月の鳥
化野夕陽
月の鳥
その翼に羽根はない。
誰も、彼らが飛ぶものだとは思っていなかった。おそらく彼ら自身もそうであっただろう。羽根はないけれど、表皮には羽毛が細かく生えていて、それは光を吸い取る天鵞絨のような闇を纏っていた。
誰がこんなところへ連れてきたのか。何を、夢見ていたのか。
月にドーム都市が築かれ、最初の移住者から幾世代も繋がった頃、ペンギンと呼ばれていた生き物は気まぐれに連れて来られ、そこで彼らもまた幾世代もの廻りを経ていた。その進化は人よりも随分早い。予想されてもいたが、それよりも早かった。そして、これまた予想されていたことだが、余計な手を出す者も現れた。必ず、と言いたくなるほど、人は余計なことをするものだ。
〈バーダ〉
ただでさえ舌足らずな発声が、濁った水音のせいでざわざわしている。それが私を呼ぶのが聞こえた。聞こえないふりをしようかと思ったけれど、先に反応してしまったから仕方ない。テナイの声はそれ自体は悪くない。まろやかで暖かい。少しも相手を怯えさせることのないものだ。半水の中で私はすでに彼に向き合っていた。
〈もう、仕事、終わる〉
尋ねているのか、自分がそうだと言っているのか分からない。大きな丸い金色の目がくりくり動く。
〈終わったの?〉
彼は頷く。そうか。では帰りましょう。何も言わずに、私は身を翻した。
耳の後ろから除気泡機付き水中マイクを引き出し、スイッチを入れる。連動するイヤホンから、ビビ、と何かの処理がされる音がして、一瞬後には異様な静寂が迫って来る。押しのけるように声を出す。
「管制? 二十七番パイプ、チェック八、終了です。p・バーダ。ええ、そう。テナイも。いつもと一緒」
テナイを待つ間に、そこまでの要チェックポイントの確認は二度済ませた。テナイの仕事は早くない。けれど、私よりも丁寧で安心できる。
〈帰るよ〉
声をかけ、テナイを見る。薄い瞼が上下した。自分の声がゴロゴロ濁るのは、好きじゃない。水中に居ることは好きだけど、水中で話すのは嫌いだ。それは声を出すべき処じゃない、と思う。
マイクを押し込んで、手指を引っ込め、大きく平たい腕を動かす。
パイプの中を移動しながら、私は下界を背にしてドームの外を仰ぐ。星、また星。そして地球。地球から見た月の映像を見ると、それは遠くて白い。地球の空は明るくて青い。でも、ここから見ても、そんなに明るい星には見えない。青いことは、まあ青いけれど。あれが普段、見えるのだとすると、そんなところから、こんな暗い世界へ移住しようというのはどういう心境だったのかと考えないではいられない。
「洗浄水、二分後に放出します」
イヤホンから声が出る。点検と清掃が済むと、汚れた水を一気に押し流すために水が放出される。それまでに、私たちはパイプから出ていなくてはならない。二分。まあ余裕だ。ここで気を失ってしまわない限り。もう一度腕を振り、足の鰭で水を蹴った。勢いで、体を反転させる。テナイが私を追い越した。
すでに日は暮れる時間だ。夕刻であってもそうでなくても、ここでは滅多に上空を仰ぐことはない。私たちは特に誰に見られることもなく、暗い空を横切っていく。流れ星のように。
明日は〈雨〉の日だ。天空を覆う二重ドームの内側にはいくつもの管が走っていて、一定の期間置きに雨を降らせる。天候を作りだすことに、初期の移民は拘ったらしい。わざわざ好き好んで地球を出て来たのなら、行った先の状況をそのまま受け入れればいいだろうに、そういうことには滅多にならない。月は、そのままでは住めない。気の遠くなるようなテラフォーミングを待たずに、さっさとドーム都市を作ってしまった以上、宇宙船の中にいるのと大して変わりはない。おそらくはある種の郷愁のため、それと、自給自足の循環装置である農園に一定の間隔で一気に水やりをできることなどを鑑みて出来上がったものなのだろう。実際は別に上空から降らせる必要はないわけで、それくらい百も承知なのだから、やはり主な理由と言えば、郷愁とかそういった感傷に他ならない。まあ、ドームの向こうに見える暗い天空ばかり眺めることになれば、初期の移民たちがそうした感傷に縋るのは理解できる。しかし、それから延々世代交代を繰り返しても、なお、そうした習慣を止めようとしないのは、どうしてなのか。首を傾げる。
