第25話(終) 夕闇と星

 私たちの願いが通じたのか、夜空は澄み切っていて、瞬く星々を一段と美しく望めた。

 眠たげなヘイズに見送られ、私とステラの二人は岬へと歩き始める。多くの家々の明かりが消されている時間帯であり、耳に入ってくるのは鳥や蛙の鳴き声ばかりだ。


 月明かりの届きにくい雑木林へと至ると、灯の魔法を唱えた。地下室でこれを使い、ステラが眠る白い箱を見つけてからまだ数ヶ月しか経っていない。あの子を喪ってからは半年が過ぎようとしている。


 隣を黙って歩いていたステラが不意にぽつりと呟く。その音の並びは私にとって特別で聞き流せなかった。


「……その名前をどこで?」

「あなたの寝言です」


 教会での仮眠中、私の寝顔を眺めていたステラはどうやら寝言を聞いてまでいたらしい。


「もしや、あなたの本当の名前ですか?」

「違う」

「では、誰の?」

「――私にとって大切な人の名前よ。今はもういない」

「簡単に教えてくれるんですね」

「綺麗な月夜だからよ」


 いいかげんな返答。ステラはくすりともせず、また怒りもせず私に訊ねる。


「話してくれますか、その人について」


 ステラがアランのもとへと私の話を聞きに行ったかどうかは確かめていない。

 でもアランであれば、私からの頼み、つまりあの子のことを秘めておいてほしいという申し出を守ってくれると信じている。

 だから、この場においてステラが、かつてリリアンとも呼ばれた女性を知っているわけがない……。


「嫌よ――と、少し前なら即答していたけれど……ちょっと考えさせて」

「念の為に言っておくと、わたしはあなたの思い出を穢す気はありません」

「わかっている。そんなことを心配してはいない。ただ、うまく話せる自信がないってだけ。この半年ぐらい彼女の存在は喪われたまま、ずっと私の内にあって、それを誰かに伝えようとしたことはない」


 雑木林を抜ける。静かな岬、そして満月。ステラを見やる。胸に抱きかかえているバイオリンケース。私も懐にハーモニカを入れていた。


「正確に言うなら、あの子を喪ったその時まさしく、私は自分の内に込み上げ、溢れかえった気持ちを外へと放ったのよ」

「つまり、大声で叫んだってことですか」

「いいえ、音や言葉としてではない」

「……では、どういうことですか」


 深まる夜の息をすーっと吸い込むと、私は首にかかったネックレス、ステラたちからの贈り物に軽く触れてから「あのね」と彼女の問いかけに応じた。


「この世界には三種類の魔女がいるのよ」

「三種の魔女?」

「そう。あなたの『脳』に知識として備わっている?」


 ステラは横に首を振った。


「星の魔女、劔の魔女、花の魔女。この三種類よ。安心なさい、長々と講義をするつもりはさらさらない。それぞれの魔女の違いはこう。星の魔女は人々に知恵を授けてこの世界の安寧を図り、劔の魔女は邪悪を退け人々の平和を保ち、花の魔女は観察を通じて人々の歴史を記録する」


 たとえば――。

 

 大陸統一言語を作り出して普遍的なものにした星の魔女。

 

 悪魔や魔獣呼ばわりされる異形の者どもを退けるために武具や要塞を拵えた劔の魔女。


 諸々の事象を記録し、時に隠匿し、歴史を守ってきた花の魔女。


 この体制が正常かつ充分に機能していた時代があったという。世界の裏側で世界の秤を担っていた存在を、魔女と呼んでいた時代が。


「遠い昔の話だそうよ。どの魔女たちが最初に使命を放棄したのか、欲に溺れたのか、自由を求めたのか、それは知らない。とにかく、いつしか争いが起こるようになった。そして、今からそう遠くないある日のこと、私が属していたアマリリスの一族と劔の魔女の一派との間で、戦いの火蓋が切られた」

