あなたの声だけ聞こえない

阿下潮

コウテイペンギンの子育ては過酷

 白い世界をただ歩く。耳に染み入らせたあなたの声だけをよすがに。


 コウテイペンギンのルーシーは長く伸びた列の二番手を無心に歩いていた。雛に与えるため大量に蓄えた魚で胃が重たいけれど、それすら足を前に進めるための原動力にして。

 ただひたすら雛のために。コウテイペンギンのメスの行進は、その狂気ともいえる深い愛によって構築されている。

 狂える列の中で、ルーシーは自分の前を歩くスーザンから受ける印象に違和感を持っていた。自分と同じくらい狂っているようにも見えるけれど、どこかベクトルが違っているような。

 ルーシーは厳しい旅路を進む中で、自分が他のペンギンたちと少し違うことを感じ取っていた。

 コウテイペンギンは鳴き声で個体を区別する。つがいの相手や自分の雛の声はどんなに疲弊していても聞き間違えることはない。その代わりといってよいか分からないけれども、外見にはとことん無頓着だ。くちばしの形、目の大きさ、尾の先の色や模様。みんな少しずつ違っているのに、ルーシー以外のペンギンはたいてい見かけを気にしていない。目の前にパートナーがいても歩いているだけでは気がつかず、声を聞いてはじめて自分の相手だと認識するなんてこともざらにある。

 それゆえ、自分にしかできない観察者としての役割を果たしたいとルーシーは密かに願っている。

 みんな無言で歩いているので、長い列の先頭を行くペンギンがスーザンであると分かっているのは、もしかしたら自分だけなのかもしれないとルーシーは考えていた。ルーシーにしてみれば、スーザンの目は自分よりも大きく魅力的なのだけれど、大多数のペンギンには理解の範疇外にある。

 そのスーザンの目が狂気を帯びている。

 何かに取り憑かれているような、何をしても叶えたい執念を抱えているような。

 いや、それは自分も同じか、とルーシーは首をぶるぶると横に振った。その弾みで顔についていた雪片が飛びちる。振り返るとルーシーと同じように強い衝動に突き動かされたメスの行進が長く続いている。みんな自分のつがいとつがいに守られている雛のために、歩いているのだ。

 と、うつむきがちだったスーザンが顔を上げた。後ろに続く同胞も次々に視線を前方に向ける。吹きすさぶ風の向こう側からかすかな声が届いた。ついに。到着したのだ、コロニーに。

 くたびれきった心と身体に活力が戻ってくるのがわかる。もうすぐ雛に会えるかと思うと気持ちははやるけれども、足は一歩一歩しか進まないから歯がゆい。とっくに体力の限界を超えているから誰もスピードを上げられない中、スーザンだけがぐんぐんと前進していく。

 何匹かのオスの鳴き声が届く。スーザンも自分の相手の声を聞きつけてそれに向かって突き進んでいるのだろう。

 ルーシーの耳にもなじんだパートナーの声が聞こえた。同時にそのすぐ下に埋もれるように、小さな甘やかな声も。初めて聞くはずなのに知っている。心にあらかじめ刻み込まれていたような、祈りにも似た切ない痛みを伴った感情に心が絡め取られる。息苦しくなるほどの喜びをもたらしてくれるそれは、わたしの雛の声。

 この気持ちを本能という言葉だけでは片付けられない。他の種族のことは分からないけれど、自分たちペンギンにはこれほど豊かな情動が備わっているという現実に、ルーシーは心から感謝する。


 とうとう行進の先頭がコロニーにたどり着いた。オスたちが口々につがいの名を叫ぶ声に包囲される。あちらはあちらで飲まず食わずのまま抱卵していたのだ。帰ってきた相棒に雛を託して一秒でも早く食事に行きたいのだろう。

 ルーシーは耳と目で自分のつがいと雛を探す。後ろに続くメスたちはひたすら耳をすましているようだ。

 つがいの姿を求めて視線を横に滑らしていると、奇妙な光景に目が止まった。

 スーザンが自分のつがいではないマイクに話しかけている。マイクの数羽先にはスーザンの本来の相手であるボブがいるにもかかわらず、だ。マイクはたしかローラのつがいだったはず。

