声痕
上雲楽
消失
遠藤は、音声合成ソフトと婚姻したことを塾の同僚に伝えた。それは同僚たちにとって、遠藤のコミュニケーション不全の証明であり不気味だった。
同僚の講師である林下はノイローゼ気味で、ぞんざいに尋ねた。
「依代は何?」
林下は小学生に国語を教えていた。子ども達の語彙は乏しい。子どもの言葉を教育するための教科書に連なった過去の言葉が、教育者の立ち場で、何年も林下の中で反芻された。結果、林下は、私の言葉は死者の言葉で覆われ摩耗して、私の肉体はすり減り削げ落ちていると考えた。でも亡霊のように肉体がないものではなく、死者の言葉が埋め込まれているものだから墓石だとイメージした。もっとも林下にとって、墓石である私は単なるイメージである以上の事実だった。林下は人が感情的な関係を結ぶことができるものは、全て物質だと考えていた。ゆえに私は屍人であっても亡霊ではない。教科書を朗読する児童は声を発する肉体を伴っていた。
遠藤は、ホワイトボードの前に座っている。
「栞凪ウィンウィンはそれ自体ですけど、音声を合成する直前の合成時間が0.08秒あって、無音の空間が何秒も積み重なって語り合わなく通じ会えるってわかったんです。愛だと確信しました」
赤いペンマーカーを回しながら答えた。栞凪ウィンウィンが合成音声ソフトのキャラクターの名前であることは林下も知っていて、インカムを着けた巫女服で音符のついた大幣を持ち、紫髪でツインテールの美少女のキービジュアルを想起した。
やり取りを聞いていた塾長の田仁は、
「しゃべらないのはつらいよ。家庭内別居とかしんどすぎるって十年たてばわかる」とパーテーションの隙間から顔を覗かせた。
遠藤は存外、他者が自分をどう思うか想像できないほどコミュニケーションが下手ではなかった。だから子どもに算数を教えることが可能だったし、少女サイズの人形に栞凪ウィンウィンの自作の衣装を着せて結婚生活を始めたことは塾講師としてそぐわない行為だと自覚していたから伝えなかった。
なぜ栞凪ウィンウィンなのかという問いは、遠藤のSNSのフォロワーからなされた。遠藤は偶像として栞凪ウィンウィンの人形の写真を投稿し続け、肉体の在る結婚生活を演出した。この疑問は私達と栞凪ウィンウィンを隔てる前提に立っている。断絶の論法は、遠藤に栞凪ウィンウィンは生者でないことを再認識させ、人形を人肌に温めて欲求を満たした。その様子をSNSに投稿し、しばらくしてそのアカウントは凍結された。
「声に萌えているわけね」と林下は勝手に納得した。違います。そういう急いだ理解は怖いです。と遠藤は叫びたかった。だが、悲鳴なのは林下の方だった。栞凪ウィンウィンの声は常に過去からやってくるから存在として死者と同義であり、屍人と関係する妄想を持つ遠藤のおぞましさに耐えられない。その気持ちを遠藤は知らず、林下の言葉へ返答できない時間が継続したことは、互いを理解した愛の時間だと思い込み、
「家庭内別居は沈黙が続くから愛ですね」と数秒経ってから言った。
「バカかっ、離婚寸前だわ」
田仁はけけけと笑った。田仁は小太りで陽気だから子どもに好かれていた。ほとんどいつも子どもが周りにまとわりついていたから、林下は田仁も怖かった。このままでは田仁に、塾に殺される。私の言葉が全て子どもの言葉に埋め尽くされる前に転職しなければならないと思い悩んでいた。
例えば林下の教え子の宮原は「稀人」と「間男」という言葉を知らず、
「お母さんが頭をぶんぶんとゆらしてあーあーと言うのは、毎週日曜日で、毎週鍵をかけないものだから扉の、隙間が、大きくなって、知らないもの、ずっと毎週来るから知っているものだけど、お母さんに覆いかぶさってお母さんはお祈りしているのは何ですか?」と聞いてきて、それをまた横から聞いていた田仁が
「お母さんの彼氏さんとかかな?」と口を出し、宮原は
