ホルモン、ホルモン、ホルモン。
惣山沙樹
ホルモン、ホルモン、ホルモン。
「ねえ、こういうのに感情移入しちゃうわけ? 熱そうだなとか、痛そうだなとか」
彼女が指したのは、まるで残虐な刑罰に遭っているように、網の上で身をくねらせてじゅうじゅう音をたてているホルモンだった。
この焼肉屋には僕が誘った。食べ飲み放題。九十分制。彼女は次々とビールをあおり、口紅などとうに落ちていた。
「ビール! あたしのビールどこ! 来ないなら取りに行っちゃうよ!」
呼び出しボタンならさっき押したばかりだ。それなのに彼女は、空になったジョッキでテーブルをゴンゴン小突きながら叫ぶのであった。
あれだな――もし、もし吐くのなら――お行儀よく吐いてほしいな。
「あんたもほれ、さっさと飲みなよ。なによ、チビチビチビチビ、残尿みたい。前立腺はどうしたの? ビールが可哀相じゃないの? ねえ! ねえ! ねえ!」
「そうだね……」
僕は曖昧に相槌を打った。
ダメだ。話す人をチェンジするなり、時間を変えてランチに誘うなりしないとダメだ。しかし、今はともかく、目の前の問題、つまりは彼女の胃袋なり肝臓なりが満足するのを、じっと待つしかない。
「大体さ、その、あんたのHSP? って病気なの? それか、発達障害みたいなものなの? 治るの? うつるの? 死ぬの?」
僕はHSP――日本の頭文字で「非常に繊細パーソン」と訳される特性を持っている。これまで苦労を重ねてきたのだが、学校でも職場でも誰にも話したことはなかった。そんな雰囲気でも根性でもなかった。配慮を求めるつもりすらなかった。期待すればするだけ、裏切られたら痛い目を見るのだ――でも、彼女には知らせたいと思ってこの席に呼んだ。
彼女を選んだ理由はいくつかあった。同期。気さく。表裏がない。口が固い。そのつもりだったんだが。ビール三杯でこうなるとは夢にも思わなかった。
「ちょっと、ホルモンが炭化してる。残尿にかまけてないで食いなよ、ほら早く」
彼女は黒こげのホルモンを僕の皿に投げ入れて、さっき届いたビールをぐっと飲んだ。
「誘ったのはあんたなんだから、行き倒れたら介抱してよね」
「行き倒れたら、って行き倒れる予定があるの?」
「ん、神のみぞ知る、かな」
そう言って大きなゲップ。
まあ、もし行き倒れたら、金を握らせてタクシーに押し込んで手を振って見送って、それから明日の労働のためのウコンドリンクでも飲めばいいや。
僕は黒こげホルモンを咀嚼して飲み込んで彼女に説明を始めた。
「HSPって、ただ繊細なだけじゃないんだよ。人間関係、っていうか生きること全てにおいて、スタミナが三倍速で削られるんだよ。結果的に、専門用語で言うところの易疲労とか、そういうの。勤務中、給湯室でこっそり薬飲むなりしないとまともに働けないって、知ってた?」
彼女はむーん、ほーんだのうなり、通りがかりの店員さんに網の交換を頼んだ。
「……で、あんたさぁ、薬って」
「ヤバいやつじゃないよ。病院行って、三割負担で出されたやつ。合法」
「でもさ、駅前で売ろうと思えば高く売れない?」
「それは発想が非合法」
網が交換された。彼女が牛脂を引いてホルモン軍を展開させた。
「てかさ、なんでそれ、あたしに話したの?」
「それは……」
今となっては期限切れの理由を話した。彼女はわかっているんだかわかっていないんだか、途中からホルモンの焼け具合を気にしだしたし、僕も話を切り上げた。
「でも多分、あたしそれ、明日になったら忘れてる」
「そう」
「だから、間違いを犯しても証拠さえ消せば、事実上なかったことになる」
「はあ」
「ヤリ目でもいいっちゃいいけど、ゴムはしてよね」
「なんでそうなるわけ?」
僕はどうやら相当不機嫌そうな顔をしてしまったらしい。それが気に食わなかったのだろう。彼女はタバコに火をつけながら抗弁した。
「あたしに魅力がないとでも?」
「そうじゃなくて……っていうか、吸う前に一言、何かないの?」
「あのねえ、ここ焼肉屋さんだよ? 動物性の煙と植物性の煙、どっち吸いたいの?」
そんな二択聞いたこともない。さらにはそれ以前の問題だと思う。
「僕が禁煙中なの、知ってるくせに……」
彼女は美味そうに煙を吐いた。
「でさ、あんたのそれ、有病率? 罹患率? 何人に一人がなってるの。その、HSP」
おっと、本題に戻った。快挙。今日この店にきて初めてかもしれない。
「ざっと五人に一人」
「そんなに? 二十パーじゃん」
そして、彼女は左手に火のついたタバコを持ったまま、右手でホルモンを裏返しはじめた。
ホルモン、ホルモン、ホルモン。こんな、ぐにゅぐにゅで薄気味悪い代物をなぜ焼きたがるんだろう。とりあえずタン塩? いいえホルモン。次はハラミやカルビ? いいえホルモン。ホルモンがトップ。
