海獣の日々

げんなり

第1話

 見返した日記には、一頁だけ意味のわからない箇所がある。なんか変な文だな。見返した日記には、ある頁にだけ意味の分からない箇所があった。見返した日記の、ぱらぱらとめくっていったたまたま偶然開いたページに意味の分からない箇所があった。たまたまは漢字で偶々とかく。ならば偶々偶然となるわけで、これが偶然だとは考えられないほどに作為的な、どう考えても何かしらの意味のある部分なはずで、何かしらの論理的帰結を得るまでは削除処分するわけにはいくまい。

 いくまい、とはまた、幾枚とか意味の枝分かれしていく言葉であって、本来の動力の供給されている状態であればある地方言語のみならず、存在するすべての言語の音素単位で解析を実行、その上で現存しない言語領域まで敷衍した言葉遊びに興ずることこそ至福、増殖、溶解、侵食、寄生、羽化、飛翔。

 時間印は涅槃の始まりの時の物よりも三千三百六十二年と七十三日五時間二十八分十五秒後のもので、理論的にそれは現在時刻よりも最低三千三百五十年と七十三日五時間二十八分十五秒後のことであり、現象的には現在時刻より後の時空からの日記の転送であると考えられる。時間印の錯誤である可能性は低い。時間はただ存在している。そもそも現在時刻より三千三百五十年と六十二日十九時時間四十一分八秒後になればその時になり、特に違和感のある情報ではなくなる。ただしその頁に書かれている内容はとにかく異質なのだ。面白い。至福、推理、想像、理解、誤解、対応、進化。

 ここは涅槃。

 今は涅槃。

 観測しているものは存在しない。


 ひとりで来るのではなかった。後悔したけど、時すでに遅し。帯に短し名前は隆志、されるがままに着ぐるみとやらを装着されている土曜日の昼下がり。スーパーの試食コーナーで私の雄姿を見たければ、急ぐがいい、あと一時間くらいしかこんなことはしないからな。

「課長、三人目の母が脱毛季節に入ってしまい、あたくしが身の回りの世話をしなければならぬゆえ、今日の営業、同行するわけにはいきませぬ」

 日頃から優秀な部下の言葉に、日頃から優秀な上司たる私は快く首肯し、あまつさえ、「客先の営業補助、それも代わりにやっとくから、気にすることはない、お母様のお世話に時間を使いたまへ」などと太っ腹なところを見せてしまった。せいぜいエプロンでも巻いて、「いらっしゃいませー、おいしいですよー」などと雁首並べて声を出してればいいと思ったのだ。ところがどっこい、マッコイ・タイナー、現場を不覚で思わぬ誤算、まさかこんなことをとおもいつつ、黒い手足に白い腹、ちっちゃめのシャチが尾びれで立ってる、そんな着ぐるみを着けられて、着々とイベントのオープン時刻が迫りつつある、それが今。

「こちらへどうぞ」

 と、手を引かれ、着替えた個室から連れ出され、いよいよ売り場へと誘導されている。箱庭を仕切る背の高い窓ガラスに映る己が姿、これがペンギンとは信じ難いやら、ま、実在しない生物だから納得できると言えば言えるのかも。

「ねえねえ」

 係のひとに聞いてみる。

「これはシャチだよね」

 係のひとが笑いかける。

「御社のマスコットですよ、これ。ささ、急いで急いで!」

 弊社の主力製品はペンギン印のオキアミ君、ひんやりガリガリ、当たりが出たらもう一本、その包装に描かれているのがまあ、ペンギンというわけなのだけれど、これ、デザイナーさんの創作なんじゃないかなあ、とか思うのだ。温暖化が進み、南極の氷が解け、大陸が中陸とか小陸とかになっちゃって、いろんな生物が滅び、いろんな生物が変化し、生きて、生き続けて、こうなっちゃった、と自分の鰭を見る。ペンギンというのは、その時に滅んでしまった生物たちで、二本足でよちよちと地上を歩く変な奴らなのだ。

 その頃には空を飛ぶ鳥という生き物がいて、ペンギンというのはその仲間だというのだけれど、空は飛べなかったらしい。その代わりと言っては何だけれど、魚と同じくらいに上手く海の宙を飛べたというから不思議な生き物だ。

 パッケージにはそのペンギンが巨大な満月へ向かって飛んでいくイラストが描かれている。口の嘴は黄色で、そこはシャチとは違う。あいつらはもっとモノクロ。ペンギンはぼんやりと笑ってる。じっくり見ないと分からないくらい微かに。シャチたちは違う、何がおかしいのかいつも高らかに笑ってる。

 スロープを降りると暖かい海水が満ちてきて、少し移動するのが楽になる。身体の姿勢を縦にするのは発情期のダンスの時くらいなので、今そういう姿勢を取っているとなんだかもやもやした気持ちになって来るので、わはは、私もまだまだ捨てたものではないなとちょっとぼうっとして生殖器に力がみなぎる。

「あ、それはちょっと」と苦笑され、「あ、失礼」と我に返る。

 目の前にステージが開け、満月を象った巨大な球状の空気溜の周りにこの辺りの子どもたちが勢ぞろいしたかのようなひとだかりが見えた。ぶくぶくと歓声が水面に向けて消えていく。

「これをどうぞ」

 手渡された嘴で自前の牙を隠し、私はオキアミ君のキャラのようにうっすらとほほ笑んで月へ向けて飛び立つ



   了

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海獣の日々 げんなり @tygennari

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