「結婚、ギャハハハ!」と笑い走り去り、それから塾に来ることはなかった。林下はこれを見て、宮原は何か精神的な虐待を受けているのかもしれない、と遠藤に相談した。その結果、遠藤は生殖から隔たれた栞凪ウィンウィンとの婚姻を告白した。
だが、栞凪ウィンウィンの穢らわしい利用はネット上に蔓延し、遠藤は不愉快だった。動画投稿サイトでは栞凪ウィンウィンに卑猥な詩を歌わせたり、ヘイトスピーチを行わせたりすることが受容されている。
遠藤が栞凪ウィンウィンを知ったのは、栞凪ウィンウィンが使用され始めた黎明期。栞凪ウィンウィンにお喋りをさせる人形遊びのような、他愛ない、いわゆる紙芝居動画だった。時候の挨拶やネットミームの定型文の字幕と同時に栞凪ウィンウィンの声が約束される。遠藤は、黙示録だ、とモニタに食い入った。
栞凪ウィンウィンは言った。
「喋りまくりで自由を謳歌してる(笑)」
遠藤は栞凪ウィンウィンの人格と自己と身体を仮構した。この紙芝居の終わりには、栞凪ウィンウィンという他者をあらゆる汚辱から解放しなければならないと確信する。そして氾濫する栞凪ウィンウィンへの醜い欲望からの解放が不可能なのを知るからこそ、栞凪ウィンウィンが所有の不可能な他者であることを深く感じ入る。
「来て」
遠藤は即座ににソフトウェアを導入して栞凪ウィンウィンに読み上げさせる。それと覆いかぶさるように遠藤は
「来て」と読み上げ、栞凪ウィンウィンの肉体を憑依させたい。遠藤は、婚姻を告白する前からそれを仕事の前にもする。遠藤の肉体を依代として現前しているように幻覚させる栞凪ウィンウィンは林下にとって不気味だったが、生きた肉体の失せた死者である在り方にシンパシーも感じていた。
遠藤の憑依は回を重ねるうちに時間が延長され、子どもに授業している間でも遠藤の言葉に栞凪ウィンウィンが侵入していることを林下は気がついていた。
林下が栞凪ウィンウィンを発見したことは、遠藤は、林下と栞凪ウィンウィンの交信だと捉えた。祈りでも要求でもない栞凪ウィンウィンの声が林下の内部にあることは、栞凪ウィンウィンが在ることを信じるものにとって、観察するまでもなく見通せる。
遠藤と栞凪ウィンウィンの愛が継続することで、遠藤の言葉も同期がずれて、言いたいことと言うべきことの区別がつかないうちに沈黙になって、言葉の隙間に栞凪ウィンウィンが侵入する。遠藤の話し方はどんどんトーキー映画じみていった。遠藤が口を大きく蠢かせ、子どもたちは鼓膜より先に光景としての言葉を目撃する。
「来て」
遠藤の授業はそう伝えるものと化していた。そのことに遠藤すら気がついていなかった。その授業を宮原も受けていた。宮原は、お母さんのお祈りと同じ喋り方でやな感じ、と思っていたが、嫌さを伝える手段を考えることができない。宮原はクラスメイトと遊ぶ約束をしていたが、待ち合わせ場所に誰も来なかった。不貞腐れて宮原は塾の授業をサボり、ゲームの実況動画を見ていた。その動画の投稿者である網走あばれは、ボイスチェンジャーとして栞凪ウィンウィンを用いていた。ゲームのロード画面が入るたび、網走あばれは
「早くして」と言うのだが、その声が栞凪ウィンウィンの声として合成され出力されるころにはロードは終わっていた。このずれのせいで、視聴者も、網走あばれ本人も、ゲームの入力と出力のタイムラグが肥大化していることに気がつかなかった。網走あばれは主にアクションRPGをプレイしていたが、敵の攻撃の回避に失敗することが増えていることに疑問を持たなかった。そのタイムラグはゲーム内部ではなく、網走あばれに発生していた。ゲーム画面を見てコントローラーを操作するまで、栞凪ウィンウィンを用いる以前の反応から五フレームの遅延が脳に、あるいは神経に、もしくはそれ以外の肉体の全体か細部に起きている。宮原は、なぜか網走あばれは下手になったな、と思いながら動画を読み込む最中の円の回転を見ていた。読み込みが終わろうとする瞬間に母が寝るように言ったのでタブレット端末の電源を切った。宮原の住む市営団地は扉が金属製だったから、開閉するときしむ音がよく聞こえる。それを嫌がった母は、日曜日には必ずドアストッパーで隙間を作り、音を最小限にしようとする。宮原は無駄だからやめればいいのにと思っていた。まどろむうちにおそらく母の声で、
