自販機へ歩きながら、南口はどうやって頑なな少女の心を解きほぐそうかと考える。ゆっくりと購入し戻る時もずっと考えていたが、糸口は見つからなかった。

 ベンチに座った絵梨は視線を狼狽えさせ、真っ赤な顔になっていた。


「あ、あの……私……お金を出そうと思って……それで……」


 何が言いたいのか南口にも分かった。借りを作ることを極端に嫌う『女王』のことだ。お金を払おうと財布を探し、未だにメイド服なことを思い出したのだろう。しかも、上履きのままである。醜態に醜態を重ねている自覚が蘇ったのだ。

 南口はニッコリと笑う。


「よく似合っているよ」

「そうじゃないでしょっ!?」

「え? 似合っているけど……違うの? 髪を下ろしているのも素敵だね」


 南口はわざととぼけながらペットボトルのミネラルウォーターを差し出した。


「もう良い……お金は帰ってから返す」


 ブツブツ言いながらも絵梨は受け取ってくれた。


「奢らせてよ。今くらいは」

「ダメ。奢ってもらう理由がないもの」

「僕が会話したいって誘ったんだし」

「そんなの理由にならないわ」


 南口はずっと思考に没頭していたせいで、自分が何を買ったのか覚えていなかった。手の中のペットボトルは、絵里と同じくミネラルウォーターだった。

 苦笑しながらフタを開け、喉を潤しながら話題を考える。

 と、

 絵梨はゴキュゴキュと喉を鳴らしながら水を一気飲みしていた。

 そして、プハーッと飲み干し、手の甲で男らしく口元を拭い立ち上がる。


「じゃ、帰るわ」

「えー、待ってよ」

「うるさい」

「なにをそんなに怒っているの?」

「怒ってなんかないわよっ!」


 どう見ても怒っている絵梨を見て――南口は吹き出していた。


「あは、ははははははっ!」

「はぁぁっ!? 意味分かんないんだけど。なんでアンタ笑ってんのよっ!」


 そんなこと決まっていた。


「やっぱり、絵梨ちゃんだなぁって」


 南口の言葉で絵梨は困ったように、拗ねたように口唇を尖らせた。

 それは幼い頃から変わらない、南口のよく知る彼女の姿だった。

 大人びたフリをして、その実、意地っ張りで意地悪で、負けず嫌いでワガママで。

 それは大好きな友だちの姿だった。

 だから、


「僕、やっぱり、絵梨ちゃんのこと好きだよ」


 絵梨は息を呑んだ。


「昔みたいに二人で遊びたいな。ううん、みんな一緒の方が良いのかもしれないね。友達って言ってくれたし。とにかく、仲良くしたいんだ。その中に絵梨ちゃんがいないのは嫌だから。絵梨ちゃんは一番の友達だもん」