「話を聞く限り、劔の魔女が最も戦闘に長けているのではありませんか」

「ええ。誰だってそう想像する。けれど、短い時間で考えるなら、そうでもない」

「短い時間?」


 ぎゅっと。ネックレスを握りしめる力が強くなっていたのがわかった。引きちぎるわけにはいかない。手を離し、もう一度息を深く吸い込んで、吐き、話を続ける。


「花の魔女は『咲く』ことができるの」


 そう、「花」の魔女らしく。


「魔女によって程度に差異があるけれど、備わっている潜在能力をおおよそ完璧に顕在化させられる。一時的にね。それを『咲く』と言っているの」

「一時的……?」

「ほんの一時間に満たない魔女もいれば、丸一日持続できた例もある。ただ、決して二日以上は咲くことはできない。咲き終われば、魔力は著しく低下し、半永久的に底を尽きてしまう魔女もいるし、絶命する魔女だって。なぜ、花の魔女だけがそうした爆弾めいた能力を有しているのかは定かでない」


 花の魔女が咲く。

 長は、魔女同士の均衡を維持するために「弱き魔女」に与えられた最後の手段と表現していた。それは誉ある能力ではなく、忌むべき呪いだとも。

 戦いが本格化するまでは平和がずっと続いていたから、一族の中で咲く方法やその代償を知っていたのは少数だった。咲くことに憧れを抱いていた者すらいた。命を散らす未来など考えずに。


夕闇ダスク……あなたは咲いたのですか。それはひょっとして禁忌だったのですか」


 ステラが核心部分を突いてくる。


「ええ、咲いた。ほんの一瞬ね。咲くこと自体は禁忌でないのよ。あの頃、争いに関わったアマリリスの魔女たちは皆、咲き、そして散った。私以外ね。そんな私が冒した禁忌は、とある魔法の広域使用。むしろ深域とでも言えばいいかもしれない」


 反魂の魔法や時間遡行の魔法なんてものはない。あの子を喪ったその時に私が咲き、半ば無意識に唱えた呪文はそれらと比べると源実的で、しかしだからこそ、それを受けた多くの魔女たちの心の深部を蝕んだ結果となったのだ。


「私が使った魔法を、私たちは単に『共感』と呼んでいた」

「共感……? わかりません、どうしてそれが禁忌になるのですか。心を通わせることを意味する語のはずです」


 冴え冴えとした月光と淡い灯の魔法との両方に照らされているステラの、冷静な指摘を私は穏やかに受け止め、その「誤解」をとく。


「私が放った魔法は心を通わす魔法ではなくて、他者に心を重ねることを強いる、一種の洗脳だったのよ。戦場と化した森にいた、劔の魔女と花の魔女のほとんど全員に対し、自分の悲しみを、ああ、そうじゃない、もっと複雑な、一度で言い表すことなんてできない感情を、あの子を命の灯火が消えゆくその時に感じた気持ちを、無理やり共有したのよ」


 無論、そのような魔法の行使は通常できない。それに精神に作用する魔法への防衛魔法の心得が劔の魔女たちにあり、彼女たちの精神を侵すことなど到底不可能なのだ。

 

 しかし、できてしまった。

 咲いたことで。あの瞬間、わずか数秒に己の全てをかけた魔法によって。

 

 それは「共感」と言うのが憚れる、おぞましい侵蝕だった。魔力の制御が身体よりも精神に依存するのを考慮すれば、それは大規模な封印魔法だったとも解釈できる。

 しかもその効果は時間で解けるものではなく、味方側である花の魔女たちの心を正常に戻すには特殊な薬剤と魔法具、儀式を要したと聞いている。

 当時の私は抜け殻の状態だったゆえに、詳しい経緯はすべて後からの伝聞だが。


「その魔法が戦いを終息させるのに役立ったかというと、そうでもないのが現実。あとで聞いた話によれば、あの子が致命傷を負ったその時点で劔の魔女たちは退却を始めていたそうだから。なのに、場を混沌とさせたわけ。最悪、一族を滅ぼされかねなかった」