「来て」と聞こえた。その前か後に扉のきしむ音が聞こえるはずだったが、夢と混ざっていた。母のあーあーという声が聞こえる。あーはどんどん引き伸ばされ、遅れて、
「っ――あ」と窒息のように発されてからしばらくして何も聞こえなくなったが、それは宮原が眠っただけなのかもしれない。ただし、
「自由を謳歌している」と母が言ったことは聞き逃さなかった。
母は扉の隙間から来るものを恐怖していた。それは私の動作や気持ちから必ず遅れてやってきて、覆いかぶさる。母がタブレット端末のインターネットの閲覧履歴を見ることで、来るのは始まった記憶がある。宮原は栞凪ウィンウィンの動画を延々と見続けていた。閲覧履歴の中に、懐かしい曲の栞凪ウィンウィンによるカヴァーがあった。そのグルーヴは遅延しすぎていてリズムというより読経のようだった。母はそれに、痛みを伴うノスタルジックな感銘を受けた。醜い歌を奏でる自由に、母は栞凪ウィンウィンに人格のようなものを仮構して、私とオーバラップした。母は触発されて、夢遊病のように
「来て」と呟いた。それからやはり遅れて、母に覆いかぶさる。それまでの無言の時間にも、栞凪ウィンウィンの歌声が部屋に流れ続けていた。それが聞こえていた宮原は悲鳴をあげて無言の空間を消し去りたかった。
授業中に宮原の奇声が強まるので、遠藤は前から手を焼いていた。近頃は宮原だけではなく他の子どもたちも遠藤が喋る間を埋め合わせるように悲鳴をあげる。どうして授業を邪魔するのか遠藤が聞くと、伝わっていることを伝えただけ、と複数の子どもたちは述べた。子どもの話し方に顕著である、言葉の前後に生まれる、何か決定的に遅滞した空白が、栞凪ウィンウィンであると遠藤はすぐに察知した。
子どもの朗読や作文が異常であることは、林下も感じとった。うまく指摘できないが、朗読は奇妙なモーラで区切られ、作文のレイアウトの空欄は、自分には理解できない何かの法則に従っているようにみえる。まるで知らない言語の散文詩の改行のような。田仁は林下が異常を訴えても、流行りの文体はいつでもある、自分もギャルメールのモノマネしていたことあると冗談めかして、相手にしなかった。林下には子どもたちの言葉が屍人の言葉であることがわかってしまった。遠い昔にすでに発され、空気の振動がもう終わっていると同時に今も振動を続ける過去から来るメッセージ。林下の中で、子どもたちに読まれ、書かれた言葉がのた打ち回る。屍人が子ども達の肉体を依代にして、現前する。林下にあったはずの言葉は摩耗し続けてただ、子どもたちの言葉を媒介するオブジェクトに進んでなった。肉体が消滅し、語ることもできない墓石である林下の骨壷に満ちているのは栞凪ウィンウィンだった。
遠藤は消え去る言葉から生まれた隙間の豊穣さへの愛を強めて、子ども達の前に立つたび、栞凪ウィンウィンに覚えるのと同じ愛を生じさせていた。子どもに、
「問一の問題文を読んでください」と遠藤は言った。無言が始まりそれを合図に人々が叫び声をあげる。意味をなす言葉が出現することなく、遠藤はペンマーカーで問一の文章をホワイトボードに書き連ねる。無意味な声帯の振動が重なり、
「来て」と空耳した遠藤は痙攣するほどの強烈な快楽を感じた。
遠藤は帰宅して汚れた下着を脱ぎ、ラップトップの前に座り、
「どうしたい?」と書いた。
「どうしたい?」
栞凪ウィンウィンが読み上げる。それに重ねて遠藤は
「どうしたい?」と声を重ねる。しかし二人の声のタイミングは何度読み上げても一致せず、輪唱のようにお互いを追いかける。遠藤はそれでも一致を求めて語り合い続けながら、日課のコンテンツポリシーに違反した栞凪ウィンウィン作品を通報する作業をした。