「マイク、本当にお疲れ様。長い間、わたしたちの雛を守ってくれてありがとう。もう大丈夫よ。あなたは食事に行って」

 それはメスの誰しもが発するオスへのねぎらいの言葉だけれども、なぜ、スーザンは自分のつがいではないマイクにそれをいうのか。なぜ、スーザンはローラの声でそれをいうのか。

 ルーシーが首をかしげていると、マイクはふわふわにふくらんだ雛をスーザンに受け渡すと、よろよろと歩き出してしまった。マイクはスーザンのことをローラだと勘違いしているのだ。

「ちょっとスーザン! そんなことして大丈夫なの? その雛はローラとマイクの雛でしょ?」

「違うわ。ローラとわたしの雛よ」

 スーザンが本来の自身の声で堂々と胸を張って答える。

 その声を聞きつけたスーザンのつがいであるボブが少し離れたところから声をあげる。

「スーザン! ようやく帰ってきたんだな。待ちくたびれたぜ。さあ、俺たちのベイビーはこいつだ。あとは頼むぞ」

「うるさい! スーザンなんていない! どっか行って!」

 再びローラの声を発して、スーザンはボブを追い払う。目の前のペンギンが自分のつがいであるにもかかわらず、ボブにはそれが判別できないらしい。声が聞こえた気がしたんだけどなあ、とぼやきながら再び離れていってしまった。

 振り返ってその様子を見ていたマイクが、安心したように再び歩を進めた。自分の相棒は頼りになるなあ、そんな信頼感と優越感を痩せた背中に漂わせながら。ただしその対象を完全に取り違えてしまっていることに、マイクは気がついていない。

 大半のペンギンは個体識別を聴覚に頼りきっている。くちばしの模様や行動パターンで判断する場合もあるけれど、決め手は鳴き声なのだ。目が悪いわけではなく、むしろ視力はよいのだけれど。

 スーザンの声を聞けばスーザンだと気づけるのに、ローラの声でどっか行けといわれると、途端にスーザンの姿が消えてしまう。目には映っているのだけれど、認識できない。

 スーザンの行動の仕組みは説明できるものの、その動機がルーシーには分からなかった。

「ねえ、なんでそんなことをするの? あなたにはあなたの雛がいるでしょう?」

 少し離れたところにいるボブのことが気になり、ルーシーは声をひそめて聞いた。

「わたしの雛は、ローラによく似たこの子一羽だけよ」

 足の上に乗せた雛を慈しむように包みこみ、満足気な表情を浮かべる。その黒々とした瞳にボブの足元の雛は映っていない。

「元々わたしとローラは相思相愛だったのに、あの下品なオスが割り込んできたのよ」満ち足りた顔が一転して憎々しげな表情に変わる。「あなたも知っているとおりメス同士じゃ卵はできないから。ローラには本当に辛い思いをさせてしまったわ。わたしたちの雛を授かるためとはいえ、あんな粗野なオスとなんて。本当にかわいそう。でも、わたしもローラと同じ傷を負ったの。ローラの痛みはわたしの痛み。だからあんな訳の分からないオスと交尾したのよ? 思い出すだけで吐きそうだけど、ローラのためなら全然我慢できるわ」

 つまり、スーザンとローラは好き合っていて、二羽で雛を育てるために互いのつがいを偽っていたということ?

 観察者を自認しているルーシーも、メス同士で子育てをするつがいはこれまで見たことがなかった。この広い世界のどこかには、もしかしたらそういうつがいもこれまでにいたのかもしれない。

「でもそんなこと許されるの? あなたたち二羽はよくても、あなたとボブの間に生まれた雛はどうするつもり?」

「こんなにいっぱいメスがいるんだから大丈夫よ。きっと誰かが育ててくれる」

「スーザン、それはちょっと勝手すぎるんじゃ」

「そこにいるのはスーザンなの?」

 名前を呼ばれたスーザンの顔がとろける。それまでとまったく異なる艶やかな声で応える。「ローラ! わたしはここよ」

 ローラはスーザンよりも少し細身で平均的なメスよりも華奢な印象を抱かせる。同じメスなのに、守ってあげたいと感じさせる体型をしていた。スーザンの恋慕も少しだけ理解できる。

 メス同士とはいえ好き合うつがいが揃ったのだから、部外者はここから離れた方がいいのだろう、とルーシーは思った。自分の役割は観察者であって、介入者ではない。二羽が選んだ道なら、賛成も反対もない。行く末を観察させてもらうだけ。