 こう振り返ってみると、追放処分は寛大な措置だ。


 私の髪が黒く染まり、身体が少女と変化して、しかも生気のない面をしていたことを理由に「すでに魔女としては死んだ」ことにしてくれたのだろう。


「――話してみるとあっけないものね。本当に、あっけない」


 空を仰ぐ。星は変わらずそこにあった。手が届かない遠くに。


「後悔しているのよ」


 視線を下ろす。ステラを通り過ぎて、地面へ、足元の暗がりに。


「咲いてまでどうせ魔法を使うなら、死にゆく彼女を想って、共感の呪文を唱えるのなら……あの子一人に、私の想いを伝えればよかったのよ。悲しみではない想いを。最後の最後まで私は伝えられなかった。唇を重ねたのは、何も言わない、聞かないことを選択したに等しい」


 それは逃避だ。

 彼女がこの世を去り逝く現実を受け入れられなかった私の愚かな抵抗だ。誓いの口づけではなかった。別れの挨拶でもなかった。

 だから後悔しているのだ……。


 顔を上げる。目が合う。


「ねぇ、ステラ。お願い」


 初めて、彼女の名を意識して呼んだ。


「あなたの演奏を捧げて。魔女へ……すべての咲いた魔女へ、散っていった魔女たちに、あなたの曲を届けて」


 涙を堪えての頼みに、ステラは黙ってバイオリンを取り出した。そして距離をとると、構えた。


 でもどういうわけか、弾き出さない。

 何の曲を弾くか迷っているのだろうか。たしかにその表情はいつもと違う。いつも店内で弾いている時のあのステラでない。以前の月下の演奏会の時のステラでない。


「夕闇、残念ですがあなたのお願いを叶えることはできそうにありません」


 一度は沿わせた弓を離し、そして肩から本体をゆっくりと下ろしてステラが言った。


「……どうして」


 弾いてくれると信じていただけに動揺してしまう。


 「想像力は偉大です」

「えっ……どういうこと」

「あなたの話を通して、咲いて散った魔女たちを頭に思い描くことができました。あなたは怒るかもしれませんが、その想像によって、哀しみもわたしの中に生まれました」

「だったら」

「それでも、です。今、わたしが聴かせたい相手、想いを届かせたい人はあなただけなのです。薄情者でしょうか。空気の読めないホムンクルスなのでしょうか。たとえそうだと言われようとも……」


 ステラは構え直す。同じ構え、でもさっきと違うふうに見える構え。


「わたしはあなたが今ここにいてくれることを愛しく思います。それを伝えるために弾くのです」


 ――――演奏が始まる。


 立ち尽くしたままの私にかまわず、いや、逆だ、今ここに生きている私だけを意識して、彼女は弾き始めたのだった。


 私が欲したのは鎮魂の曲だった。葬送の曲だった。弔いに相応しい、過去との決別をもたらす音色だった。


 けれど今、耳に入ってくるのは星と月だ。

 

 ちっぽけな魔女の灯より、そこらの街灯よりも眩く輝く、宙に浮かんだ星たちの旋律だ。闇夜でこそ、それらの光は強く感じられる。暗闇にいるからこそ、その美しさに心を奪われる。


 すーっと、涙が引いていくのがわかった。代わりに私はステラを見つめた。彼女は一心にバイオリンを弾きこなしている。


 彼女には、この世界がどう映っているのだろう?