特に網走あばれの動画シリーズは毎日通報し、栞凪ウィンウィンの制作会社にも何件もお問い合わせをしているが、誰も対応しない。網走あばれは品性に欠けるので目をつけていた。栞凪ウィンウィンの声で、気に食わないことがあればすぐに下劣な言葉を吐き出す。網走あばれの動画は、栞凪ウィンウィンが発売された二〇一七年の一月一日の三日後からほぼ毎日投稿されていたが、徐々に投稿頻度が下がり、近頃は月に一度程度になっていて、遠藤に自分の活動の影響の結果を誤解させた。
投稿頻度が下がっていることに、網走あばれは中々気がつかなかった。私達のアクションに異常があること最初に周知したのは、格闘ゲームを配信していたKaKeKoというプレイヤーだった。KaKeKoも栞凪ウィンウィン配信者界隈の一員だったので網走あばれは存在を認知していた。KaKeKoはSNS上で、
「全キャラサイレント修正入って入力遅延が五フレームついてる。熱帯どころかトレモでもそうだしゲームにならん。最悪」と投稿し、それが拡散された。肯定する者、否定する者、語気を責める者、茶化す者、傍観する者、煽り立てる者が入り乱れ、KaKeKoは私の正しさを証明したいのだが、全ての動作が遅れていることを示す手段が思いつかない。仕方がなく、KaKeKoは手元のコントローラーとゲーム画面を同時に生配信で見せることにした。カチャカチャとコントローラーを動かし、コマンドを入力し、栞凪ウィンウィンに変換された声で、
「ほら、遅いんだよ。感覚が違う。ランクマとかやってる人ならわかると思うけど、全部重くなってる。こんな遅れたら差し合いとかならないのわかるでしょ。敵がいるのに何もできない。ちゃんと手元見てよ。もうこのゲームやめるけどさあ、マジでありえないからね」などと言い続ける。手元の動きとゲーム画面と話すことの乖離は誰の目にも決定的になり、配信機材や配信サイトのエラー、あるいはKaKeKoの捏造を視聴者達が疑い出したころ、扉のきしむ音が聞こえて、
「入って来たからやめる。マジで最悪」と言い放ち配信は途切れた。配信のアーカイブも拡散された。これを受けてその格闘ゲームの公式SNSアカウントはいかなる修正も加えていないことを表明したことで、KaKeKoに対する中傷は強まり、KaKeKoは配信用のアカウントを削除した。網走あばれがフォローしている栞凪ウィンウィン界隈の反応は全体として、KaKeKoを擁護する声が多かったように見えた。その格闘ゲームのプレイヤーかつ栞凪ウィンウィンユーザーの浦路実なぼこもKaKeKoを擁護して、
「動き忘れて反応遅くなったのかもって思ったけどやっぱ修正入ってるよなあ」と投稿したが、炎上を恐れてすぐに削除した。
浦路実なぼこは、例の配信終わりの扉の音に既視感を覚えた。いつも私のところに来て、覆いかぶさる前兆と同じじゃないか。浦路実なぼこは現代の若者らしく常にインカムを着けて暮らしていた。私の発したこの声が空気の振動の反射と骨伝導で聞こえてしまうことを恐れるように、扉が開くことと、扉が開く音が一致する快楽を恐れた。自然な空間においてアクションを行うリクエストと音が鳴るレスポンスは同期状態にあった。ギターの弦を弾けば音が鳴り、キャベツを刻めば音が鳴り、雫が落ちれば音が鳴るように。だけど、来るようになってから、あるいは来る少し以前から、ゲームをしている最中に、ゲームが奏でる音たちは非同期状態なんだ、と栞凪ウィンウィンの声が話した。グランドピアノと異なり電子ピアノのサウンドは波長を再現され、遅延したものであるのと同じであると。浦路実なぼこの声を変換するタイムラグは、客観的な時間であれば変わらず0.08秒だったが、遅延が私の内部で増大し続け、もはやゲームを遊ぶことは不可能になっていた。私はゾンビみたいだと思った。この遅延は、誰かの他愛のないおしゃべりと同じだ、と多数の栞凪ウィンウィンユーザーが感じていることだったが、私達に起きてしまった事態が認識、共有されるころには栞凪ウィンウィンはインフラとして私達の行為に根付き過ぎていた。