 南口は真っ直ぐに絵梨の眼を見ながら告げた。それだけだった。大好きだからもう一度友達になりたい。一緒に遊びたい。それを云うためだけに自分は頑張ったのだと思う。

 絵梨は一瞬だけ視線を彷徨わせ――ため息を吐いた。


「帰ろうか……」


 南口の言葉の答えではなかった。絵梨は先立って歩き始める。

 やっぱり、ダメかと南口は思った。仕方がないことかもしれない。友達は強制するものではないのだから。

 そんな思考に没頭していたせいで、南口は絵里の呼びかけに一瞬応えられなかった。


「ねぇ……っ」

「え?」

「……アンタ、身体とか鍛えているの?」


 絵梨は顔も向けず、歩調も緩めずに話しかけてきた。


「えっと……特には……普通に体育とか」


 言葉に迷いつつ南口が正直に答えると、絵梨は忌々しげに舌打ちをした。


「腹立つわね……私がどれだけ必死にトレーニングしていると思っているのよ」

「えっと、その、ごめんね」

「どうして謝るのよ。ムカつくけど、別にアンタが悪いわけじゃないし」


 才能のない私が悪いのよ、と自嘲気味に言う絵梨。


「でも、私はまだ頑張る。まだまだ努力する。だから、負けは認めない」

「うん」

「私はアンタに勝つまで絶対に諦めない。死ぬまでかかっても良い」


 だから、また勝負して――と顔だけで振り返りながら絵梨は言った。

 それはこちらを射抜く視線だった。南口は久しぶりに眼が合った気がした。

 だから、


「うん、分かったよ」


 頷いた。

 絵梨は「フフン」と鼻を鳴らして笑った。

 その強気で傲慢な姿は『女王』らしくて、昔の姿と被さって――南口は嬉しかった。

 会話しながら学校へ戻る。


「僕も頑張るよ。武藤先生にアメフト誘われたから、ちょっと顔を出してみようかなって思っているし。本気で相手するからね」

「うぐっ。本格的にウエイトを覚えられたら……い、いえ! 負けないからね!」

「うん。受けて立つよ」

「この野郎……余裕見せて……。絶対に勝って莫迦にしてやるんだから」

「僕は莫迦にしないから。いつでも、何回でも勝負しようね」

「そういう態度が余裕だってのよ。全く……」


 口が悪くても、実際にはそれほど絵梨が悪く思っているということはないはずだ。一種の甘えなんだと南口は思っていた。気を許すからこその悪態は嬉しいものだった。


「……なにニヤニヤ笑ってんのよ。気持ち悪い」

「ううん。その服、可愛いなと思って」

「バッ……カじゃないの……」

「あ、中身も可愛いからね。ほら、いろんな人が絵梨ちゃんを見ているよ」

「ちょ!? アアアア、アンタッ!? せ、制服の上貸しなさいよ!」

「えー」

「えー、じゃない! 良いからさっさと脱ぎなさいよ!」


 そんな意味のない会話を繰り返す。

 意味があるから大切とは限らないのだと、南口は思う。

 市川がどういう意図でハルクを開催したかなんて彼には分からない。

 だが、ハルクに大層な意味なんてない。

 中学生が仲間内で盛り上がって、バカをやっているだけという見方だってできるのだ。


 人は意味を見出すことに価値を求めがちだが、きっと、そんなことは大した話ではないのだ。

 もっと大切なことはあるはずだと思う。

 あいまいなのは南口本人にもよく分からないからで、正直、難しいことなど分からないのだ。

 でも、一つハッキリ言えることがあるとしたら、自分は昨日までこうやって絵梨と話なんてできなかった、ということ。

 適当に仲直りなんかもするのだから、意味ばかり追求しても無駄なのかもしれない。


 つまり、これは南口が求めていた――友達同士の会話だった。


 その結果だけはこのあいまいな世界で、間違いない気がした。

 絵梨は赤い顔で舌打ちをしながら言う。


「そういえば、一番の友達ってどういう意味よ」

「うん、初めて僕と友達になってくれたし、やっぱり、特別だからさ」

「特別……ねぇ」


 絵梨は一瞬だけくすぐったそうに笑ったが、すぐに真顔に戻った。

 南口はそこでふと一つ思い出したことがあった。


「あ、そうだ。忘れていたよ」

「どうしたのよ」

「絵梨ちゃんの罰ゲーム、どうしようか」

「わ、私からすれば、この状況は十分に罰ゲームだけどね」

「そうだよね。じゃあ、学校で荷物をとっても、着替えはダメ。家までその恰好ね」

「アンタは鬼かっ!」


 夕暮れ。街並みを二人で歩く――ああ、なんて友達っぽい行為だろう、と南口は思う。


「もうずっとにやけているかとマジで気持ち悪いからやめてくれない」

「嬉しいからね。仕方ないよ」


 絵梨ちゃんとまた仲良くなれて嬉しいよ、と南口が本音を吐露すると、


「……ばーか」


 絵梨は忌々しそうに吐き捨てた。

 仲良くなんてないし、ただの敵だし、と。

 ただ、絵梨のその表情は朱を塗ったように赤かった。


     五


 夕日の中、兄の隣にメイド服姿の女子が見え、琴梅は胸を撫で下ろした。

 探しに行こうと思ったら、二人仲良く一緒に歩いていた。探す手間が省けて助かった。どうやら上手くいったようで懸念事項の一つが片付いた。

 あの二人は絶対に良い関係になれる、と琴梅は一目見た瞬間から思っていた。それは話を聞いていたからだけではない。そうとしか思えないほどにピッタリだったからだ。


 だが、二人とも鈍感だから恋慕を羨望と愛情を友情と勘違いしていそうだ。

 笑い合っているけど、恋人には見えない。親友というよりも戦友が戦果を語っているような雰囲気である。

 正直、琴梅はすこし呆れなくもないが、でも、それならそれで構わないと思う。

 恋愛の成就が幸福に繋がるとは限らない。

 いつか自分たちで気づくならそれが一番。違ったとしても、それは時間の問題というだけで、全然大したことではないのだから。

 明日、学校で会ったら、『女王』を「義姉さん」とでも呼ぼうかな、といたずらっぽい考えを思いつき、琴梅は一人でクスクスと笑った。


 結局、これは本気でぶつかって仲直りをするだけのお話。

 告白にも似た真剣勝負の結果得たもの。


 だから、これは望みうる最良の結果じゃないかしら、と琴梅は笑った。




〈Higashi Junior high school Arm Resurging Championship.〉 Closed.




 あとがき


 というわけで、『ハルク』でした。

 読んでくれた方に感謝を。ありがとうございます。


 で、これは前書きにも書きましたが、本当に個人的に一番気に入っている作品です。

 一番自分が書きたかったものに近いから、という理由ですね。

 いろいろ詰め込んだ、お祭りみたいな小説が好きなんですよね。


 元々は自衛官時代に、シンガポールだかの飲み屋で、隊員たちが腕相撲で盛り上がっているのを見て、「ああ、これを格闘小説の文脈でまとめたら面白いだろうなぁ」と思ったからです。

 女の子を出すなら中学校くらいが舞台かなぁ、とかいろいろ調整した記憶があります。

 で、そのまま某賞へ送ったら出版社から連絡があったのですが、その時はソマリアへ行っていたので、電話を取れなかったんですよね。

 で、才能があるんじゃねぇか? と勘違いしたこともあり、今に至るわけです。


 まあ、さすがに大した才能がなかったことは理解しているのですが、それでも、まだ細々と小説を書いていることはちょっとした誇りになる気がしています。

 難しいことは分かりませんが、いろいろ失敗していたとしても、挑戦したらそんなに後悔がないというのは実感していて、とにかく、自分で決断することが大切だと思っています。

 そんなことを考えながら、WEB用に調整していました。


 このお話は完結ですが、読んでくれれば分かるように、この世界観は気に入っているので、どこかで続きは書くかもしれません。少しでも期待してくれたら嬉しいですね。

 ではまた。

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