視線奇譚

まんじぅ

視線奇譚

明るすぎる蛍光灯の下での慣れないパソコン作業も終わりが見えてきた。最後まで教室で事務作業をしていた私は椅子に座ったままぐっと伸びをする。残っているのは私だけだった。恥ずかしげもなく大きなあくびをしながら教室の戸締り作業をするために凝り固まってしまった重い腰を上げた。


入口にある塾の看板を中に入れることと教室にだれか残っていないか見回りをすることが戸締りの主な作業だ。最後に自分の荷物を持って教室の自習ブースを一列ずつ見回っていく。たまに生徒が居眠りをしたまま残ってしまっていることがあるからだ。入口から奥に向かって確認していくと一番奥の隅の席で生徒が一人、机に突っ伏してかすかに寝息を立てていた。黒いベリーショートの髪でスポーツウェアを着ている少年だった。中学生くらいだろうか。足元に置かれたリュックサックからタオルと薄汚れたシューズが覗いている。リュックサックの横のポケットには中学生が読むには少々分厚く見える小説が入れられていた。小説は少しページが黄ばんでいる。中古のものを購入したのか、余程気に入って何度も読んでいるのか。どちらにせよ本好きの端くれとしてはこのくらいの年の少年が本を手に取ってくれることがうれしく感じる。私が彼と同じくらいの年のころは本のことで語り合えるようなタイプの友人はいなかった、などと少し感傷に浸ってしまった。少年が一人で帰るには遅い時間だし、私も早く帰りたい。気を取り直して少年に声をかける。

「おーい。起きてー。もう教室閉まっちゃうからさぁ。」

しかし少年は一向に起きる気配がない。もう一度声をかけても起きてくれないので今度は座っている椅子を優しく揺すってみた。

「ほら、もう遅いから早く帰んないと親御さん心配しちゃうぞー。」

少年はむくりと上半身を起こして少し不機嫌そうにこちらに目を向けてきた。どこかで見覚えのあるような鋭い目をしている。瞳は古井戸の底を覗き込んでいるような暗い色を秘めていた。

「ああ、やっと終わったんだ。遅すぎてここに泊まる羽目になるかと思った。」

少年が胡乱な目付きで口を開いた。まだ声変わりが来ていないのか、男の子にしては少々高い声をしている。私を待っていたような口ぶりだが、私の記憶の限りでは全くこの少年と関わった覚えはない。しかしどこか得体の知れないものがあった。



少年が荷物をまとめるのを待って一緒に教室を出て鍵をかけた。少年の背負っているリュックサックはとてもずっしりとしているようだった。教室はビルに入っていて、戸締りをしたらビルの警備員に鍵を預けなければならない。私は少年とエレベーターに乗り込み、自分が行く警備室がある地下一階と少年を帰すためにビルの出口がある一階を押した。エレベーターは私たちを乗せて下っていく。少年も私も点滅する階数表示を無言で見つめていた。ごうんごうんと箱が降りていく微かな音だけが聞こえている。なんだか居心地が悪い。それほど長い時間も経たず、一階に到着した。

「じゃ、気を付けて帰りなね。」

エレベーターのドアを抑えて帰りを促すが少年に降りる気配はない。早く降りてくれ。無言で動かない少年をもう一度促す。

「ねぇ、降りな、「ついてく。」……え、あ、そう?」

無表情に言い放たれてしまった。まぁ、夜も遅いから一人で帰すよりは私の帰路と逸れるところまで送ってやった方がいいかも知れない。退勤してまで生徒の世話を焼くなんて無給労働をさせられている気分だ。中学生のお守りか…と心の中で肩を落としながら閉じるボタンを押して更に降りて行った。



 地上に出ると生ぬるい風が頬を撫でた。車も無ければ人気も無かった。これはやっぱり送っていった方が良さそうだ。私のせいで少年に何かあったら後々面倒だ。

「うわ、この時間になると暗いし人もいないねぇ。君どっち方面?途中まで一緒に行こう。」

少年は煩わしそうにこちらを見上げる。なんだかいけ好かない奴だ。先ほど教室で起こしたときから、理由は分からないが私はこの少年に嫌悪感があった。

「駅の方。あんたもそうでしょ。行こ。」

とだけ言ってスタスタと歩き始めた。嫌がられるかと思ったが案外そうでもないようだ。早足で追いついて足並みを合わせる。違和感は積もっていく。どうして私の帰る方面を知っているんだ。この少年に対する私の既視感は、何だ。