傾げることのできる首があって幸いだ、と、なぜかそこで私は思う。地球に住むペンギンだって首は傾げる。鳥類というのは、大抵、必要以上ではないかと思うくらい、ぐりっと首を回すことができる。人間のように、何かに疑問を持ってそういう身振りをするわけではないだろうけれど、何かその動きは親しみが持てる。自分はどうだろう。疑問を持ったり不審に思ったからといって、人間はそうしばしば慣用句通りに首を傾げたりはしない。私もそうだと思っている。でも、時にくくっと首を回してみたくなる。別に何かの疑問や不審に反応しているつもりはないけれど、なぜかやってみたくなる。鳥たちがやっているのも、多分そんなところではないのだろうか。必要以上と思ったけれど、もしかして、鳥類にとっては、それは必要なのかもしれない。私には分からない。それは、私が完全な鳥類でもなければ、完全な人類でもないからだ。
私たちPの身体はペンギンが基である。ペンギン型変異人造種。安直にPと呼ばれている。ペンギンのP。なぜペンギン。多分、こういうことは、仕方なく積み上がったちょっとした偶然の結果なのだ。つまりは、結構早めに連れて来られたからだろう。多分、それだけだ。地球に生息する膨大な生物のリストを見れば、素人がちょっと考えただけで無理だと思えるものも多い。月の政府も、人以外の生き物の取り込みには、一応慎重であった。食料となるものは何よりも早く、あまり是非を問われもしなかった。が、その後に続いた、小型の愛玩動物の場合、話はそう簡単ではなかった。小型ゆえ、ということか、重力の違いは妙な進化を彼らに強いた。
いくつかの種は体格それ自体が随分ちぐはぐな成長の仕方をしながら変化してしまい、その上寿命にも影響が出た。人間と違って、知識を得て納得の上でやって来たわけではない初期の渡月動物たちは、思うような動きができないことに戸惑い、思わぬ怪我をしたり、ストレスで体調を崩したりと、散々な目に遭った。生物は環境によってそれに適した進化をする。次世代が生まれると、早々と変化は顕れ、それも個体によって種々様々なものだった。元より憶測されていたはずなのに、身勝手な人間たちはそれらの変異動物たちを持て余すこととなったのだ。それ以来、一層慎重にはなっていたが、それでも人々は一向に動物の持ち込みを止めようとはしなかった。規制は作られるが、それは繰り返し更新される。
月面にも動物園があったっていい、と思う者も出て来た。認識の甘い人々を納得させるには話が早い、ということだったのか、けっこう早いうちにそれは実現を検討された。ただ、検証には時間がかかる。無害そうな小動物でも、どんな異変が起こるか分からない。そんなだから、動物園はいつまでも検証中の条件付きでの公開となった。世代交代が早く、一定の変化で止まるのが早かったのは、やはり寿命の短い小動物で、自分で飼えないような動物たちを見ることは、なかなか出来そうもなかった。さらに、ドーム都市は一つ一つの規模が大きくはないので、万が一獰猛な生き物に逃げられるようなことがあっては、収拾がつかないという理由もあった。それは地球であっても同様のはずだが、まるで百倍危険だとでも言うようだ。こうした場合にだけ強烈な閉塞感が身に迫るらしい。人間の感覚は不思議だ。危機感というものが、生存の本能に関わるというのなら、そもそも月に住もうとは思わないはずだ。私にはよく分からない。首を傾げることばかりだ。
鳥は、掌に包めそうな小鳥が最初だ。飛ぶものは飛ばしてやりたいとは思うくせに、鳥を飼うということが、その自由を奪うことと同義なのは認識したくないらしい。ドームの単位は小さく、空は狭い。鳥類にとっての限界は、飛ぶことのない他の生き物と比べて格段に狭い。連れて来られた小鳥たちは、あまり大した違いを覚えなかったに違いない。人の住む間隔に応じると、狭いことに変わりなかった。それなのに、重力から大きく放たれた身体は意に反して躍動するのだ。
