世界で一番おかしな船

凍花星

航海日誌

ある小さな港町から今日、一隻の小さな船が出航する。


ピカピカなデッキに、汚れを知らない帆。昨日までただの真っ白な麻布だった帆は、今日初めて海の潮風に当たる。それぞれから伸びてきたロープをピンと繋ぎ止めるマストは、堂々と中央に聳え立つ。なんの飾りもない質素なこの船だが、今日はこの世界で一番幸せだっだ。


岸壁に留められていたホーサーがするりと解け、船はついに大海原へと解放された。船には目的地がなかった。あの赤い花が綺麗な港町で造られた船は皆自由だった。自分の向かいたい島を定めては、毎日何隻もの船が出港する。いつもよりも高く青く見える空に、なんとも眩しい太陽が掛かる今日は、絶好の船出日和だが、出港したのはこの船一隻。だからこの船は、今日、この世で一番特別だった。


ゆ〜らゆ〜ら


穏やかな波に揺れてどんどん進んでいく。


船は鼻歌を歌いながら、青い海に漂う。一面の青い世界は、目が痛くなるほど鮮やかで、船の心は弾んでいく。一匹のカモメがマストに降り立った。


どこにいくの?


それがまだ決めていないんだ。このまま波風に任せて気ままに進んでいくつもりさ。


へー。じゃあ僕をロミの島まで運んでよ。あそこの黄色の果実は最高にうまいんだ。


港町の果実よりも?


そりゃあ、もちろんさ。あそこは世界一美味しい果実の島なんだ。


それはすごい。ぼくも食べてみたいな。ロミの島まで運んであげるよ。


そうして、船はロミの島に向かうことにした。その間、カモメはいろんな話を船にしてあげた。


ナトルの日の出の美しさに、ノロノルの草原から見上げた星空の輝き。シアルの町の素晴らしい噴水や、ネオカトルの白い街並み。ルミカイラにいるこの世のカモメとは思えないほどに美しいカモメに、彼は、三回も振られたらしい。リリナ島の山奥にはこの世で一番透き通った湖があり、それを飲んだ町人たちは、その水と同じくらいに透明な肌を持っているのだと言う。


今まで港町では聞いたことのない話ばかりで、船は興奮するばかりであった。


ゆ〜らゆ〜ら


陽気な波に揺れてどんどん進んでいく。


気づいたらロミの島はもうすぐそこにあった。


ここまで運んでくれてありがとう。ちょっと待ってて。お礼にあの黄色の果実を持ってきてあげるよ。


そう言ってカモメはロミの島の奥に飛んでいった。


しばらくして小さな黄色い果実がぶら下がった枝を咥えたカモメは、また船のマストに降り立った。


ありがとう! 大切にするよ!


次の目的地は決まったかい?


うん! ぼくはこの体で世界を一周してみたいと思うよ! 君の言う素晴らしい景色を是非とも自分で体験してみたいんだ。


それはいいな。じゃあ、僕はここできみの帰りを待っているよ。いつか戻ってきたきみの土産話を楽しみにしているよ。


カモメと別れて船は再び出航した。


ゆ〜らゆ〜ら


愉快な波に揺れてどんどん進んでいく。


船は次の島を目指す。日の出に星空。噴水とか街並みとか。もしかしたら想像しているよりももっと素晴らしい景色が広がっているかもしれない。そう考えるだけで心は満たされていく。カモメに話す土産話たちを、船は想像だけで完成させていく。カモメに見守られて出航した船は海の真ん中を独りで奔る。


しばらくしてレレノア島が見えてきた。港に近づくだけでも綺麗な歌声が響いてくる。船はうっとりとしてその歌声に心を委ねた。


綺麗な歌声だろ?


港にいたお爺さんは船に話しかける。


誰が歌っているの?


そりゃあ、歌姫さ。この世で一番歌が上手なお姫様だよ。


素敵な曲だね。


誰だって聴いたことある素晴らしい曲だ。なんだって皆ゆりかごにいた時から母さんに歌われた曲だからな。


ぼくは……聴いたこと、ない。


なあに。おまえは船だからだろ。聴いたことなくて当然だ。


……。


船は少し馬鹿にされたような気がして、どんな言葉を返せばいいのかわからなくなった。本当のことを言われているだけなのに、心のどこかがひんやりと冷たくなった船はすっかり黙り込んでしまった。


……なあ、おまえは次、どの島に向かうんだ?


まだ決まってないけど、ぼくの夢は世界一周することだ。大切な友達とした大切な約束なんだ。


世界一周? はっ! おかしな船だな。


……。ぼく、おかしいのか?


ふん。さあな。少なくとも俺はおまえみたいな船見たことねえな。


……。


……その体で保つのか?


……わからない。だから夢なんだ。わかってる。


わかんなかったり、わかってたり、本当におかしな船だな。


……。


ほら、これ積んどけ。旅の途中できっちり直しながら走れ。


……木材?


