空の青さは人の唄

色街アゲハ

空の青さは人の唄

 一面ヒースの茂る小高い丘の上で、一人の吟遊詩人が不意に降って湧いた詩想の推敲に夢中になる余り、自身が踏み込んだ場所の異質さに気付けずにいた。

 周囲の遮る物とて無い此の荒野に、丘の上から見下ろす形の、遥か先まで広がる平原に突如として現れる、この場には明らかに不似合いの大理石で出来た柱廊の跡。恐らく神殿であったろうその痕跡は、大きく空に向けてその腕を伸ばしている様に見え、あらぬ方向に目を留めたまま歩み続けていた詩人は、その中に踏み込んでいた事に暫く気付けずにいた。

 ふと我に返り、周りの余りの異質さに驚き見回す詩人の目に、立ち並ぶ柱の、それは覆い被さるかの様に詩人に向けて迫っている様に思われた。

 見上げれば、先程下って来た丘の上に重なる形で並び伸び上がる柱の群れは、まるで何かに向けて差し出された様で。

 薄く雲の張った少しくすんだ色の青空を覗かせる空はその背後に広がって、遥か遠い過去より齎された薄くヴェールを被った予知デルフォイの巫女が、如何にもその上から弱々しい白い光を投げ掛ける太陽を背にして舞い降りて来そうな、そんな雰囲気を湛え、詩人は自身の詩想と新たに降って湧いたその幻想とを結び付けられないかと、再び自身の夢想の内に没頭して行くのだった。


「空の青さは人の唄。」


 旅の途中で何の前触れも無く降りて来たその言葉に、詩人は無意識の内に虜になってしまい、足の向くままに歩き続けたその末に、辿り着いたのがこの今となっては誰一人訪れる者の居ないこの場所。

 改めて声に出し、その文句を宙に紡いでみて、それが降り立つ幻想の巫女のヴェールと溶け合い再び空へと帰って行く様を夢見、詩人は再び見上げた空の中に、その答えを垣間見た様な気がした。


 振り仰ぎ、背にした先の地平線からぐるりと巡り、先に広がるもう一つの地平に至るまで余さず覆う空の内に、一つ所を目指すかの様に流れ走る薄青い筋引くそれ等はさながら精霊の様に映った。数限りなく空を覆い尽し、忽ちの内に空を青く染め上げ、何処へ向かうのか遥か向こう、地と空とが合わさるその更に向こう側へと流れ流れて行くその様は、眺める者をして何時しか連れ立って空の中を共に奔り、未だ見ぬ地平の先へと連れ去られる様な、そんな吸い込まれて行きそうな、見上げる先に大写しになった空の、それは尋常ならざる眺めであったのだった。


 ァ、エォ、ァエォ、ェオ。


 意味の無い語句を空に向けて投げ掛けて、それが誰に受け取られる事も無く宙に浮き、人の足が地面に吸い寄せられる様に、行き場を失ったこの言葉も又、空に向けて吸い寄せられ昇って行く。

 言葉は、人の口から出でて、人の耳へと受け取られるもの。けれども、誰に聞かせる訳でも無く、自ずと洩れ零れるかの様に吐き出された言葉は、元より受け取られる為の物ではなく、敢えて言うならば、其れは世界の前にそっと差し出された、ささやかな添え物の様な物。

 それでも、言葉と云う在り方の常だろうか、受け止められる先を求め地表を彷徨い、長い旅路の内に人の世がすっかり様変わりしたその後になっても、尚落ち着く先は無く、その間に言葉の内に有った人の息吹はすっかり削げ落ち、最早地上に居る理由を失ったその言葉は、最終的に空を目指し舞い上がって行く。


 遥か先に地表一杯に広がる空の切れ目に目指す物があるとでも云う様に、数限りない言葉の群れが一斉に飛び立ち流れて行く。空はその煽りを受けて風は逆巻き、雲は凄まじい勢いで散り散りになりながらその後を追う。


 しかし詩人は、諸国を旅し続けて来、様々な事を耳にして来た詩人は知っている。この地上が平らかではなく、途切れる所の無い丸い世界だと云う事に。

 故に言葉の旅に終わりは無く、廻り廻って同じ空を辿り着く事無く永遠に旅し続ける。終わりの無い旅路の中、その身に纏っていたあらゆる物は悉く消え失せ、其れ等は言葉を超えた‶詩″その物となり、その身は増々青みを帯びて行く。


 見上げる詩人の目に広がる無数の詩の大奔流。それ等は最早人の身が触れるには余りに純粋に過ぎて、もし仮にそれに触れる事が有ったならば、忽ちの内に心も身体も弾け飛び、終わりの無い膨大な流れの一部となってしまうのだろう。人の身にとって空は決して触れ得ない物。それは決して故無き事ではないのだ。


 轟々と轟きうねりながら今も尚空を埋め尽くさんばかりに流れて行く言葉の大河、その一つ一つはこうして見上げている間にも増々其の色を増して行き、こうして空は一段とその青みを増して行くのだった。その叫びは風と共にこの地表に届き、何時しかその上に息衝く者達に知れず語り掛け、その在り方に沁み透って行く。

 草々は風を受けて翻り、その中に込められた微かな囁きはやがて色とりどりの花となって、束の間この地表を覆い彩る。空を舞う鳥達の、その羽根の上にそっと降り立った言葉の名残は、渡る羽根の上に乗って、一つ所からまた別の場所へと届けられ、森の奥、孤独な獣の内に密かに忍び込んだ詩の一欠けらは、夜の夢の内に花開く。


 そして旅の途中に立ち寄った町で、場末の酒場の隅に位置取ると、吟遊詩人は自分でもそれと気付かないままに、空より齎された言の葉を、その手に携えた弦楽器リュートの調べに乗せて、酒精に鈍った人々の、心の中に染み入る様に、歌い紡ぐのだった。


         ‶空の青さは人の唄、


              ァ、エォ、ァエォ、ェオ″


 何時しか詩人に合わせ人々は何かに促さられるかの様に、口々にその詩句を紡ぎ出す。



           ‶ァ、エォ、ァエォ、ェオ″


 

 外では、束の間青空の去った夜の星の鏤められたその中に、一つの星がその歌に呼応するかの様に、数度瞬きを繰り返していた。

 その言葉が空のその更に先、星々の世界にまで届くかの様に。




                            終

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