ここでは、人も動物も大きい。縦に長い、と言うべきか。わざわざ別の人種として分類されねばならないほど、それは顕著だった。
動物たちにとっては迷惑千万な話だ。住む所は圧倒的に狭いのに、体は大きくなり、自由はより少なくなる。月生まれであっても、その戸惑いは見て取れた。普通に動くだけで無闇と不自由。それでも動物園はあった。そこにいるのは小型の夜行動物と身近な変異種ばかり、と言っていい。渡月初期の人間たちは、少しはきまり悪い思いをしただろうか。 それならいいけれど、と思う。首を傾げる。だいたい何事によらず、始めるのは簡単で、止めるのは難しい。動物園も例外ではなかった。
人間は、昔から要らぬことをする。もはや習性といっていい。動物の渡月に懲りず、変異に乗じて、あれこれ別種を作り出すことに精を出す者が現れるのは必然だったのかもしれない。
此処、月世界には、特異な人造人間がいる。複数の腕を持ち、体内から強靭な糸を繰り出す蜘蛛人間たち、そしてペンギン型人間、私たちpだ。どうしてこうした者たちが作られたのか、には諸説ある。もっともらしいのは、機械に任せるよりそれに適した身体能力があれば、その方が上手く処理できる種類の仕事があるので、そのために開発された、というものだ。もっともらしい、というか。これが表向き。クモ、と呼ばれる蜘蛛人間たちは、巨大なドームの超強化ガラスの表面の清掃が仕事だ。あまりの上空で、人がその場所で仕事をするのが危険すぎるためだった。はじめは専用の清掃マシンが開発されたのだが、意外なまでに汚れはひどく、その汚れの種類は複雑で、外壁はともかく、内側では、下方に拡がる居住地に被害を出さずに十分な清掃をすることが困難であり、さらに、そのマシンが落下する事故もあって、上手くいかなかった。クモたちは糸を繰り出しながら軽々と網を張り、クリーナーを自在に使う。自らの糸で命綱を繋ぎながらサーカスのように跳んでいく彼らに落下の危険は殆どない。随分な手作業に思えるが、実は作業効率は悪くなかった。杓子定規な機械よりも手早く、かつ綿密で取りこぼしが少ない。そういう類の仕事がドーム都市には幾つかあった。私たちpの場合、その天空に通された雨用パイプの点検と清掃がそれだ。
その気になれば不要である論理を積み上げられる〈雨〉を、それでも降らせたい多数の市民のために、このパイプはある。環境管制庁は、農場には多く降らしたりといった強弱の調整をするが、その操作が滞りなく——文字通り——実行されているか、という点検が必要だ。どこかに詰まりがあれば、それを除きに行かねばならない。精製過程で使われる元素や薬、農場用の特殊な成分水、街に降らせる電解水、そうしたものを通しているうちに、残留していく成分が、細かい撒布口あたりで目詰まりを起こしたりすることがあるからだ。そのために、定期的な清掃が必要になる。地上へ降らせるものを通すパイプに強い薬は使えない。詰まってしまったらそれを掻き取るのが、最も害のない方法だった。こうした作業もまた、人の目と手が適しているという。もちろん、ドームの壁面動揺、最初は清掃マシンが作られたが、始終水の中で、種々の成分に晒されているとあっては、その機械自体が全く長持ちしなかった。
だから酸素を背負わなくても水の中を自在に動ける者が作られた、というわけだ。
Pの外見は、しかし、それほどペンギンに似てはいない。まあ、背面から両腕にかけて細かい羽毛の黒い毛皮が生えているので、その辺りがとてもペンギンらしいと言える部分だろう。腕は二本。平たく肉付いていて、そこはヒトと違う。逆に、最もヒトに近いのは二本の長い脚で、それは、全体これ胴体、と言った感じの元々のペンギンとは全く違う。顏も人間のそれで、嘴はない。頭髪はあったりなかったりする。衣服もそうだ。着たり着なかったり。ほとんどのPは何か適当に纏ってはいるけれど、着ていなくても羽毛の多い者にはさして不都合はない。ただ、人、感は、多少薄れる。
