壺中の天

@ninomaehajime

壺中の天


 老いた魚売りがいた。彼が売る魚は一風変わったものだった。

 肩に担いだ天秤棒の下の木桶には、目のない奇魚きぎょしかいなかった。海で獲れたとも川で獲れたともつかぬ。ただ見た目に反して美味で、珍味を求めた食通に好まれたという。

 かくいう自分も食したことがあり、恐る恐る口に運んだその身は柔らかく、骨がないのではないかと思うほど口の中で容易くほどけた。牡蠣かきの食感にも近く、喉をつるりと滑り落ちた。

 なるほど、好事家に買い手がつくわけだ。その魚売りの仕入れ先は誰も知らなかった。同業者が探りを入れ、結局何もわからなかったという。気まぐれに町に現れて、目のない魚を売り歩いた。

 ところがここ最近、その魚売りを目にしなくなった。廃業したのか、好事家たちは大いに残念がった。私も密かにあの魚の味が忘れられず、町に繰り出すたびに天秤棒を担いだ老人の姿を目で探した。

 その甲斐があったのか、偶然に彼と会うことができた。見慣れたねじり鉢巻きに半纏はんてんを羽織った格好で路傍ろぼうの石に座っていた。ただ、商売道具であるはずの天秤棒と木桶はない。何かを、耳に当てている。

 私は魚売りに話しかけた。

「魚売り、久しぶりだな。今日はあの奇天烈な魚は売っていないのか?」

「これはこれは、旦那」

 魚売りの老人は片耳から手を離し、こちらを見上げた。相変わらず歯が欠けた、間の抜けた顔をしていた。顔面のしわを縮めて笑うさまは、不思議と愛嬌がある。

 彼は座ったまま答えた。

「あの魚は、もう獲れませんや」

 その返事に落胆を覚えた。どうやら、自分は思ったよりもあの奇魚のとりこになっていたらしい。

「なぜだ?」

「どうにも湖の主を怒らせちまいまして」

 魚売りは胡麻塩ごましお頭を掻いた。その仕草は、主人に叱られる丁稚奉公でっちぼうこうの小僧に似ていた。

「湖の主?」

「へい、もしまた魚を獲りに行こうものなら命が幾つあっても足りませんや」

 晴天を見上げた。どうにも老人の言葉の意味が通らなかった。あの目のない魚はどこぞの湖から獲れたものらしいが、湖の主とは何だ。漁を管理する人間がいるのか。

 魚売りは俯いて、手元をいじっている。好奇心をくすぐられた。

「お前、何を持っている」

「これですかい。湖の主を怒らせた理由でさあ」

 老人は憎めない笑顔を浮かべて、それを差し出した。

 千切れた人の耳だった。

 


「おっと、あっしが何か手を汚したわけじゃありませんぜ」

 しわがれた手の上に乗せられた片耳は綺麗な形をしていた。腐敗はしておらず、艶々つやつやとしている。耳たぶが大きく、いわゆる福耳というのだろうか。

 狼狽ろうばいする私に構わず、魚売りは愛おしそうに耳の軟骨をなぞった。

「お前……その耳は、どこから」

「釣ったんですよ」

「釣った?」

「ええ、ええ。湖の主からちょいと拝借しやして」

 理由を聞いても、意味がまるでわからない。その湖の主とやらがなぜ人体の一部を持っている。この男が盗み出したというのか。釣ったというのは、何かの比喩なのだろうか。

「気になりますかい、旦那」

 こちらの内心を見透かして、魚売りの老人が言った。厚ぼったい瞼の奥の瞳は澄んでいる。

 正直に言えば、この時点で不吉な予感がしていた。ただ、どうにも己は酔狂な性分らしい。

「ああ」

「そうですかい。旦那には贔屓ひいきにして頂いたんで、お話するといたしましょうや」

 魚売りの男は語り出した。

 以前の男は市井しせいに溢れ返る棒手振ぼてふりの一人でしかなかった。早朝、魚河岸に鮮魚を仕入れに向かっていた。空の色が透き通った時刻だったという。ひしめく小舟のあいだを縫って、小さな何かが浮かんでいた。丸みを帯びた形をした壺だった。どうやら唐物で、鮮やかな模様に彩られている。

 魚売りは誰にも見られないうちに、落ちていた棒で壺を手繰り寄せた。男には値打ち物に見えたからだ。売れば酒代になるだろう。

 狭い路地の陰で壺を検めた。ひび割れ一つなく、滑らかな手触りだった。風に押し流される雲を描いたとおぼしき渦巻き模様が施されており、男の目から見ても物珍しい一品だと感じた。これなら良い値で売れるだろう。

 ほくそ笑んだ魚売りの耳に、何者かの囁き声が触れた。卑屈な性格の老人は、悪事に手を染めている様子を見られた心地になって、周囲をうかがった。早朝の小さな路地には人気がなく、誰の姿もない。

 なのに囁きは止まない。魚売りの男は訝り、音の出所を探った。答えは手元にあった。窄んだ壺の首を通して、丸い口から漏れ聞こえている。

 何かいるのか。片目を閉じ、壺の小さな穴を覗きこんだ。

 意識が反転した。どこかに吸いこまれる感覚があった。天地が逆さまになり、空へと落ちていく心地がしたそうだ。

 気づけば、魚売りの男は見知らぬ岬にいた。眼前には広大な湖が広がり、背景には山脈がうねっていた。遥か向こう岸は黒い針葉樹林に縁取られている、白んだ空には雲の欠片もなく、夜ではないにも関わらず太陽は見えなかったそうだ。