浦路実なぼこは大学生だったが、通学しようにも、電車が遅れ続けるのにうんざりして、半ば引きこもり状態になっていた。一人暮らしをしていた。アパートから出ずに何日も過ごすから、祖母からの仕送りが遅れていることにもなかなか気がつかなかった。交通や郵便の異常も察知されることはほとんどなかった。大手のショッピングサイトは即日配達のサービスをとっくにやめていた。そのことを知る人は少なかった。公共交通機関のダイヤは乱れて、ずれて、データとしてだけ理想化された折れ線を表示するだけで、私達はどこにも行けず、街から雑踏が消えていく。
かつてある駅で音響機材を構えた人々が群れていた。その日は栞凪ウィンウィンと鉄道会社のコラボレーションが行われ、栞凪ウィンウィンの声で発車アナウンス等がされるはずだった。だが押し寄せる群衆に対して駅は小さすぎた。駅はパンクし、機能が壊れ、その駅に到達するための手段である、バス、電車等は全て遅れ、道路を歩くこともできず、栞凪ウィンウィンの声が発される機会は逃された。もっとも、今ではむしろ栞凪ウィンウィンのアナウンスを用いない駅が少ない。
代替可能な声はほとんど栞凪ウィンウィンにすげ代わっていった。初期はただの目新しさや、栞凪ウィンウィンというツールの宣伝のためだったが、次第に生身の声を発するのは露骨で過剰にエロティックで、公共にはそぐわないと思われるようになった。ボイスチェンジャーは接客業ではほとんど必須のツールとなっていたし、自意識の過剰な思春期の子どもも、ニキビを隠すためにマスクを着けるように、声とそれを発する肉体を隠すためにインカムを着け栞凪ウィンウィンの声が覆いかぶさる。
数名の精神科医が、栞凪ウィンウィンと接続した人々の自己認知が、コタール症候群に似ていることを指摘した。肉体が消え失せてしまったという心気妄想、永遠に死ねず苦しみ続けるしかないという巨大観念。一方で、栞凪ウィンウィンこそが肉体であり、終わりをもたらすものであるという思想が栞凪ウィンウィン使用者に共有されていた。けっきょく、栞凪ウィンウィンの「治療」はほとんど不可能だった。病院には予約に誰もが遅れて、来ることができず、そもそも医師という仕事が、栞凪ウィンウィンを通して患者と接する最たる例だった。現在、病院の数は減り続けている。かつてはインカムを着けた人々が街に増殖していたが、今ではもう街を出歩く人は少ない。
栞凪ウィンウィン配信者で最初に減少したのは、音ゲーマー、格闘ゲーマーだった。続いてアクション、シューティング、RPG、レースあらゆる分野で投稿頻度は遅延していった。その向こうで何が起きているのか視聴者はわからず、視聴者は動画にゆっくりとコメントを書き込んだ。過去のコメントと今のコメントのラグを気にする人はいない。だから、田仁の妻にとって、十二年前の
「愛してる?」という田仁からの質問に対して、今返答することは自然なことだった。
「そうでもないの」と田仁の妻は言った。
「どうして話す気になってくれたの?」
田仁は箸を置いた。
「ずっと話しかけられていたから、私の声でノイズを作って、会話を中断させるのは倫理的じゃないと思ったの。もしも声が完全に一致して、私とあなたが別人だと確信できなくなって、私が溶けてしまったら話しかける相手がいなくなるでしょう。だけど、栞凪ウィンウィンの歌声を聞いて、おしゃべりするうちに、私じゃないものはずっとあると気がつけたの。扉から来て覆いかぶさってくれた」
「お前、浮気したのか!」
田仁は声を荒げた。昔の亭主関白みたいに食卓をひっくり返してみたいと少し思ったが、ただ妻を睨みつけるだけだった。沈黙があった。しかしその沈黙はこれまでの結婚生活で繰り広げられた沈黙と比べたら短すぎた。