クモたちと比べると、Pはとても不安定だ。抽出しやすい遺伝子かどうか、ということなのかどうなのか。いずれにしても、膨大な実験数と、公開されることのない、これまた膨大なキメラの失敗例があったことだろう。何世代も経て後、Pたちもクモたち同様、市民権が与えられ、一般の人間たちと同様の生活を保障されるようになったが、職業の自由については、いくらか但し書きが付いている。できれば、ドームのパイプ管理の職に就くことが望ましい、というものだった。
Pの在りようは、とても不安定だ。それでも、人としての諸権利を認めたのは、クモたちと同様でなくては、ということなのだろう。そして、地球と違って、差別や偏見がとても少ないのは有難い。
——とはいえ。だからこそ生きていける、というのは、しかしどうなのだろう。そもそも、何もかもが奇妙だ。我々の在りようそのままに。
足先の鰭と腕をさらに掻く。ぐい、と水が動く。
〈帰る〉
丸い声が追いかけてくる。
〈うん。帰るよ〉
テナイと共にドームの端、地表面近くにあるパイプの入り口に滑り込むと、私は出入り口のロックをかけた。数十秒の間の後、ロックの向こうでは洗浄水が渦巻き猛烈なスピードで流れて行く音がやかましく鳴り渡った。私たちはそもそも詰まりのチェックや点検、修繕、清掃をしてきたわけだから充分汚れているけれど、この上濯ぎの水まで被ることはない。下界の人間も掃除後の汚れ水を雨として被りたくはないだろうから、こうした掃除屋がいるのだ。
出口から遠からぬ場所に設えられた準備室で、私たちは改めてシャワーを浴びた。あれこれの汚れが混ざった気泡だらけの半水を叩くように洗い流す。密に生えている羽毛の隙に至るまで、水を通す。
水が、心地よい、と思う。生き返るように。まるでそれまで死んででもいたかのように。なぜそう思うのかは知らない。
傾げることのできる首があって幸いだ。
テナイの知能は低い。それはPたちに時折現れる障害で、人の先天的な知的障害に比べると頻度が高い。もっとも、人間に顕れる障害の幾らかは、出生前に除かれたり、誘導され、矯正をかけられることが多く、滅多に目にすることはない。もともとあまり生まれないようになっている。だが、Pはそうではなかった。もちろん、はじめはそうした施術をされていたのだが、どういうものか、人には有効であった選択システムが、Pには効かないのだった。高い知性を持たせ、有益な性質だけを残して、人に近い形態にと合成された人造種Pは、クモたちとは比べ物にならないくらい失敗例が多く、今以て安定していない。それでも、一定の能力があるものは間引かれたりはしないから、細々と生きてはいる。しかし、これはなんという覚束なさだろう。生きているのに、これほどに不安な感覚はない。その気になれば、あっという間に存在を消してしまえたはずの種だ。
テナイを見る度に、何か落ち着かない思いに苛まれる。自分の存在の方をガタガタと揺さぶられるような気がするのだろう。
「ただいま」
玄関で声を掛ける。テナイも同様に繰り返す。シュン、と吸い込むような音がして扉が開く。二人分の通過センサーが点滅していた。
Pの姿を見ることが珍しいような、些か高級なフラットに私たちは住んでいる。それは私のパートナーのジノが、そこそこ高給取りで、まあまあのご身分であるせいだ。ジノは普通の人間で、Pではない。彼が結婚を申し出てきた時、私は驚き、途方に暮れた。まだ異種間での婚姻はそう多くはなかったからだ。交配は可能で、クモたちの中には多くの混血種がいる。でも、Pにはそう多くはなかった。差別の少ない月社会ではあっても、ある程度奇異な目で見られることは仕方なかった。結婚は社会制度だから、いくらかは面倒が付いてくる。昔に比べれば大したことはないのだが。もしかしたら、一時の気の迷いみたいな勢いを記録に残すこととなるので、何となく躊躇ったりもするわけだ。でも、ジノは強く提案してきた。なぜそこまで、と問う私に、シンプルな恋愛だと、彼は言う。そうなのか。きっと私には分からない。他の多くのことと同じように。