二人とも無言で機械的に足を動かし続けていた。何となく空を見上げると満月が障子越しに見たときのように弱弱しく光を反射している。「私は月で君は太陽だ。あなたがいないと私は輝けない。」なんて具合のクサい言葉をどこかで目にしたことがあったが、思い通りに動かない他人に自分の分まで輝けだなんてアホらしいと思った記憶が蘇ってきた。

駅まで歩き続けながらこっそり少年の様子を窺う。無表情で考えが読み取れない顔はどこか中性的だった。大きいリュックサックがやっぱり重そうだ。今日は休日だから、やっぱり部活動か何かの後にそのまま来たのだろう。

「リュック、重そうだね。何の部活?」

思わず聞いてしまった。だがもう答えが何かは分かっている。最初に見えたリュックサックの中身のシューズは間違いなくナイキのバスケットシューズだった。他人のこういったような手がかりを手に入れると答え合わせがしたくなってしまうのは少々悪い癖かも知れない。少年は前を見据えたまま、

「バスケ。」

と、そっけなく答えた。これ以上聞いてくれるなといった雰囲気を感じて、当たり障りなくそうなんだ、とだけ返してまた沈黙が訪れた。




 おかしい、とはっきり気が付いたのは少年との最後の会話からしばらく黙って歩き続けたあとだった。

気が付けば私たちは河川敷を歩いていた。左手には大きな川が静かに月の光を反射し、河原の丈の長い草原は夜風に身を任せ、ひとつの生き物のようにうねっている。小高い堤防のアスファルトを歩いているのは私たちだけだ。駅に向かう道にこんなところは通らないし、駅に向かっているときから何となく駅までたどり着けないように感じていた。どんなに歩いても遠くに見える駅の屋根との距離が変わらないのだ。まっすぐ前に進もうとしているのにベルトコンベアーの上を延々と歩かされているような感覚。不自然なくらいの静寂が鼓膜を突き刺す。

何より恐ろしいのは、人間の存在が自分たち以外に全く感じ取れないことだ。河川の反対側には閑静な住宅街が広がっているが、人の営みのようなものが全く感じ取れない。眠ったように静まり返って、私たち以外はみんなこの世界から跡形もなく消え去ってしまったみたいだ。心細さから背筋に冷たいものが滑り落ちていく感覚がする。後ろを振り返りたくても、恐怖に邪魔されて振り返ることが出来ない。振り返ってはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。呼吸が浅くなっていく。



急に少年が歩みを止めた。それにつられるように私も足を止めて少年を見る。少年の瞳は吸い込まれるような錯覚がするほど暗く、凪いでいた。視線が絡めとられたように逸らすことができない。

「川まで降りよう。」

そう言いながら堤防を降りて行く少年に続いて自身の意志に体は従わず草むらに分け入っていく。膝に届くほどの雑草は私たちの背後で見送るようにひれ伏していた。脳内の警鐘は更に大きくなっていく。あいつに、否、あれに、ついていってはいけない。従ってはいけない。一歩、雑草と砂利を踏みしめるごとに自分の動悸が耳元で鳴っているように大きく聞こえた。ふいに、コツ、と履いているブーツの爪先に硬いものが触れた。眼前の川はさらさらと淀みなく流れている。夜闇の中で弱弱しく輝く水面を目にすると不思議とつい先ほどまでの恐怖や不安がすっと凪いだように思えた。草むらを抜けて大小さまざまな石が敷き詰められた河原に出たようだ。幼い頃は祖母の家の近くの河原で手ごろな石を探して水切りなんかをしたものである。少年はというと、草むらのそばに荷物を置いて河原にしゃがみこんでいた。どうやら石を物色しているようだ。目当ての石を見つけたのかそれを手にして水際からそれを横投げでシュッと放った。平たい小石が水面を流れ星のように駆けていって、三回ほど弾んでトポンと消えた。川は随分と幅が広いようで向こう側は靄がかかったように見えない。水切りで石が対岸に届くことはないだろう。

