第17話 箱根駅伝

 中継所の実況はいつもテンションが高い。俺は他の大学の選手と一緒に、3区の選手控室の中に設置してあるテレビを見上げていた。フレッシュグリーンや藤色や臙脂色など、お正月にテレビで観ていたユニフォームが目の前に並ぶ。


「こちら鶴見中継所です!さぁ、なんと、なんと!初出場の東常大1年生の青木、大健闘!大健闘の5位で襷を繋ぎました!」


 2区のオツエゴがどれだけリードするか。それを3区の俺、4区山津、5区秦さんがどれだけ守れるか。それが往路のテーマだった。まさか1区の青木がトップと1分差で来るとは。シード権争いどころかトップ争いだ。


 ウォーミングアップスペースでひたすらジョグを繰り返す。自分でも気持ちが浮ついているのがわかる。


「そろそろ戻んなくて大丈夫かい?新参者君。」


 振り返ると東海農大の高橋がいた。相変わらず鼻につく物言いだったが、こちらも余裕はない。ありがとう軽く会釈をして控室に戻った。


 画面に映っていたのはオツエゴだ。『花の2区』で2位に3分以上差を付けている。ぶっちぎりだ。


「ゼッケン19番!東常大!」


 ボーッと画面を見ていたらテントの外から拡声器越しの割れた大声が響いた。急いでベンチコートを脱ぎ捨てる。

 オツエゴがグングン迫ってくる。俺は時計のストップウォッチをオンにして襷を受け取ろうと手を広げ…


「な!」


もう襷が手の中にあった。

 オツエゴが一気に俺を追い抜いていく。こいつ余力が残り過ぎだ。もっと追い込めたんじゃないか。初速を上げてやっと追いついた俺に向かって


「デカシタ!デカシタ!」


 と手を叩いて叫んでいる。励ましているつもりらしい。『デカシタ』は俺と山津がオツエゴが記録を更新するたびに『よく頑張った!』とかけ続けた言葉だった。今は『ガンバレ!』と言うんだよ!


「オツエゴ君、お疲れ様。」


 伴走車から杉浦監督が労った。


「キサマモナ!!」


 オツエゴが車に向かって大きく手を振った。誰にも聞かれていないと良いのだが。


 襷を肩にかけ余った部分をパンツに挟む。走る事に集中しよう。そうしている間に、戸塚中継所の喧騒は遥か後方になり4車線道路の国道1号線に入った。

 気がつくと先頭に四角いバス。恐らく第一中継車だろう。それに続いて白バイ2台に先導されていた。対抗車線は規制されているのか2車線とも前に進む気配はない。むしろわかった上で状況を楽しんでいるかのようにこちらにカメラを向ける。


「行けー!東常大ー!」

「四ツ谷ー!」


 対抗車線の車内から声が聞こえる。間近からの声援には本当に驚いた。下り坂を利用してスピードを上げる。5キロを過ぎて遊行寺坂を通過する頃には2車線道路になって沿道の観客が近い。


「頑張れ!四ツ谷君!」


 沿道から声がした。知った顔のような気がしたが振り返る余裕はない。それにしても所々で名前を呼ばれる。こんなにも自分の名前が呼ばれるのは不思議な感じだ。 

 カーブを曲がり道路が再び4車線に広がった瞬間、


『ワー!!』


 凄まじい声援が空から降ってきた。対抗車線は相変わらず渋滞している。国道を挟んだ歩道は見物客で溢れていた。高校の対抗駅伝の比ではない。


「四ツ谷ー!四ツ谷ー!」

「四ツ谷ー!四ツ谷ー!」


 街頭の全員が俺の応援をしている。鳥肌が立った。ちょっと気持ち良いぞ。自然とペースが上がる。


 10キロ地点の給水ポイント。1年の村上が並走しながらボトルを差し出す。

 

 「うしろと2分!」


 差が縮まった事を告げられた。俺は更にペースを上げた。段々と鼓動の音が大きくなる。


 浜須賀交差点を右に曲がる。松林の隙間に時折り海が見える。海岸沿いの道に出た。湘南大橋を越える。一気に気温が上がった気がする。向かい風になったのか思うように体が前に進まない。


「四ツ谷君、腕を振って行きましょう。」


 俺の焦りが伝わったのか、マイク越しに杉浦監督の声が聞こえた。神の声みたいだ。軽く深呼吸をして言われた通り行動に起こす。少し膝がピリっとしたが、走りに問題はない。

 横浜市内に入った。一段と声援が大きく聞こえる。


「四ツ谷く〜ん!」

「キャー!」


 明らかな若い女性の声援にアドレナリンが溢れ出る。


 急に俯瞰で自分を見ている感覚に襲われた。足音以外は何も聞こえない。真っ直ぐ続く道。両サイドには俺を見て手を叩きながら応援している人達の笑顔。声援は聞こえない、自分の息継ぎも聞こえない無音の世界がスローモーションで流れる。気持ちいい。このままここにいたい。どれくらい経っただろうか、


「四ツ谷君、ラストスパートですよ。」


 杉浦監督の声で我に返る。鼓動、声援、足音、息づかい。全ての音が一気に襲いかかってきた。

 膝の痛みが増して来たがゴールまでは持つだろう。遥か遠くで豆粒のような山津が手を挙げている。


 俺は襷を外して左の拳に巻きつけた。強く握りしめた拳を前後に大きく振る。心臓の音は最大まで大きくなっていたが、ピョンピョンとジャンプしている山津に辿り着くまではこのままだ。


 道路を左に外れ、中継場所に向かう。山津が取りやすいように襷を両手で広げた。


「わはは、四ツ谷!でかしたな!」

「うるせー!行けー!」


 力強く背中を叩くつもりだったが、山津の初速が速くて触れるのが精一杯だった。


 空振りの勢いでバランスを崩し倒れそうになる。そのまま倒れ込みたかったが駆け寄って来た役員に抱きかかえられた。


「四ツ谷君、お疲れ様。」


 杉浦監督の声が聞こえた。右腕を挙げて何とか監督に応えた。声を出せたオツエゴは何なんだ。


 しばらくして気持ちが落ち着いてベンチコートに袖を通した頃、中継所では次々と襷の受け渡しがおこなわれていた。元気な選手の力を借りて、襷がまた新しい物語へと飛び出して行く。


 目を閉じて自分への歓声を思い出すと再び鳥肌が立った。注目されるっていうのは気持ちが良いもんだ。何物にも代え難い。

 俺は邪魔にならないようにコースに戻り、中継点に向かって一礼をした。

 俺の箱根駅伝が終わった。

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