私の出した条件は二つあった。一つは、テナイも共に暮らす、ということだった。テナイは、戸籍上は私の弟だ(他にも多くの見知らぬ兄弟がいるはずだった)。パイプに関する仕事はできるが、一人で社会生活をするには知能が心許ない。かといって、Pに対しての福祉はもっと心許ないのだ。一人で放ってはおけない。二つ目は、この関係を解消したくなったら早目に伝えて欲しいということだ。新たな生活の準備に時間がかかるかもしれないので。
一つ目の条件はあっさり了承された。これは難しいのではと思っていたのに。私を愛することは、テナイをも愛することだと彼は言う。しかし、二つ目の条件には渋い顔をした。そのつもりはない、という。つもりはなくても、そうなることはあるだろうと反論して、やっと彼は頷いた。
でも、正直に言えば、私はこの結婚に負い目がある。私には、彼が私に対して感じているほどの愛とか必然とかが無いような気がするからだ。ある日、そう口に出して言ってみた。ジノは笑った。
「そんなこと、分かってる」
「それが分からない」
「そうだろうね」
PがPであることは、ただ、事実であって、それが私であることも含んでいるのだとジノは言うのだ。たまたま、そうであったのだと。やはりよく分からなかった。
「そうだろうね」
やはりジノはそう言った。穏やかに微笑んで。Pは、そんなふうには考えない。それを解っているだけだ、と彼は言った。
「だからって、君たちに愛情がないってわけじゃない」
テナイを大事に思っているだろう、と言われて、私は黙る。それはそうだけれど、私がテナイにこだわっているのは、弟だからというだけではないように思う。他にも兄妹を持つ者はいる。知能が足りない家族を持つ者も。でも、皆が私のような感覚を持っているとは思えなかった。さらに言えば、そういうものと、ジノに対する感情もまた違う、と思う。何が妥当な感情なのか、私にはよく分からない。
このところ、ジノの帰りは遅い。軽い食事を済ませると、テナイはテレビモニターに「オン」と言って、毎日のように見る記録映像を見始めた。もともとテナイは映像を見るのが好きだ。大人向きの抽象的な映画作品には興味を持たないが、アニメーションや地球の記録映像はいくらでも観る。ある時、私は南極のそれを見せてしまった。特に何かを意図したわけじゃない。ただ何となく思いついただけだった。
そこにはペンギンたちがいた。
「あれがね、私たちの祖先——の一部なんだって」
わざわざ説明までしてしまった。私も見たことはあったし、その時はやはり、その場にいる誰かが同じことを言ったのだろう。へえ、全然違うんだね、と多くのPたちは言うだろう。別にそれだけだ。おそらく人間たちが猿を見て、あれが先祖だと言われているような感じなのだろう。だから私もそう言ったに違いない。けれど、テナイはそうではなかった。「ふうん」とは言ったような気がするけれど。あれ以来、ペンギンの映像は彼のお気に入りとなったのだった。
私はテナイに背を向けて、ジムに向かった。個人が持つには大きすぎるくらいのプールが、そこにはあった。一歩入室した瞬間から引っ張られるように駆けだして水に飛び込んだ。
すっと音が消える。元々大した騒音もない家の中だが、それでも一瞬で異世界に行けるのは水の中だ。してみると、パイプの掃除中はそうではない、攪拌用の気泡が多い半水はうるさくて耳障りだ。全てが水になると、そこは別世界だ。
可愛いね。そう、私は言った。テナイは瞬きを繰り返して頷く。可愛いね。ペンギンは両肩を跳ね上げるようにして、左右に傾きながらよちよち歩く。愛くるしい、というのだ。ああいうのを。あなたも可愛かったよ。そういえば、あなたも小さい頃はあんな感じだったような気がする。別に肩を上げて歩いてたわけじゃないけど。ああ、首を傾げるのは一緒かな。いや、それは私もする。でも、ペンギンは可愛いね。カワイイ。カワイイ。テナイは繰り返す。あんなに可愛いから、人間たちはとてもペンギンを愛してる。可愛いね。あなたも可愛かったよ。可愛、かった……。
