ジューンブライドに天気雨の祝福を

諏訪野 滋

ジューンブライドに天気雨の祝福を

 私は、女優の浦部うらべ明日香あすかが好きだ。私と同じ二十二歳とはとても思えない節度のある落ち着いた物腰、それでいて時折見せる少女のように純粋無垢な笑顔。スタイルはもちろん抜群、男性はおろか同性の私ですら身体のあちこちのパーツに思わず目が行ってしまう。

 一目ぼれだった。私が持っていないものを、浦部明日香はすべて持っているような気がした。彼女を知ったその瞬間から、私はひたすらその軌跡を追い続けた。デビュー前から彼女を推し続けてきた、いわゆる最古参のファンだという自負だってある。その浦部明日香が下積みの末にようやくブレイクしてドラマの主役の座をつかんだと聞いた時には、部屋に飛び込んで独りで叫んでしまったほどだ。

 けれど、そんな私は実は、ちかっぱとても可愛い友人の坂梨さかなし絵里えりのほうがもっと好きなのである。



「相変わらずこの海岸って人が少ないよねえ、こんなに天気がいいのにさ。かなと一緒にここに来るのって、いつ以来だっけ?」


 素足を波に遊ばせていた絵里は大きく伸びをすると、首だけを私に向けてにかっと笑った。真っ白なTシャツにカーキ色の短パンといった、どこかあか抜けないシンプルな装い。絵里の服の好みは、彼女が五年前に福岡を飛び出した時と全く変わらないように見えた。

 砂浜の向こうに広がる玄海灘げんかいなだの波はいつだって少し荒いのだけれど、六月の日曜日、今日に限っては午後の海は静かにいでいた。あさぎ色の空にはわた雲が二つ三つ離れ離れに浮いているきりで、目の前に広がるパノラマはいつか見た風景写真そのままの青だ。そしてその光のフレームの中で仕掛け絵本のポップアップのように浮き出した絵里の姿を、私はほうけながら飽くことなく見ていた。

 海が見たい、と言い出したのは絵里の方からだった。最後に会ってから一年近くが過ぎた彼女の笑顔には、私の知らないメイクが砂浜に打ち上げられた貝殻のように端々に施されていて、私は東京というものの強さを垣間見たような気がした。

 私たちの他には幼児を連れた若い夫婦と犬の散歩をしている初老の女性の姿があるだけで、シーズンはずれの波打ち際は閑散としている。潮騒しおさいが寄せては返すだけの穏やかな時間。中天を少しだけ過ぎた太陽が眩しいせいだ、と自分に言い訳をしながら絵里から目を逸らした私は、わざとつっけんどんに言った。


「絵里、サングラスぐらいかけなさいよ。誰かに気付かれてバレたりしたら、大騒ぎになるっちゃないと?」


 いけない、と私は慌てて言い直す。


「……バレたりしたら、大騒ぎになるんじゃない?」


 絵里はきょとんとした顔をすると、ぷっと吹き出した。


「どうしたと、和奏。あんた、なんかえらいすごく遠慮しとらん?」


「あたりまえでしょ。昔みたいに博多弁で話してたら、せっかく抜けたはずの方言を絵里がまた思い出しちゃうじゃない。そんなのうっかり出ちゃったら、向こうではまずいんでしょ? だから私、絵里の前で博多弁は絶対にしゃべらないから」


 絵里は明るいブラウンの目を私の顔にじっと注ぐと、困ったように小さく笑った。


「ありがと、和奏。気を使ってくれてるんだ」


 標準語に戻した彼女がどこか寂しそうに見えたのは、きっと私のひいき目なのだろう。


「そうそう、それでいいのよ。なんたってゲーノージン様なんだから、いまを時めく浦部明日香は」


「うわ。後方彼氏面でキモいよ、それ」


 腕を組んで訳知り顔でうなずく私の肩を、絵里が笑いながらどやした。


 私の高校時代の友人である坂梨絵里は、今や女優の浦部明日香として、福岡出身の芸能人では一番の有名どころとなっている。出演しているテレビドラマのロケの関係で久しぶりに福岡に帰省することが出来た絵里は、多忙なスケジュールの合間を縫って、旧友の私をこうしてわざわざ訪ねて来てくれたのだった。


「でもほんと凄いよ、主役なんてさ。現代のシンデレラストーリーじゃない」


「はは、ラッキーだっただけだよ。でもさあ、浦部明日香って芸名は和奏的にはどうよ? もちろん嫌いじゃないんだけれど、いつまでたっても慣れなくてさ。坂梨絵里、って実名フルネームでも全然良かったのに、漢字一文字すらも入れてくれなかったし」


