「でっかいバイオリンだ、なにか弾いてみてよ」はなぜ可愛いのか

かめにーーと

本文

吹奏楽部のあるある動画を投稿しているゆかてふというYouTuberがいる。チェロの人あるあるという動画の中で、ゆかてふがチェロを持っているミヤタコーヘイに対して、「でっかいバイオリンだ。なにか弾いてみてよ」と話しかける。


そのシーンが可愛すぎて、頭から離れない。


もちろん彼女は動画の中で演技としてその台詞を言ったわけで、その部分にメッセージ性を特別に含めたわけではないだろう。しかしそれでもなぜかその台詞が愛おしく、かけがえのないものに聞こえたのだ。


本文ではその理由について考察する。私は文章(言葉)を使ったコミュニケーションで、それを完全な状態のまま相手に伝えることはできないと考えている。言葉を使った表現には、言葉では言い表せない部分を削ぎ落とした形になってしまう。ただそれでも何かを伝えようと思うのは、表したいことの一端であったとしても、読者の中で何らかの形で立ち現れることを期待するからである。


なお、私はゆかてふというYouTuberについてはほとんど知らない。某吹奏楽部アニメの解像度を上げるために吹奏楽部あるあるの動画を一通り見た際に、この動画と出会ったのだ。


▫️自分の語彙のなかにない単語(チェロ)を自分の持ち合わせの語彙で表現し、それに対して恥ずかしいというそぶりを見せない姿が可愛い


ゆかてふが演じているキャラ(以下、単にゆかてふという)は、チェロという「楽器そのもの」とチェロという「言葉」の対応が取れておらず、チェロを見てもチェロであると認識できていない。それでも興味を示し、話しかけようと試みる。自分の中の辞書を引き、弦楽器の中で一番有名な「バイオリン」をピックアップする。それに、大きさを表す形容詞「でっかい」を組み合わせ、指を指しながら、「でっかいバイオリンだ」とミヤタコーヘイに伝える。


ここで、話しかける際に「でっかいバイオリンだ」である必然性は一切ないことに着目したい。楽器の名前がわからないのであれば、「素敵な楽器ですね」と話しかければいいのだ。何か弾いてほしければ、続けて「何か演奏してみていただけませんか」と依頼すればいい。「でっかいバイオリンだ」は必要のない表現であり、それってあなたの感想ですよねという話なのである。


だが一方で、あなたの感想であるということは、オリジナリティのある表現だということができる。知らない単語を表現するときに、自分の持っている語彙というオリジナリティと、そこから何をピックアップするのかという選択のオリジナリティが掛け合わされ、彼女ならではの表現を生み出している。


その表現そのものの可愛さに加え、チェロという単語を知らないことに対して恥ずかしさを全く表していない点にも注目したい。いつの時代においても、「知らない」ということは恐ろしいことである。大人になるにつれ、安易に「知らない」と言いづらくなっていく。チェロという単語を知らない恥ずかしさから、「素敵な楽器ですね」という逃げの言葉選びばかりが上手くなっていく。


しかしゆかてふには、それを「でっかいバイオリンだ」と表現する屈託のなさがある。これはでっかいバイオリンで間違いない!という確信がある。大人になるにつれて失われていったものの一つをそこに見出すことができる。


▫️なんか弾いてみてよ、という無茶振りが許される優しい世界で育ってきたのだという安心感を与える可愛さ


楽器の演奏は中学のリコーダーで止まっているので詳しくないが、「なんか弾いてみてよ」は「なにか面白い話してよ」と同じような無茶振りであろうことが想像される。この発言は、ミヤタコーヘイは「ゆかてふが知っている曲」かつ「ミヤタコーヘイが演奏できる曲」を適切にピックアップし、ゆかてふに提供することを要請する。もしゆかてふが知らない曲を弾いてしまったら、「この曲知らなーい」と言って、不満そうな顔をするかもしれない。「面白い話してよ」が聞き手を笑わせる話をすることを要請することと同じで、こうした発言は無茶振りだと言われることが多い。


でもゆかてふは何も悪びれる様子を見せることなく、この無茶振りを敢行する。その行動は、彼女が(あくまで演じているキャラがということだが)今までそうした無茶振りが許される優しい世界で育ってきたのだということを物語っている。「それ無茶振りだよ〜」と文句を言われつつも、結局は押し通してしまう姫プが許される環境。


もしそうした無茶振りをしたときに、「は?何言ってんのお前?」みたいなことを言われる環境で育っていたとしたら、彼女はそうした屈託のなさを維持できていただろうか。無茶振りは少しずつ形を変えて丸みを帯びたものにならざるを得ず、物腰の低いものにならざるを得ず、「もしよかったらでいいんですけど〜」と譲歩を含んだものになるであろう。それはある意味で色々なバックグラウンドを持った人間と対話する必要のある”大人”になるために必要な通過儀礼なのだろうが、そうした”洗練された大人な”表現の中に可愛さを見出すことはできるだろうか。


彼女が無茶振りに対する厳しい反応をもらった経験があったとしても、それでもめげずに子供っぽい無邪気な無茶振りをし続けている可能性はあるだろうか。それはそれで健気で可愛らしい面があるのだが、筆者はその解釈は多少無理のあるものではないかと考える。その理由は、この無茶振りの後にミヤタコーヘイが弾いたバッハの無伴奏チェロ組曲に対して、「知ってる〜、なんか聞いたことある」と満足げな笑顔を浮かべているからである。そこにはおそらく何の邪念も含まれていない。「でっかいバイオリンだ→なんか弾いてよ→なんか聞いたことある」という、対象に対する興味から、他者に要請し、自己の欲求を満足させるというプロセスには、ストレートで無駄がなく、無邪気な演技をするという解釈の余地を残さないように見受けられる。


彼女のそうした優しい世界で育ってきたのだということを仄めかす言動は、それを見ている側に安心感を与える。そして、その彼女の世界観を守りたいと無意識のうちに思わせる。「守りたい、その笑顔」というわけである。そうして彼女の周りは彼女の無茶振りに応えようとし、彼女の周りの優しい世界はより強固で盤石なものになっていくだろうと想像させる。その未来に向けたポテンシャルも含めて、彼女の屈託のない言動は安心感を与えるものになっているのだ。


以上のように、時間にして30秒ほどの動画の一場面について一時間ほどの執筆時間をかけて考察をしてきたわけだが、冒頭で述べたように、この文章はこのシーンの可愛さを表すのに十分なものとは言えないだろう。足りない部分は各自動画を見ていただいて、適宜補完していただきたい。


これからも「可愛いもの発表ドラゴン」として、可愛いものを表現し続けたい所存である。

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