僕たちには名前をつけない

惣山沙樹

僕たちには名前をつけない

 自宅でテスト勉強をしていたら、机の上のスマホが振動した。夜十時三十五分。大体いつもこれくらいの時間。レイさんからのメッセージだ。


『今日もおつかれ~! ごほうびあげるね!』


 僕は添付画像を見てからすぐさま返信した。


『たすかります!』


 この状況に慣れてきた自分がおかしいのか、この状況を続けているレイさんがおかしいのか。画像をシークレットフォルダに入れながら、僕は苦笑した。

 今日の画像は、Tシャツをめくってブラをさらけ出した、レイさんの上半身だった。そこまで大きくはないが、形のいい胸を覆うブラの色は淡い黄色で、花の刺繍がみっちりとほどこされたデザインだった。

 画像の背景には、置きっぱなしのドライヤーや、まだ開けていない段ボール箱が乱雑に映り込んでおり、レイさんの部屋で撮られたであろうことは明白だった。加工もしていないだろう。画像の上の方に、スレスレで写っているレイさんの口元は、少し挑発的に歪んでいた。

 片田舎の高校三年生である僕には恋人がいない。レイさんにもいない。今は。

 それにも関わらず、このようなやりとりをするようになったきっかけは、遡ること半年前。




「すみません、レイさん、もう寝ます……」

「寝ないで! もうちょっと起きてて!」

「駄々っ子?」


 その夜、僕はかなり遅くまで通話に付き合っていた。レイさんの、何人目かもよくわからない「彼氏」と呼べる男と別れた話に、僕は延々と相槌を打っていたのだ。

 元々僕とレイさんは、SNSの共通の趣味で知り合った。住んでいる場所が遠かったため、会ったことは一度しかなく、通話でやりとりするのが主だった。


「レイさん、あと三十分ね。それ以上は付き合わないんで」

「さんきゅー! あっ、ちょっと待ってね……」


 レイさんは何かを呟きながら、トーク画面に画像を投下した。


「えっ、いやっ、ちょっ、レイさん?」

「これ、昔に撮ったやつなんだけどさー。かなりいい感じだから見せようと思って」


 それが最初に送られた画像だった。ベッドの上で下着姿のまま煽情的なポーズをとっているその画像は、明らかにレイさん自身ではない「誰か」が撮影したものだった。この姿を肉眼で捉え、滑らかな肌に触れた人がこの世のどこかに確実に存在する。僕はそう思いながら、食い入るようにその画像を見つめた。


「でね、まだあるよ。こっちがメイドで、こっちがサンタ。あっ、スク水も!」 

「多い多い! ちょっと待って、順番に処理させてください……」


 脳がパンクした。僕は十七歳。レイさんは二十八歳。経験の差は歴然としていた。僕が童貞なのはともかく、レイさんは誰とでも寝るらしい。明け透けなまでに奔放で、僕とはあまりにも住む世界が違った。

 直接顔を会わせた一回きりのあの時、レイさんは「可愛いね」と僕に言ったが、それっきりだ。ああ、対象から外れたのだと即座に理解した。僕が未成年なのがきっとその理由だとその場は納得した。

 それなのに、なぜこんなことを?


「レイさんこれっ、保存していいですか……?」

「誰かに見せたりしないならいいよ。何に使う?」


 そんなもん、一つに決まってるだろ。


「別に、何もしないですよ。三十分経ちましたね。じゃあおやすみなさい」

「ちょっと……」


 通話を切り、画像を表示させたまま、僕ははいていたジャージごと下着をずり下げて少しずつ刺激した。背徳感は僕を一層高ぶらせて強烈な熱を持った。僕は手早くティッシュを三枚取り出した。それから絶頂はあっという間に訪れて、荒い息を吐いてティッシュをゴミ箱に放り投げた。

 取り憑かれたような、眠れない夜だった。




 それから、レイさんが送ってくる画像の種類は徐々に増え、画像を占める肌色の面積も増えていった。ある日は柔らかい双丘を強調する一枚。或いはその日着けている派手なランジェリーが写った太腿を見せつける一枚。