そうだ。ほら見ろ。おまえのここ、亀裂入ってるじゃねえか。ちゃんと留めておけよな。


……ありがとう。


……。そらできた。気をつけてな。


お爺さんに見送られた船は、また出航した。このお爺さんと話をしていると、船はふしぎな感覚がした。トゲトゲとした言い草とは裏腹に、お爺さんは優しかった。そう、優しかったんだ。どうしてかと問う前に、船は、どっと渡された優しさを、どう受け止めるべきかわからなかった。今、船にわかるのは、デッキに無造作に積まれた木材たちの重み。それだけだった。


ゆ〜らゆ〜ら


静かな波に揺れてどんどん進んでいく。


船の進む先々は青かった。空は青い。海も青い。真っ赤な花が咲き乱れていたあの港街でも、美味しい黄色の果実が実るミロの島でも、鮮やかなレレノアの街並みでも。全部違う。青い景色。ずっと憧れてきた宿命の景色。わかっている。でも。ただ。ほんのちょっとだけ。この広い青の景色が、前よりも静かになった気がした。ほら、静かだ。だって静かなんだ。嘘じゃない。本当に。静かだから。


広い青に囲まれた船は、まっすぐ進む。次の島までの道のりが、少し遠いような気がした。空の青さは、だんだん元気が無くなってきた。海も青さを保てなくなった。青はだんだん赤くなり、赤はだんだん黒くなった。黒くなった空には、ぽつぽつと白い点が浮かんできた。これが星空。輝いているんだ。でも、ちょっと違っていた。思い浮かんでいた星空よりもこの星空は寂しかった。ぽつぽつと離れ離れになっている星たち。綺麗なはずなのに、ちょっと違う。ああ、静かだからか。


船は止まってしまいそうだった。あまりにも静かで、黒い世界に恐怖を感じた。たった独りでこの世界を進んでいくには、あまりにも寂しかった。どこを見渡しても光なんて見えなくて、そんな世界を船は憧れていたわけではなかった。光のある世界に渡るには、この暗い世界を越えなければならない、なんて知らなかった。船は今にも泣き出しそうになってしまった。


ねえ、大丈夫?


声が聞こえてきた。静かな世界に自分じゃない、もう一つの声が聞こえてきた。この暗い世界にもう一隻の船がやってきたのだ。船は戸惑った。「大丈夫?」と言われた。船にはどこか穴が空いているわけでも、どこかの故障したわけでもない。だからきっと大丈夫なんだろう。


でも、泣き出しそうだった。本当に悲しくなって、進めなくなるかもしれないと思った。だから、もしかしたら。それは大丈夫じゃないのかもしれない。


きみ、もしかして海に出るの初めてな子?


う、うん……。


そっか……夜って言うんだよ。


え……?


こんなに暗いのが嫌なんでしょ?


……そうかも……


大丈夫だよ。夜だからね。時間が経てば夜は過ぎて朝が来るんだよ。


……ほんと?


うん! ほんと!


その会話を経てから、二隻の船はゆったりとただただ、海の上に浮かんだ。だんだんと落ち着いてきた。さっきまで船に押し寄せてきた恐怖の波はすっかり収まっていた。


ゆ〜らゆ〜ら


心地よい波に揺れてどんどん進んでいく。


ねえ、きみ名前あるの?


なまえ?


そう! 僕はゼファー! きみは?


……ぼくはない。


ないのか……じゃあつけてあげるよ!


え……きみが?


そう! う〜ん、何がいいかな……あ! テセウスなんてどう?


どうして?


なんとなく! 今思いついたから!


そう簡単に決められてしまった。失礼なのではないか? などという疑問を船は抱かなかった。それどころか嬉しいとさえ思った。


だんだんと夜は、ゼファーの言った通り、明るくなってきた。


見て! 日の出だよ!


ほんとだ……綺麗だな


日の出は美しかった。船が考えていたよりもずっと、ずっと、美しかった。長い夜は恐ろしいが、こんな素晴らしい景色が見れるなら、夜があってもいいと思った。


ねえ、どこに向かっているんだい?


ぼくは世界一周してみたいいんだ。


へえ……それは僕にもできるかな……


きみはどこに向かうんだ?


僕はね……行くところがないんだ……海に浮かんでいたいって思ったからここに浮かんでいるだけ……


……ぼくと一緒に行かないかい?


……ほんと?


うん! ほんと! ねえ、ゼファー! 一緒に行こうよ!


ゼファーは信じられないとでも言うようだった。だが、船はこのままゼファーと一緒に向かう気でいた。どうしてかわからないが、ゼファーが声をかけてきた瞬間から、そのことは決まっていたかのように、船の中では揺らがない事実となっていた。


ゆ〜らゆ〜ら


優しい波に揺れてどんどん進んでいく。


テセウス、その帆穴開いてるよ。


あ、ほんとだ。どうしよう。さっきの島にいた時は気づかなかったな。


テセウス、テテの港でバラに見惚れてたもんな。……ほら、僕の使って。


ありがとう。ゼファー。でも、この前だって舵を交換してくれたじゃないか?