「いや、やっぱり実名は何かと都合が悪いでしょ。絵里の場合、特にさ」


 絵里は複雑な家庭の事情を抱えていた。絵里の父親は彼女が母親の胎内に宿ったことを知った途端に蒸発してしまったのだというし、誰かに依存せずにはいられなかった絵里の母親は様々な男性と遍歴を重ねていた。そんな母親と同居することがいたたまれなくなった絵里が高校を二年で中退し、芸能界を志して身一つで上京したのが五年前の事である。そのような事情であるから、実名を公表などしようものならハイエナのような芸能リポーターが群がり、絵里の古傷をえぐるような真似を始めるに違いなかった。


 そして私の誇りは、家を飛び出す前に絵里が私に相談してくれたことだった。温室育ちだった私の偽善だと言われてしまえばそうかもしれないが、絵里の夢を応援することに私は何の躊躇ちゅうちょもなかった。私には何も残っていないから、とかつて絵里は私にうそぶいたことがあったが、絵里には私が決して持ち得ない強さというものがあった。彼女が女優となるそのずっと前から、絵里は私の憧れであり希望だった。

 ――それだけでいい、はずだった。


 私の少しきわどい言葉にも、それもそうね、と明るく笑った絵里は、腰に手を当てて沖合を横切るフェリーの行方を眺めた。


「なんだか嘘みたいだね。昔は私って、和奏くらいしかアドレス帳に連絡先なかったのにさ。それが今なんて、フォロワーさんが二十万人だよ。もちろん嬉しいんだけれど、とても見てる暇なんてない」


贅沢ぜいたく言わないの。追っかけしてくれるファンだっているんでしょ? 光栄なことじゃない」


 ふう、と小さくため息をついた絵里は、海に顔を向けたまま横目で私を見た。


「でもさ。和奏は最近、私に全然メールくれないでしょ。私、何か怒らせるようなことした? あ、ひょっとしたら彼氏が出来たりとか」


 絵里に言おうか言うまいか、ずっと迷っていることがあった。しかし、どのみちいつか言わなければならないのであれば、直接顔を合わせている今のほうが、あと腐れなく終わらせることができるはずだった。


「私たちってさ、あまり連絡取り合ったりしない方がいいんじゃないかな」


「……どうしたの、和奏」


 固まった絵里の表情を見て、私は自分が後戻りできない場所にいることを知った。


「私、絵里の邪魔をしたくないんだ」


「ちょっと、何言って」


「絵里を新しく好きになってくれた人達はさ、昔の友達なんていう存在が出しゃばってくるの、嫌がると思うんだよ。馴れ馴れしくしているのとか見たらさ、きっとムカつくと思うんだよ」


「変なこと言わないでよ。私たちのダイレクトメールなんて、ほかの誰かが読めるはずないじゃない」


「違うよ、私が嫌なんだよ。絵里はもう皆のものなのに、私だけが何だかずるをしているみたいで。きっと良くないことだよ、これって」


 私が口を閉ざすと、打ち寄せる波の音が、思い出したかのように私たちを包んだ。流れる雲が互いの上につかの間の影を落とす。やがて日差しが戻った時、陽光に照らされた絵里の顔には怒りの表情が浮かんでいた。


「……馬っ鹿じゃない。メール着信がない携帯を見るたびに、私がどんなにがっかりしてるかなんて、和奏にはわからないでしょ。どれだけ私が首を長くしてあんたのメールを待ってると思ってるのよ!」


「だから、そういうのもうやめた方がいいって言ってるんだよ。もっとファンの方を向いてなきゃ、絵里はそのためにずっと頑張って来たんだから。どこにでもいる私みたいな奴、絵里にはふさわしくない」


 顔を真っ赤にした絵里は、両のこぶしを震わせながら私をにらみつけた。


「せっかく会いに来たのに、なんでそんなこと言うのよ。私が女優になったからお高くとまって壁を作ってる、みたいな言い方して。壁を作ってるのは和奏、あんたの方じゃない!」


 なんで私たち喧嘩してるんだろう。離れていてもずっと絵里のことばかり考えていたのに、黒く醜い自分の嫉妬しっとだけがどんどんあふれ出てくる。でも、これでいいのかもしれない。このくらいのことがなければ、とてもあきらめられたもんじゃない。