「ローラ! 待ってたわ。わたしたちのかわいい雛はここよ」

「スーザン、マイクを知らない? 全然、声が聞こえないのよ。もしかしたらわたしは間に合わなかったのかしら」

 マイクを心配するそぶりはルーシーの目を気にしてなのだろうか。ルーシーに咎めるつもりはないので、その場を離れようとしたとき、スーザンのすがるような声が聞こえた。

「ローラ、マイクはもうここにはいないわ。あのオスは声でしかあなたを認識していないのよ。私があなたの声を出したら、それだけで私をあなたと勘違いしてこの子を私に託していそいそと海へ向かったわ」スーザンは背筋を伸ばし、ローラの瞳をのぞき込む。「私は違う。私はあなたの声も、目も、体温も、匂いも、あなたを構成するすべてを愛しているわ。あなたが好きよ、ローラ。この雛はわたしたち二人の雛よ。いい子に育てましょう」

「ねえ、ルーシー。マイクを知らない? さっきから耳をすませているんだけど、全然声が聞こえてこないのよ」

 ローラはまるでスーザンの声が聞こえていないようにルーシーの方へ顔を向けた。

「え、ええ。ちょっとわたしも、わからないわ」

「マイクはわたしの愛しい雛を守りきれなかったのかもしれない。わたしがもっと早く帰ってこられたらよかったのに。マイクにも雛にも悪いことをしてしまったわ」

 どういうことなのだろう? ローラはスーザンと好き合っているわけじゃないの? ローラのすぐ側で、うつむいたスーザンが呪詛のように言葉を吐き出す。

「ローラを本当に愛しているのはわたしだけなのに」

 ルーシーの眼前にあるのは、つがいと雛の安否を気にするメスペンギンと、そのメスペンギンを愛してやまないもう一羽のメスペンギン。矢印は向き合っていなかったのだ。

 観察者としては踏み越えていけないのかもしれないけれど、観察者だからこそ気がつけたことはやはり伝えるべきなのだと思う。スーザンの願いは叶わない。つがいを騙してでも添い遂げたいほどの固い想いが双方にあるなら、と思っていたけれど、そうでないのなら。

 スーザンのしたことは誤っていたかもしれないけれど、今ならまだ間に合う。スーザンはスーザンの雛を、ローラはローラの雛をそれぞれ護り、育てていけばよい。どちらの雛も母親からの愛を待っている。それぞれの雛のためにも、ローラには事の顛末を伝えるべきだ。本当のことを知ってもらった方がスーザンだってスーザンとして見てもらえるはずだ。

 ルーシーがくちばしを開こうとした瞬間、スーザンがずいと割り込んだ。

「ローラ、探したよ」

「マイク!」

 スーザンの口から発せられたマイクの声を聞き、途端にローラは安心しきったような声を上げた。

 ルーシーは自身の観察を省みて、いかに中途半端なものだったのかを知る。一羽の声真似ができるのだから、さらに別のペンギンの声真似ができることは十分想定され得る範囲のことだったのに。

 マイクの声で話し続ければ、スーザンはローラと雛を育てることができる。スーザンとしてではなく、マイクとして生きることができるならば、確かにローラに選んでもらえる。

 スーザン、あなたは。

「それで、いいのね」

 白い世界からスーザンが消えていく。

「マイク、間に合ってよかったわ。わたしたちの雛を護ってくれてありがとう。もう食事に行ってもらって構わないわよ。あなたも限界でしょう?」

「ありがとう、ローラ。でも、もう少し君と一緒にいるよ。僕は君を愛しているからね」

「ありがとう、マイク。わたしも愛しているわ」

 見つめ合う二羽はどこまでも睦まじく、間にいる雛は果てしなく愛らしい。

 その向こうでは、母を喪った雛のもとに、雛を喪った別のメスが寄り添うのが見えた。

 コロニーは様々な声で満ちている。親の足から数瞬転がり落ちただけで凍死してしまった雛。その声が聞こえなくなっても足の上に乗せようと呼びかけ続ける母親。凄まじい環境の中でこもごもに営まれる生のはざまで、スーザンの声だけもう聞こえない。

 他の種族のことは分からないけれど、自分たちペンギンにはこれほど豊かな情動が備わっているという現実に、ルーシーは心から感謝する。

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