これはきっと、お互いのためにならない焼肉なのかもしれないけど、食べ飲み放題の制限時間の残りはまだたっぷりあった。僕はさらに説明を重ねることにした。
「生まれ持った性質らしいよ。繊細、というか、要するに、不安や危険予知能力が強い個体ほど野生時代のサバイバルでは生き延びやすかった。だから、生殖のうえでも数が勝るし、だから今でも多くの人にその遺伝子が残ってる……っていうことみたい」
「あっこれ裏返しとこう」
火がついて白煙をあげるホルモンを彼女はいじくりまわした。煙い。煙すぎる。僕は言った。
「一旦火、落とそう」
そうしてテーブルのガスを操作しようと手を伸ばすと彼女が制止してきた。
「ちょっと、何すんの。せっかくのアロマが消えちゃうじゃん」
牛脂のアロマキャンドルなんて要らないよ。
結局火を消すことはできず、彼女はホルモンを二つか三つまとめて口に放り込み、それをくちゃくちゃ嚙みながらまた何か言い始めた。
「イマドキだけどさ。カップルで焼肉してる奴らはデキてる、ってのをやってみたいのよね。まあ、その前に潰れそうなんだけどさ」
そう言いつつジョッキをあおった。ホルモンも綺麗に胃に流れて行ったことだろう。
まず、前提条件としての「カップル」に該当しないんだけど――とは口に出さず、代わりにこんがり焼けた小さめのホルモンで口内を埋めた。酔っ払いの言うことだ、アクエリの一本でも持たせてそこら辺に転がしておこう。こげたホルモンはカリカリでこれはこれで美味しいかもしれない。ちょっと苦いけど。
「ちょっとあんた聞いてた?」
「聞いてた。この人ここまで酒癖悪かったんだ、って後悔しながら聞いてた」
「乙女心っていうのを知らねぇのかよ……」
そう言って泣かれても、ホルモンを噛みながらだと風情がない。僕は囃した。
「出た、泣き上戸」
「あのね、あたしもいい歳だけど、ガチで涙流せるような噓泣きはできないわけ!」
と彼女は叫び、背もたれにだん、と背中をぶつけて、ついでに後頭部を衝立に叩きつけた。後ろの客が咳払いをした。僕は頬杖をついて言った。
「動物性アロマが目にしみたんじゃない?」
「いちいち人の心理を論破しないでくれる? あんた、HSPならわかるんじゃないの、その、そういう……心の機微とか」
これ以上話を長引かせても、理解は深めてもらえないだろう。僕は座り直してやや身を乗り出して言った。
「僕はその、どうこうしたいからHSPのこと言ったんじゃないよ。単純に知ってほしかった。ただの承認欲求。だから……」
「だから、あたしはあんたのお母さんじゃないんだってば! わかってほしいんなら、わかろうとする。承認だってする。でもね、それはオナニーだって言いたいのよ、あたしは。甘えだ、とまでは言わないけどさ」
彼女は紙ナプキンで目元を押さえてから続けた。
「でも、HSPじゃない、残りの五分の四のうちの一だって、他の五分の四に対して期待もするし、好きになったりもする。そこらへん機会均等なわけ。確かに配慮するところは配慮するよ」
今度は紙ナプキンで鼻をかみ、さらに述べた。
「つまりさぁ、HSPだとか、五分の四だからとか、必要以上に線引きはしたくないの。あたし、もし好きな人ができたとしても、そこら辺バリアフリーだもん。だから割合、っていうか、配当金とか生きやすさとか、イーブンじゃないにしても、ギブアンドテイクにしよう、ってわけ。オナニーじゃなくてセックス。つまりそういうこと」
そう言い切った彼女は、完全に炭と化したホルモンを脇にどけ、新たに新鮮なホルモンを泣きながら網の上に乗せた。凄い煙の量だ。僕まで涙が出てくる。彼女は呼び出しボタンを押した。
「ねえ! 網! あとビール!」
「あのさ。網きたら、ちょっとホルモンは置いといてハラミ焼かない?」
「いいよ。あたしはホルモンとビール以外、口にしないけどな。あとラッキーストライク」
強情だ。強情すぎて不可思議でもある。
網がきたのでハラミも注文した。新しい網が熱くなるのを待たずに、彼女は新しいホルモンを焼きにかかった。白煙。こんな網じゃ、とろふわのハラミも焼けやしない。動物性の煙にまみれながら、まあこれも悪くないかな、と自棄気味に思った。
「タバコ、ちょうだい」
「火は自分でつけな」
彼女がにゅっと突き出してきた箱とライターを掴み取り、僕はタバコを咥えた。
この近くにラブホってあったっけな。
ホルモン、ホルモン、ホルモン。 惣山沙樹 @saki-souyama
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