 共感。そう呼ばれていた魔法を、私はあの戦いの以前からあの子と頻繁に唱え合っていた。魔女同士が心を通わすのにあの魔法は役に立った。トラブルがなかったわけではないが、心の内をああいう形で晒し出し、溶かし合うのは心地よくあった。


 でもステラとはできない。

 この子は魔女ではないから。それに今の私の身体ではそう易々と精神干渉系の魔法を使えはしない。わかっている。

 だというのに、ステラにこの気持ちを伝えたく思った。同時にステラの気持ちをもっと直に感じたく思った。

 

 これを愛と呼んでしまっていいのだろうか。でも、と自分で反駁する。心中で絶えず渦巻き、熱を帯び、絡み合う感情をたった一語で表してしまうのはなんともったいないことか。


 ああ、そうか。

 たとえば、こんなやり方もある。


 ステラが演奏を続けている最中であるにもかかわらず、私は銀色のハーモニカを取り出し、それに口をつけ、音を出した。


 今日に合わせて練習だなんてほとんどしていない。していないのに、どう吹けばいいのかがわかった。

 理屈ではない。ひょっとするとこれは私が思っている以上に特殊なハーモニカで、だからこそレティシアはあの子に遺したかもしれない。

 いずれにせよ、今は瑣末なことだ。

 この場にいて、これを吹くことができる。目の前にいる大切な人が奏でる音に合わせられる事実がなによりも重要なのだ。


 月下、二つの音色が調和するまでそう時間はかからなかった。


 二人して夢中で演奏を続けた。腕が痛くなるまで。息が切れるまで。何曲でも奏で続けた。彼女の音に私は合わせた。彼女の音が私を導いてくれた。




 やがて夜の終わりが訪れる。

 星たちはその光を潜めていく。もちろん、どこにもいかずにそこにいる。そのことがはっきりとわかっている。

 そうして私たちは合奏を終えた。


「一つ、謝っておくことがあります」


 夜明けの岬、冷たい風に震える私の手を握り、ステラが言う。彼女はバイオリンケースを片手で重そうに持っていた。


「なに」

「あなたが大切に読んでいた詩集を少しだけ盗み読みしてしまいました。ごめんなさい」


 どうして今そんなことを言うんだか。

 もっと別の言葉があるだろうに。私は、私なりにあなたと想いを重ねられたことに充足感をこんなにも感じているのに。


「……教会に帰ったら、貸してあげる。私はもう何度も読んだから」

「参考までに、印象に残っているものを暗唱してくださいますか」

「生憎、私に詩の暗唱をする習慣はない」

「何度も読んでいるなら、覚えている部分もあるはずです」

「それはまぁ」


 ステラが期待の眼差しを向けてきている。


 私は記憶を巡らし、最初に出てきたフレーズを口にする。


「黄昏に咲く魔女は星座をなぞらない」


 ステラが小さな声で復唱する。

 意味を捉えかねている様子だ。かく言う私だって、これだと言う解釈は見つかっていない。なんとなく今この場面に口にするのに悪くないフレーズだとは思った。そうして私たち二人はゆっくりとした足取りで教会へと戻りながら、詩の解釈を話し合った。

 

 まだ眠っているだろうから、ヘイズのおかえりを聞くことはできないかもしれない。今になってひどく眠気が押し寄せてきた。しかし教会へと、そうだ、私たちの居場所に帰るまでは眠ってはいけないのだ。


「眠そうですね」


 教会までもう少しというところで、ステラがそう言って微笑みかけてくる。


「眠気をとる魔法はないのですか」

「……あるけど使えない。というか、使えたら使っている」

「なるほど」

「ねぇ、あなたは使える?」


 歩くたびに重くなる瞼をこじ開けつつ、私は冗談半分に訊ねた。


「では、試してみていいですか」

「うん? ……頬をつねったり、どこか叩いたりしないでよ」 

「違います。例のシリーズ小説で読んだ方法です」

 

 ますます胡散臭い。そう思ったが眠すぎて何も言えなかった。ステラはその沈黙を肯定と受け取ったのだろう、足を止めた。ずっと手を繋いで歩いて来たので、当然、私の歩みも止まる。


「いったい、どんな方法な――――」


 のよ、と言うつもりが、できなかった。唇が塞がれたから。他でもなくステラの唇で。





 黒髪の魔女と美しいホムンクルスと心優しい修道女の物語は、島の伝承には残らないだろう。


 それでいい。私たちは今を生きている。

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黄昏に咲く魔女は星座をなぞらない よなが @yonaga221001

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