「小さい頃さ、父方のおばあちゃんちでよくやったんだ。これ。」

何度か石を放って満足した少年が私のそばにあった大きい石にちょんと腰を掛けながらこぼした。私もその隣にしゃがんで続きに耳を傾けてみることにした。

「でも、小学校から中学に上がったあたりからほとんど行ってない。父方の家と疎遠になったから。」

「……そうなんだ。」

なんだか初対面の相手に話す話題には向いてないような内容だ。このおかしい空間に少年は毒されているのか、それとも単にそういった気分なのか。その後も少年の身の上話に私は静かに聞き入っていた。少年は淡々と話し続けた。



どれくらいの時間が経ったのだろうか。十分くらいだった気もすれば二、三時間も耳を傾けていた気もする。一度立ち去ったはずの私の恐怖と居心地の悪さは、また来てやったぞとでも言うように私の両肩に手を添えて笑っていた。あの違和感の原因が、分かった。分かってしまった。


少年は、そもそも少年ではなかった。


あれは「私」だった。

殺したいほど憎らしい「私」。


 あれが語ったのは紛れもない私のこと。「これ」は、「私」なのだ。ダラダラと続く話を遮るように立ち上がって、ふらつく足で水面を覗き込む。穏やかな流れはあれより少し大人びた顔を無情にも映し出していた。恐怖と憎しみで蒼白になった顔。感情が読みにくい不気味な双眼。髪はだいぶ伸びている。「あれ」も「この私」も等しく「私」なのだ。違うのは生きている時間。この空間は明らかにおかしい。あれからすれば未来の自身と対面していることになる。気付いているのか?あの平然とした態度はなんだ?水面から視線を外して座ったままでいたあれの正面に立って見下ろす。気が付いてから見ると鏡を見ているような気持になる。違和感の原因はこれだったと改めて実感した。無言で見つめあいながらふと妙案を思いついた。これなら私が今まで何度もやろうとして怖気づいていたことが出来る。苦しい思いをせずに願いが叶えられる。自分自身の手によって誰の手も煩わせることなく。夢のような空間に夢のような登場人物に夢のような話。この機会を与えてくれた者がいるのなら跪いて靴にキスだって喜んでする。この絶好の機会を逃すなんてどんな童話の愚か者より愚か者だ。目線を外して足元を見ると手ごろな石が転がっていた。程よい大きさで丁度良い角が付いている。ありがたいお膳立てだ。それを手に取る私を「私」は無言で眺めていた。


「ねぇ、」

「なに。」

「わかった?」

「そうだね。」

凶器を振りかぶる。最後になにかをつぶやくように口元が小さく動いた気がした。「私」は相変わらず感情の読めない双眼でそれを受け止めた。振りかぶった右手に生暖かい感覚が走る。その目。その目が気に食わない。気に食わなかった。生まれついたその目。何度も何度も執拗にその両の目を打ち付ける。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。口の右端がいびつに歪んでいく。あれから年月が経っていくらか白くなった肌に赤い星がちらついている。右手は赤い手袋をしたようにぬらりと美しく月光を反射していた。



 上がった息を整えて改めてそれを観察する。精神はこれまでにないくらい穏やかなものだった。もう動かないそれはもう私を見ることは無い。河原に横たわり、ただの肉塊になった。あとは腐る一方だろう。涼しく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。大声で笑いだしたくなるような達成感。喜び。今までこんな気持ちになったことがあっただろうか。ミュージカルの登場人物なら喜びと勝利の歌を嬉々として歌い上げるところだ。口元が緩んで仕方がない。握っていた石を思い切り振りかぶって川に投げた。なかなか遠くまで飛んで、ぼちゃん、としぶきを上げて沈んだ。

 


快感に浸ることにとりあえず満足して流水で手と顔をゆすぐ。赤い星も手袋も先ほどの輝きを失ってくすんで黒くなってしまっている。時間が少し経つだけであの美しさは見る影もなくなってしまった。これなら写真でも撮っておけばよかったな、と両手をこすり合わせると透明な水が赤黒く濁って混ざり合った。中学校の美術の時間を思い出す。パレットを洗うと水と一緒にいろんな色が混じって、最後には暗く汚い色に変化して排水溝へ流れていくのをじっと眺めていた。




 気が付くと、河原に倒れこんでいた。頭が殴られたように痛い。なんだ、これは。四肢に力が入らない。じゃり、と地面を踏みしめる音に視線を向ける。月に照らされた白髪交じりの長い髪。その双眼は古井戸を覗き込んでいるような暗い色をしていた。


それは、右手に握ったものを振りかぶった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

視線奇譚 まんじぅ @mannjuu_chatatsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