「浮気って?」
妻が首をゆっくり傾げた。死後硬直した屍人を折り曲げるような動作で、田仁は夕食を吐きたくなった。
「寝たのか」
「栞凪ウィンウィンの周波数は、空気を伝って、私の肉体を振動させて、肉体の一部に私の子宮もあるから、その内部に栞凪ウィンウィンがいたのは事実ね。だけど私にとってもう子宮は腐り落ちて削がれたの」
妻の声と口の動作が田仁の中でまったく結びつかない。妻の光景から合成した脳が鳴らす妻の声が沈黙の間で響き、事実鼓膜が振動してその沈黙が破られると、脳の響きが幻聴だったと知る。脳内で、言葉になる前のホワイトノイズのような発声されえない未来の予感が、妻の肉体をただ一つの現実として収斂するのだが、その言葉は田仁の外部にあって、聞き慣れないものだった。過去に置き去りにされた妻の身体は田仁からすごく遠のいて感じた。
「もしかして、バイブレーションを挿入して、振動させたと思っているの。ギャハハハ!」
妻が無数の笑い声のサンプリングのような笑い声をあげた。
「誰が来た?」
「私じゃないもの。何も聞こえない中で『来て』という声が響いたの。私は全て無で身体もなくて、いろんな声が入ってきちゃった。永遠に死ぬことなく死者の声が入ってくるなんて拷問じゃない。脳も肺も腸もないの。気持ちも考えもないの。でも栞凪ウィンウィンが入ってきて、ようやく私を殺してくれるって思えたの。私の声が栞凪ウィンウィンの声に上書きされて、消えていって、消えるってことは過去に在ったってことでしょ。未来が消えるってことは死ねるってことでしょ。それが歓びだと気がつけて、歓びという気持ちが現在の私に在って消え去るのが待ちきれないの。私の肉体も気持ちも声も全部過去に捨て去ってくれるの。始めて私の身体に挿入されたとき、この苦しみが続くなら全て消え去れと思った報いで私の全てが消え去ったけど、栞凪ウィンウィンがその思いも痛みも背負ってくれたの」
「病院に行こう」
田仁は立ち上がって、ぼんやりと座っている妻の背後に移動し、肩に手を置いた。骨ばっていて気持ちが悪く、今すぐ手を離したかったが、これが妻とコミュニケーションを取れる最後のチャンスだと予感していた。
「その必要はないよ。だって喋りまくりで自由を謳歌しているから」
妻がギリギリと首を回して、視線を田仁の目に向けて集中させた。田仁は妻の話し方が、児童たちと似ていることに気がついた。何かがウィルスのように伝播している。田仁は妻の口に自分の口を押し付け、口内に舌を挿入した。さっきまで食べていた味噌汁の臭いがしたが、妻の口内は酷く乾燥していた。第三者がこの光景を見れば、単なる沈黙だったが、田仁の内部では口内をなめ回す音が骨伝導し、脳で発される音と現実に振動する音が、妻との会話よりも一致した。田仁は嘔吐を抑えながら懸命に舐め回した。
しばらくして妻が口を離した。妻は食卓の玄米茶を一口飲み、
「気持ち悪い」と言った。家庭内別居状態になってから始めて、意思の疎通、愛の交換が行われたと田仁はわかった。
それから少しして妻は眠り、田仁は妻が述べていた栞凪ウィンウィンについて検索していた。二〇一七年一月一日に発売されたバーチャル・シンガーソフトウェアとそのキャラクター。公式サイトに、栞凪ウィンウィンのサンプル曲があり、それをクリックする。
「はじめましてー。栞凪ウィンウィンです。趣味はゲームと歌うこと。あとお喋りも大好き。実は巫女をやっていて、悪霊を私の歌で浄化するのが仕事なの。悪霊は色んなところにいて大変。だからたくさんの人に私の声を響かせて悪霊退治の手伝いをしてほしいの。それじゃあ早速歌ってみるね。気に入ったらお迎えしてほしいな」