 胡麻塩頭の老人は途方に暮れた。ここはどこだろう。自分は魚河岸に向かう途中だったはずだ。記憶が混濁していた。ふと、足元に丸い壺が横たわっていた。

 そうだ、己はこの壺を覗きこんで――。

 またあの囁きがした。湖の方から聞こえていた。魚売りの男はその声に誘われて湖面を覗きこんだ。透き通った水中には魚影が見え隠れした。何の魚だろう。まさか、魚が喋っているわけではあるまい。

 湖岸に両手をついて、水面に片耳を寄せた。声が囁く。自分が知っている言葉ではなかった。ただ、漠然と意味が理解できた。小さな波紋が広がる。

 自分を釣り上げてほしい。

 思うに、このときから既に老人は正気を失っていたのだろう。得体の知れない声に、彼はこう答えた。

「へい、釣り竿を持ってきやすんで……」

 おそらく、この男は笑っていたのではないか。

 その不思議な世界から抜け出すのは容易だった。また壺を覗きこめばいい。それだけで現世と行き来ができた。男は釣り具を持ち出し、壺の世界へと入った。湖面に釣り針を垂れると、餌をつけていないにも関わらず魚がよく獲れた。例の目がない魚だった。

 日々の生計は立てなければいけない。わずかに残った理性でそう考えたのだろうか。男はその湖から獲れた魚を桶に入れ、天秤棒にぶら下げて売り歩いた。最初こそ町民から気味悪がられたものの、興味本位で購入した物好きから評判が広まり、巡りめぐって私の口に入ることになったわけだ。

 ともあれ、謎の声に従って魚売りは釣り竿を握り続けた。目のない魚ばかりがかかり、無造作に放り投げた。周囲を奇魚が跳ねる中で、盲目的に釣り糸を垂らす老人の姿は、狂気そのものだっただろう。

 その日は唐突に訪れた。

 釣り竿を携えて、壺の世界で釣りを始めた。やがて糸を垂らした水面から波紋が生まれた。手応えがなく、確信はなかった。ただ釣り糸を通じて、あの囁きが腕に伝わった気がした。

 慎重に引き上げると、釣り針がごく小さな肉塊を貫いていた。しわがれた手のひらに下ろす。濡れていたのは、人間の片耳だった。

 老人の顔から自然と笑みが広がったという。これだ。この耳こそが自分を誘ったのだ。大切に両手で包みこみ、頬ずりをした。

 不意に地鳴りが響いた。魚売りの男は立っていられず、尻餅をついた。壺の世界全体が震え、眼前に広がる湖水が見る見る真紅に染まったそうだ。

 釣り上げた耳を後生大事に抱えていた老人は、自らの体が浮かび上がるのを感じたという。足が地から離れ、そのまま空へと吸いこまれていく。初めて壺の中を訪れた感覚と酷似していた。

 ただ異なるのは意識は明瞭めいりょうとしており、眼下の光景を目撃したという。山脈に囲われた湖は目の形をしており、瞳の中心まで見て取れた。黒い針葉樹林と思っていたのは睫毛で、はっきりとまばたきをした。

 高空まで浮かび上がったところで、血走った巨大な目がこちらをとらえたのがわかった。恐怖のあまり、魚売りの老人は失神したという。

 意識を取り戻すと、現世に戻ってきていた。倒れ伏した傍らで、あの壺が粉々に砕け散っていた。



「……あれはきっと、湖の主だったんでさあ。この耳を釣り上げたせいで、あっしは怒りを買っちまったんです」

 語り終えた老人は、そう述懐じゅっかいした。

 私は何と言えば良いかわからなかった。妄想幻覚のたぐいと片づけるのは容易い。ただ目のない魚を確かに食しており、眼前の老人は耳を愛でている。

 私まで頭がおかしくなりそうだ。

「その、湖の主を怒らせた原因が釣り上げた耳だというなら、早々に捨てた方が良いのではないか」

 そう提案すると、魚売りの男は信じられないという顔で私を見上げた。

「とんでもねえ。この耳は、いつもあっしに囁いてくれるんです。甘い声で、感謝してくれるんです。囚われだった自分を釣り上げたあっしに」

 胡麻塩頭の老人は愛おしそうに誰のものとも知れない耳に、己の耳を合わせた。その様子がまるで接吻せっぷんしているようで、吐き気をもよおした。

 そのとき、目の前を通過して何かが降ってきた。足元に目を下ろすと、地面にあの目のない魚が横たわっていた。鱗を濡らし、しきりに跳ねている。つい先ほどまで水の中で泳いでいたかに思えた。

 魚売りの老人は耳を愛でるのに夢中で、異変には気づかない。とろけた笑みで、こちらを見上げた。

「それに、あの壺は割れちまった。もう彼方あちら此方こちらを繋ぐ術はありませんや。どうして湖の主があっしをどうこうできるって言うんですかい」

 彼が喋っているあいだにも、目のない奇魚が次々と降ってくる。どれも生きており、大勢の拍手にも似た音があたりに満ちる。狼狽しながら、私は空を見上げた。

「この耳はもうあっしのもんでさあ。誰にも渡さねえ」

 そう言い放つ老人の遥か頭上で、青天を裂いて巨大な瞳が見下ろしていた。その眼球は血走っており、明らかにこちらを凝視していた。

「見つけた」

 遠のく意識の中で、その声が妙に近く聞こえた。



 後から聞いた話だ。私は目のない魚の群れに囲まれて倒れており、あの魚売りの老人の姿はどこにもなかったという。

 彼がどうなったかはわからない。ただ、もう二度と姿を見ることはあるまい。

 あの夢幻とも思える出来事から、よく空を仰ぐようになった。とある疑問が胸に根づいて離れなかったからだ。

 果たしてこの世は、壺の外か内か。

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