可愛くなくなったら、愛されないんじゃない? テナイは今や標準より大きな体躯を持っている。言葉は少し舌足らずで、覚束ない。知能が低いことは、少し会話すれば誰でもが察する。水の中では私よりも敏捷だが、歩いていると、何かおどおどとして、もたついた動きに見える。スラリとしたPたちの中には、独特な美しさだとして、モデルに使われる者もいるけれど、そうした外観とは無縁だ。肉付きが良く、もっさりとしている。何かにつけ、たどたどしい。私以外の者には、多分、彼は全く可愛くはない。
地球のペンギンは、あれでいいけれど、私たちはそうじゃない。彼が、生きていくことは、どういうことなのか。私はそれに囚われているのかもしれない。
そもそも——。私は、彼が可愛いのだろうか。こんなふうに思うのは、義務感なのか。何の? 身内だから? それとも、何かの言い訳なのか。
傾げそうになる首を跳ね返すように、急速にターンをする。そこで回らなかったら、壁に激突だ。とんでもないスピードで突進しているのに、どこで止まるかは目を瞑っていても判る。そういうところが、決して消えてしまわない能力だ。
反転して向かった壁際に、手が浸されて揺れているのが見えた。ジノだ。強く水を掻く。
「水には勝てないな」
ジノは少し苦笑しているように見えた。勝つ? 瞬きすると、涙のように水が出た。顔しか出ていなかった水面から半身を乗り出してプールサイドに伸びあがり、私は言った。
「Pじゃなければ、私を愛してない? Pなのは、私が選んだことじゃない。地球のペンギンみたいに可愛いわけでもない」
一瞬、何の話かという顔をしたけど、ジノはいつもの笑みを浮かべた。何を言いたいのか、どうして彼は一瞬で解るのだろう。私自身が分かっていないのに。
「月世界人だって、地球人とは違う。みんな異種だ」
「誰かに造られたわけじゃないでしょ」
「はるか昔に、誰かに連れて来られたのだって、あんまり変わらない」
それは大違いでは。
「少なくとも僕らのせいじゃない。僕も、君も、それは一緒だ」
「私がPだから私が好き? Pじゃなければ好きじゃなかった?」
「君は僕が変わり者の月世界人でなかったら、結婚した?」
だってそもそも、結婚を提案したりしなかっただろう。きっと目をまん丸くしている私の顔を見て、ジノは笑った。
「そうだな、君も変わり者だから、似てるのかも」ジノは水浸しの私を抱き寄せて、ふう、と息をついた。「Pみたいになりたい、と思ってたよ。あんな風に空を飛びたいって」
全部だ、と彼は言った。
Pだったから。自分の目には美しかったから。変わり者だから。テナイと一緒だから。存在に疑問を持っているから。水が好きだから。人間のことなんか、よく分からないから。パイプの仕事を持っているから。漆黒の背を持っているから。宇宙と溶け合うような羽毛を持っているから。……だから。……だから。
その手が、水の滲む私の背を撫でた。あんな風に、空を飛びたい……。空を飛ぶ。
飛んでいるわけじゃない。そういえば、地球のペンギンたちが海を泳ぐのを見た時、彼らが鳥類であることをやっと理解したのだった。ああ、でも、彼らだって飛んでいるつもりはない。多分。
ジノの掌が私の背を撫でている。それは心地よかった。水と同じくらい。
「パイプの中をね、掃除や点検以外にも、君らが動けるようにしようと思う」
ゆっくり体を離した私は、多分少し首を傾げていた。ジノはシティの行政に関わる仕事をしていた。環境と文化が主な担当だ。
「一緒にやらないか」
クモたちが独自のスポーツを持っているように、Pたちも、もっと自在になるのだという。
「もっと、君が空を飛ぶのが見たい」
空を飛ぶ。
久遠の彼方を思わせる星々を従えて、地球をも超えて、夜を背負うように。流星のように飛ぶんだ。
私に近い月世界人は静かにそう言った。その声は、水のように私を覆った。
了
月の鳥 化野夕陽 @magda828
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