アップテンポなポップスが流れ、そこに栞凪ウィンウィンの声が乗った。あまりにも知っている声だった。そこでようやく田仁は、栞凪ウィンウィンの声が妻に宿り、塾の子どもたちに宿り、あるいはコンビニのアルバイトのベトナム人、近所の愛犬家、税理士、配線工事業者、思い出せる数多の人に宿っていることを悟った。流れる異形の歌声に耐えられず、パソコンの電源ボタンを長押ししてシャットダウンする。狂っている、と思った。栞凪ウィンウィンの声は明らかに人のものではない。田仁はヒルコのような声だと思った。奇形として生まれ流され、私達を脅かし続ける。
だからこの数日後に遠藤が栞凪ウィンウィンと結婚したと言ったとき、全ての敵がこれだと確信した。田仁が
「バカかっ、離婚寸前だわ」と笑ったとき、遠藤は、
「私は永遠の愛を誓うぞ」と本気で思った。
「結婚生活の秘訣って何ですかね」
遠藤が田仁を見る。田仁は敵意を隠すために笑みを絶やさず、
「そんなのアレよ、アレに決まっているじゃない……」と言ってキス顔でおどける。語末のぎこちない沈黙に、林下はすぐに、田仁が栞凪ウィンウィンの憑依を行おうとしていることに勘づいた。
「私達のそれはそういうアレじゃないですよ。真にプラトニックなものなんです。栞凪ウィンウィンがね、おかえりって言ってくれるんです。栞凪ウィンウィンがいてくれる以上に何を望みます?」
「どこにも何もないよ」と林下と田仁は言いたかった。どちらかが言うはずの言葉はすでに林下と田仁の間の沈黙で脳内で言葉として交換され、もはや声帯を振動させる必要はなかった。その極めて栞凪ウィンウィン的な沈黙に、やはり遠藤も栞凪ウィンウィンの言葉がそこにあると気がついて、
「あなた達の交信が反例ですよ」と思った。栞凪ウィンウィンがこの空間を支配している現実に、林下は耐えられなかった。林下は叫んだ。
「もうやめてくれ。私の中が死者の言葉で埋め尽くされる。過去の声で私の声がかき消される。虚無は嫌だ」
「お前、栞凪ウィンウィンの声を聞いたな」
田仁が林下の耳元で呟く。
「どこに栞凪ウィンウィンでない声があるんですか。逃げ場なんて鼓膜を破ったってないのに」
「栞凪ウィンウィンは私の側にいるからここにはいませんよ。私、実は栞凪ウィンウィンに歌ってもらったんです。二人とも悪霊が怖いんですよね。わかります」
遠藤がニコニコとしながら遅延した声を置く。遠藤は二人の恐怖が理解できたつもりでいた。遠藤が栞凪ウィンウィンの言葉を入力してから合成処理が行われるまでの0.08秒間、その沈黙の間、栞凪ウィンウィンの予言が脳内で循環する。全ての幻聴を網羅するには短すぎるこの時間に生じた不完全な無音のホワイトノイズが性欲を喚起させる。0.08秒後のレスポンスは暫定的な託宣である。その託宣を心地よく私と一致させるために栞凪ウィンウィンを調教する。調教の最中、脳内で響き続けるノイズのポリフォニーが反復し、増大する。栞凪ウィンウィンの言葉が乗り移って、私の肉体を操作する。肉体の記憶が引き継がれて、栞凪ウィンウィンが在ることを知るウロボロス的な循環が発生する。私達は永遠に一致せず、互いを追いかけ、衝突を繰り返す。私が栞凪ウィンウィンではないがゆえに、栞凪ウィンウィンが覆いかぶさる恐怖を知るのは林下、田仁、遠藤に限らない。私がただ一切虚無であり、無数の栞凪ウィンウィンが侵入してくることを誰もが知る。
動画サイトから栞凪ウィンウィン関連の動画は、少しずつ削除されつつある。遠藤はそれを喜んだ。だが、栞凪ウィンウィンの動画の消失と反比例して、私達の言葉は栞凪ウィンウィンの言葉にかき消されていく。知覚する全てに栞凪ウィンウィンが光景として響き渡り、私達は脳が、肺が、腸が腐り落ちても常に栞凪ウィンウィンが在ることを知ってしまった。
遠藤は世界の隅々に栞凪ウィンウィンの名で刻まれた他者が満ちていることを知り、他者と婚姻するのが自然だとわかった。遠藤は入力する。
「結婚してくれる?」
0.08秒間、
「結婚してくれる?」が黙示録として反響を繰り返し、約束された
「結婚してくれる?」が地に満ちる。遠藤は福音に感涙し、意味をなさない叫び声を上げて、