 言い返そうとした私の頬を、温かい雫が一筋流れた。まだ泣いてなんかいないのに、と思う間もなく、湧き上がるしめやかな響きと共に私たち二人の身体を大粒の雨が叩き始めた。眩しい空から落ちてくる、輝きを宿した真昼のシャワー。光る海面にはじかれた水の粒子が、それまでくっきりと見えていた水平線を煙るように隠している。家族連れの父親が慌ててビニールシートを巻くと、子供の手を引いて雨宿りのために松林へと駆け込んでいった。


 思いがけず降り始めた天気雨に、絵里は気をそがれた様に肩を落とすと、私に背中を向けた。


「もう、帰ろう。和奏に風邪ひかせちゃ悪いから」


 顎から全身へと伝わる雨だれが、私を覆っていた泥をいつしか洗い流していた。隠されていた気持ちがあらわになった私は、これ以上自分に嘘をつくことが出来なかった。どうせ降るなら、いっそ強く、もっと激しく。

 私は絵里の腕をつかむと、自分の方へと無理やりに振り向かせた。彼女の胸に頬を押し当てると、欲しかった体温が濡れたTシャツ越しに伝わる。


「東京、帰らんで」


 言えた。今度は迷わずに言えた。


「私以外の誰かと仲良くせんで」


 心の奥深くから吐き出された私の懺悔ざんげは、降り続く雨と混じり合って、濡れた砂浜に吸い込まれていく。

 

「ごめん、こんなこと言って。本当は違うって、絵里のことを応援してあげんといかんって、わかっとるっちゃけど」


 私、寂しかったんだ。絵里がどんどん遠くに行ってしまうような気がして。彼女の中の私が霧のように薄れていって、やがて消えてなくなってしまうような気がして。

 馬鹿だよね。こうなることなんて、とっくの昔にわかっていたはずなのに。浦部明日香の出ていたドラマで見たことあるよ、こんな陳腐なエンディング。



「ありがとう、和奏」


 不意にかけられた穏やかな声に、私は慌てて顔を上げた。私を覗き込んでいる絵里の濡れた瞳が、プリズムのように陽光を分散させて光の渦を巻く。かつて私を照らしてくれていた色たちが、今でも変わらずにそこにはあった。


「ごめんね。私の方こそ、気が付かなくて」


 絵里は私と額を重ねると、目を細めて陽だまりのような笑顔を向けた。


「私が監督さんに頼み込んで福岡ロケにしてもらったのはね、里帰りしたかったからでも、もちろんうちのお母ちゃんに会いたかったからでもないよ。あんたに、和奏に会いたかったけん、ここにしてもらったとよ」


 陽光を吸った雨水よりもはるかに熱い涙が奔流ほんりゅうとなって、私の目から止めどなくあふれる。

 私、信じてもよかといいの

 震える私の心の声に応えるように、絵里は耳元でささやいた。

 

「和奏が不安になるのなら、誓いの言葉でも記念日でも、あんたが望むものはなんでもあげる。やけんだから、もう泣かんで。私だって和奏のこと」


 私の周りの雨音が、一瞬消えた。


「ずっと前から好いとったよ」




 雨はようやく小降りになってきた。青空を見上げた私の顔を、舞っている水の微粒子が霧吹きのように濡らす。絵里の身体に両腕を回したまま、私はなんとなく浮かび上がってきた記憶を口にした。


「ねえ絵里、知っとう? こういう天気雨のことを、この辺では『狐の嫁入り』っていうんだって」


「へえ、知らんかった。なんで?」


「狐が自分たちの婚礼を人間に見られたくなくて、姿を隠すために天気の日に急に雨を降らせる、っていう話があるっちゃけど」


 ふうん、と気のなさそうな返事をした絵里は、何を思ったか、急にいたずらっぽく瞳を輝かせ始めた。


「それって今の私たちにぴったりじゃない。和奏との二人だけの秘密だから、私だって見られたくはないしさ。どちらがどちらに嫁入りするのかってのは、この際どうでもいいよね」


 自分の頬がかあっと熱くなるのがわかる。記念日をあげると言ってくれたのは嬉しいけれど、何もそこまでとは。人の気も知らないで、絵里は満面の笑顔だ。憎らしい。どうしてあんたはそんなに晴れているのよ、私はまだ残り雨なのに。


「ちょっと絵里、ふざけすぎ」


「ふざけてなんかいないよ、和奏。私ね、昔から」


 あはっと笑うと、絵里は私に顔を寄せた。


「ジューンブライドって奴に憧れてたんだ」


 六月の雨は、いつの間にか止んでいた。

 唇をふさがれた私の目には、海を隔てた半島の上にかかる大きな七色のアーチが映っていた。

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