テセウスだってルリアンタの都で僕にヤードを交換してくれたじゃん。


そうだけど、それはゼファーのがあまりにもボロボロだったから……


仕方がないよ。僕たちお金ないもん。船だし。


そうだね。でもさ、ゼファーのこの帆、おかしなもんだね。


なんで?


だってこんな目立ったところに、こんな大きな星が縫われてるんだもん。


仕方ないじゃん。僕のだって一度穴開いたことあるやつなんだよ。大切に使えよ。


わかってるよ。でもこんなおかしな帆をつけてる船って笑われないかな?


大丈夫だって。テセウスはもともとおかしな船だろ?


確かに!


そう言って船はゼファーと笑い合った。


ねえ、ゼファー! 見て! 流れ星!


初めて見た……綺麗だね……テセウス知ってる? 流れ星に心の中で三回願い事を唱えるとその願い事が叶うんだよ。


そうなのか! じゃあ……


願い事言えた?


うん!


叶うといいな。


ゆ〜らゆ〜ら


変わらない波に揺れてどんどん進んでいく。


冷たい雨に打たれながら、船とゼファーは長い間海を進んでいた。ピカピカだったデッキには、もうすでに苔が生えている。交換してもらった帆は、すっかり汚れて所々糸がほつれていて、ピンと張っていたロープだって、今にも切れてしまうのではないかと心配になる程に痛んでいた。


ねえ、ゼファー。世界って広いんだね。


……そうだね。


リルフィアの海岸綺麗だったね。あの宝石みたいにキラキラしてたのって貝殻でしょ? ぼくもあれ欲しかったな。


……うん。


カタルナリナの風車大きかったね。あれって今日みたいな雨の日でもぐるぐる回ってるのかな? ぼく、雨は嫌いだけど、あの大きな風車が雨を弾きながら回っているのを見てみたいな。


……僕もだよ。


次の島じゃあさ、「アイス」っていうの買おうよ。バットルカの女の子がゼファーの上で溢したあれを見てからさ、ずっと欲しかったんだ。ゼファーがフロイアンテに着くまでずっとデッキに「アイス」の匂いつけてたの面白かったな。ねえ、覚えてる?


……テセウス、あのさ、


ねえ! ゼファー!


船は急いでゼファーの声を遮る。なんとなく嫌な予感がした。なんとなくまたあの恐ろしい静けさがやってくるのだと感じてしまったから。もっと早く走らないと間に合わない。そう感じて船は進みを早くした。


なに?


……世界の果てって本当にあるのかな?


……。


ゼファー?


……。


いつも帰ってくるはずの声がない。船は後ろを走っていたゼファーに向く。ゼファーは船が思っていたよりもずっと後ろにいた。船が後悔する距離よりもずっと遠くにいた。


……ごめん。テセウス。僕はもうきみと一緒に走れなさそうだ。


……。


きみが世界一周をやり遂げるまで一緒にいらないれなくてごめんね。でも、僕はいつでもこの海できみを見守ってるよ。


……。


きみとここまで来れて、僕は本当に幸せだった。ありがとう。


船は何を言葉にすればいいのかわからなかった。あまりにも話したいことがたくさんあったから。まだデスマリの都で見たあの変な鳥のことに、ヒメトリアのお城のことだって。船は話し足りなかったのだ。


……ぼ、ぼくだって! あ、ありが、とうって、だって、たのしかったから……ねえ、本当にここでお別れなのか?!


……。


ゼファーは答えなかった。そして、代わりにこう言った。


テセウスの願い事、きっと叶うよ。


立派な船を一隻残して、この青い海には微かなすすり鳴き声が響いた。船には今までにないほど鮮明に、わかったことが一つあった。それはあの日の流れ星は嘘だってこと。どんなに輝いていた流れ星だってそれは偽りだったのだと、船にはわかってしまった。


ゆ〜らゆ〜ら


気ままな波は相変わらずだった。


ロミの島には一匹のカモメがいた。そのカモメは毎日決まった時間に海岸に向かうので、ミロの人々は彼を時計がわりにしていた。一人の女の子が真っ赤な花を持って港を走り回る。


ねえねえ、カモメさん。ここでなにしてるの?


ある大切な友達とした大切な約束をしたんだ。だからここで待ってるんだ。


大切なお友だち? いいな。リカにはまだお友だちいないんだ。村のみんなリカのお目目がね、変だって言ってくるんだもん。


それはまだ出会ってないからだよ。それに綺麗な瞳じゃないか? そんな真っ赤で綺麗な瞳見たことないよ。きっと世界で一番綺麗だよ。


ほんと! うれしい! じゃあ、リカにもお友だちできる?


できるさ。ちっともおかしくなんてないから。ほら見て、あの港にいる船。おかしな帆だね。あんなところに大きな星が縫われてるなんて、きっと世界で一番おかしな船だよ。

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