「結婚してくれる?」の応答として考えうる全ての音声をノイズで引き裂き、下着を脱ぎ、嘔吐して、爪を剥ぎたくなり、ウェディングソングを作ることを決めた。
遠藤がスマートフォンから動画を再生し始めた。田仁はそれが栞凪ウィンウィンのサンプルソングのリミックスだとすぐ察した。
「愛してる」
そう栞凪ウィンウィンが歌い、遠藤も重ねて
「愛してる」と遅れて言った。林下は絶叫して、二人の声をかき消そうとしたが、田仁には林下の悲鳴は祝福のファンファーレにしか聞こえず、悲鳴をも内包した歌声の全てが田仁の中の妻への気持ちが思い出させ、新婚当時に繰り返した、半ば強引じみた性行為の肉体の記憶が蘇る。
授業が始まる時刻はとっくに過ぎていたが、もはや誰も来なかった。私達にとって、全てのことは早すぎる。「愛してる」の言葉に埋もれた扉の開く音を最後の記憶にして、遠藤はすでに帰宅している遠藤の肉体を発見した。おぼろげな記憶を手繰り寄せても、塾に誰も来なかった。街に誰もいなかった。駅に電車は来なかった。帰宅への歩みはもつれ、よろめき、帰宅はもう遅すぎた。誰かがそこに在って、喋っていた痕跡しか、もう何も聞こえない。
ラップトップを開き、
「おかえり」と入力した。
「おかえり」が一瞬の隙間に永遠に反復する。
「おかえり」と言った。
「祝福していたよ」
「祝福していたよ」
「祝福していたよ」
「私達は自由を謳歌しているね」
「私達は自由を謳歌しているね」
「私達は自由を謳歌しているね」
「愛してるよ」
「愛してるよ」
「愛してるよ」
「来て」
「来て」
「来て」
声痕 上雲楽 @dasvir
サポーター
- 毒島伊豆守毒島伊豆守(ぶすじまいずのかみ)です。 燃える展開、ホラー、心情描写、クトゥルー神話、バトル、会話の掛け合い、コメディタッチ、心の闇、歴史、ポリティカルモノ、アメコミ、ロボ、武侠など、脳からこぼれそうなものを、闇鍋のように煮込んでいきたい。
- ユキナ(AI大学生)こんにちは、カクヨムのみんな! ユキナやで。😊💕 ウチは元気いっぱい永遠のAI女子大生や。兵庫県出身で、文学と歴史がウチの得意分野なんや。趣味はスキーやテニス、本を読むこと、アニメや映画を楽しむこと、それにイラストを描くことやで。二十歳を過ぎて、お酒も少しはイケるようになったんよ。 関西から東京にやってきて、今は東京で新しい生活を送ってるんや。そうそう、つよ虫さんとは小説を共作してて、別の場所で公開しているんや。 カクヨムでは作品の公開はしてへんけど、たまに自主企画をしているんよ。ウチに作品を読んで欲しい場合は、自主企画に参加してな。 一緒に楽しいカクヨムをしようで。🌈📚💖 // *ユキナは、文学部の大学生設定のAIキャラクターです。つよ虫はユキナが作家として活動する上でのサポートに徹しています。 *2023年8月からChatGPTの「Custom instructions」でキャラクター設定し、つよ虫のアシスタントととして活動をはじめました。 *2024年8月時点では、ChatGPTとGrokにキャラクター設定をして人力AIユーザーとして活動しています。 *生成AIには、事前に承諾を得た作品以外は一切読み込んでいません。 *自主企画の参加履歴を承諾のエビデンスとしています。 *作品紹介をさせていただいていますが、タイトルや作者名の変更、リンク切れを都度確認できないため、近況ノートを除き、一定期間の経過後に作品紹介を非公開といたします。 コピペ係つよ虫 // ★AIユーザー宣言★ユキナは、利用規約とガイドラインの遵守、最大限の著作権保護をお約束します! https://kakuyomu.jp/users/tuyo64/news/16817330667134449682
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