 その度に、僕は言葉を尽くして画像を評した。


『綺麗です』

『可愛いです』

『リボンがよく似合ってます』

『肌の白さが際立ってて綺麗です』

『こんなところにホクロがあるんですね』


 そういった具合だ。僕はレイさんが与える餌に飛びつき、腹を満たし続けるだけの獣になっていた。


「君ってさ、犬みたいだよね」

「次に会う時はお手でもすればいいですか?」

「んー、首輪とか付けてみる?」

「……わん」


 もはや僕はレイさんの画像以外では抜けなくなっていた。違法アップロードの無修正の動画を見ても勃たなかった。レイさんでないといけないのだ。レイさんでないと。レイさんでないと。レイさんでないと。


「ねえレイさん。いつも思うんですけど、こうやって画像を送ることでレイさんに何の悦びがあるんですか? 僕しか悦びがない気がするんですけど」

「反応が新鮮で可愛いし、ちゃんと褒めてくれるから! 送り付け甲斐があるんだよねー!」


 それでいいのか。そう思ったが口にするのはやめた。気まぐれの施しを受け入れたのは僕だ。お互いに満たされるなら、何も問題がない筈だ。レイさんは続けた。


「あと、君は良くも悪くも純粋なんだよ。まだ世間を知らないから、悪い大人がこうやって壊したくなる」

「僕、レイさんになら壊されてもいいと思ってましたよ」

「ほんとにー? 私以外で満足できなくなっても知らないよー?」


 もう遅いんだよ。

 僕は知っている。レイさんが育ってきた環境も。学生時代のことも。今の仕事も。アルコールが入っている時は、男性との行為について赤裸々に語るため、どんな体位が好きかということまで情報として持ち合わせていた。

 知らないのは体温だけだ。




 推薦入試で志望校への合格が決まった日だった。僕は昼間にそのことをレイさんに報告しておいた。しばらくメッセージのやり取りは続き、僕は自宅から一時間半かけて通学することや、髪を染めてみたいということをレイさんに伝えた。


『大学で彼女できるといいね』


 そうレイさんは送ってきた。僕にも期待がないわけではない。同世代の生身の女の子たちと直接顔を合わせて語らい、同じ時間を過ごし、距離を縮める。そして、いつか触れることができるかもしれない。画面越しではない肌に。

 しかし、仮にそうなったとして――僕の身体はきちんと反応するのだろうか。性の知識だけはいくらでも持っていたから、いざとなるとできない、という状態のことを知っていた。最初の画像が送られてきたあの夜、僕がレイさんによって作り替えられてしまっていたのだとしたら。

 深夜になって布団に潜り込み、通話を始めた僕は、レイさんに小さなお願いをした。


「ねえレイさん」

「なぁに」

「褒めてください」

「うん。大学合格できて良かったね。凄いね。頑張ったもんね」

「……ありがとうございます」


 満足しよう。これ以上は求めない。求めてはいけない。誕生日が来て十八歳になったとしても、来年の四月に大学生になったとしても、就職して社会人になったとしても、レイさんが僕と寝ることはないだろう。そう、悟ったのである。


「レイさん」

「どしたー?」

「今度会うときは」

「うん」

「今度会うときは、ちゃんと僕の目を合わせて話してくださいね」

「……うん、それはお互い様だよ、童貞くん」

「うるせー、クソビッチ!」


 笑い合いながら通話を切った。




 レイさんとのやり取りは、僕が二十五歳になった今でも続いている。レイさんにはあれから何人もの「彼氏」ができ、そういう相手がいる間は、画像が送られてくる頻度は極端に減る。つまりは、レイさんのこの行為は承認欲求を満たすためのツールなのだろう。それでいい。僕は望まれた答えを提示し、報酬を受け取る。


『薄い水色はレイさんによく合いますね。フリルも素敵です。レイさんは形が綺麗ですから、こういう繊細な装飾がよく映えるんですよ』


 そう返信した後、大学時代に覚えたタバコを持ってベランダへ出た。十七ミリのハイライトにすっかり耐えうる肺になっていて、しっかりと煙を吸い込んでから薄く吐き出した。

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僕たちには名前をつけない 惣山沙樹 @saki-souyama

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