ベーカリー・カタギリの昼下がり

まさかミケ猫

ベーカリー・カタギリの昼下がり

「――それって恋だと思うけど」


 アルバイト先のベーカリー。

 化粧したアルパカみたいな妙な愛嬌のある先輩は、暇を持て余したのか、私の話に相槌を打ちながら不思議なことを言った。恋? 私が恋? あまりにも自分に不釣り合いな単語すぎて、頭の中に宇宙が広がっていく。うーん、恋か。


「よく分からない。人間の感情って」

「読子ちゃん、それ何かの妖怪かロボットみたいな発言になってるから……花の女子高生が淡々と吐いていいセリフじゃないよ」

「花の……女子高生……?」


 ダメだ、脳内のビッグバンが止まらない。


 夏休みを目前に控えたとある土曜。アルパカ先輩は、なんだかゆるゆると緩んだ空気を纏って鼻息を荒くしていた。

 夏の陽気にやられてしまったのか、はたまた大学を自主休校してロバ氏とラブラブお泊り旅行に行ってきた影響をまだ引きずってるのか。とにかく発言が謎すぎる。私が……花の女子高生?


「うーん……たしかに私は女子高生だけど、花にしては萎れすぎだと思う。明らかに水やりが足りてないし、たぶん既に枯れてる」

「あのね、乙女は枯れないんだよ」

「それは私の知らない物理法則だけど」


 うーん。私の恋だなんて不毛な話より、アルパカ先輩とロバ氏の不思議な恋愛エピソードでも聞いてた方がまだ有意義じゃないかと思う。

 あ、ちなみにロバ氏というのはアルパカ先輩の彼氏のことだ。前に写真を見せてもらったところ、ロバに似ていたため、私は心の中でずっと彼をロバ氏と呼んでいる。


「うーん、恋ってなんだろう」

「恋っていうのはね、胸キュンなんだよ」

「うーん、胸キュンってなんだろう」

「胸キュンっていうのはね、恋なんだよ」

「うーん、恋ってなんだろう」

「恋っていうのはね、胸キュンなんだよ」

「うーん、胸キュンって――」

「ねぇ、読子ちゃん。ここは、無限ループやろがーい、とか指摘するところだと思うよ。これじゃあ私は、ただの頭の悪いゆるふわ美人お姉さんになっちゃうと思うんだ」

「………………うーん」

「ねえ、読子ちゃん!」


 そんなどうしようもない会話ばかりを繰り広げている、ベーカリー・カタギリの昼下がり。


 アルパカ先輩とシフトが被るのは土日だけなんだけど、彼女の口から語られるロバ氏との恋愛話はけっこう愉快で聴き応えがあるので、私はわりと気に入っていた。

 だけど、そういう恋だのなんだのキラキラと楽しそうなモノは、自分の人生とは無縁だと思っているので……アルパカ先輩が口走る謎の発言に、私はいつも困惑しているのだ。私が恋? うーん。


  ◆   ◆   ◆


――正直なところ、私にはまともな感情なんてもう残っていないと思っていた。


 家族をみんな交通事故で亡くし、親戚をたらい回しにされ始めたのは小学校低学年の頃だった。

 叔父さんたちには感謝している。引き取った私はピクリとも笑わず、毎日暗く俯いて、食卓の空気を悪くし続ける異分子でしかなかったから。そんな辛気臭い子どもを見捨てることなく……まぁ、親戚同士で押し付け合いなんかはあったけど、みんなでどうにか持ち回りで面倒を見て、高校入学まで育ててくれたのだ。きっと大変だっただろう。


 親戚はみんな普通の人だったので、物語のヒロインように暴力を振るわれることもなく、私は平穏にすくすく育った。ただ、常に腫れ物扱いをされ、彼らと親しくなることはなかったから、高校入学後は一人暮らしを始めることになったのである。

 それで、両親の残してくれた貯金を切り崩しながら、この先の暮らしについて考えてたんだけど。


「うちでバイトしない?」


 一人の男の子がそんな風に声をかけてきたのは、私が教室の隅で、昼食に持ってきた食パンを千切って食べている時だった。


 四月の下旬。初めての高校生活にみんなが少しずつ順応し始め、教室で探り探り人間関係を構築している――そんな様子を、頑張ってるなぁと遠目に観察していた私に、まさか話しかけてくる人がいるとは思いもしなかった。


「……誰?」

「クラスメイトなんだけど……片桐幸平。俺の家はベーカリーをやってんだけどさ、今アルバイトを募集してて。望月さんはいつもパンを食べてるから、どうかなって」


 片桐の容姿は、まぁ普通。短く切った黒髪。普通の日本人顔なんだけど、彼の瞳は焼きすぎたパンみたいな濃い茶色をしている。パン屋の息子だからだろうか。

 アルバイトに誘ってもらえるのはありがたいんけど、ただなぁ。私にベーカリーの店員が務まるとは到底思えない。


「……私、客商売に向かない仏頂面だけど」


 私がそう言うと、片桐は何が楽しいのかワッハッハと笑い、心配いらないと言った。


「大丈夫。うちの店、ほとんど客来ないから」

「え……それはアルバイトを雇ってる場合なの?」

「収入のメインは、近所のホテルなんかにパンを卸すのと、有閑マダムを相手にしたパン作り教室なんだよ。店やってんのは親父の趣味でさ」


 なるほど。客が来ないなら、愛想のない私でも店番くらいは務まるか。


 アルバイトについては色々と考えていたけど、実は私に向いている働き先が思いつかなくて困っていたのだ。

 バーガーショップでスマイルを注文されても「品切れです」としか答えられないだろうし、コンビニは殺伐として薬物の取引現場みたいな雰囲気になるだろう。どこに行っても普通に営業妨害だろうし、そもそも、こんな無愛想な人間が採用面接を通過できるはずもない。


 客の少ないベーカリーなら大丈夫か……などと少し気持ちが傾きかけてる私に、彼はさらなる誘い文句を畳み掛ける。


「望月さんは所作が丁寧だから、パンを雑に扱ったりはしなさそうだし。前のバイトはそれで親父に叩き出されたからさ……あと、余ったパンは持ち帰れるよ」

「やる」

「おぉ、急にやる気じゃん。やっぱパン好きなんだ」


 いや、単純にお財布事情だけど。

 いつもパンを食べているのは単純に、私が炊飯器を持っていないからである。部屋にある家電といえば、ミニ冷蔵庫が一つあるだけなのだ。


 まぁ、この冷蔵庫が中々の優れものなんだけどね。ここに食パンを入れておくと、食感は少しモソモソするけど、けっこう長持ちする。その上、冷蔵庫の上面は平らだから、勉強する時は机にもなるという万能家具っぷり。さすがに炊飯器で勉強はできない。


 そんなこんなで彼に連れられて面接に行くと、なんだか片桐父は聞いていたイメージとはまるで違った。気難しさとかは全然感じない。

 私も片桐父もお互いに仏頂面だから、必要な情報だけをポンポンと会話に乗せ、面接自体は思いの外スムーズに進んだと思う。まぁ、紛争地帯の武器商人みたいな会話だったかもしれないけど。

 それで、色々と話しているうちに「採用」と言われたんだけど。こんなんで本当にいいのだろうか。


「いいの? 私はこの通り、愛想ないけど」

「愛想なんざいらん。気にすんな」

「どうしてちょっと涙目なの?」

「泣いてねえ。男が簡単に泣くかよ」


 片桐からは頑固一徹のパン職人みたいな話を聞いていたけど、片桐父はすごく親切だった。なんかお土産に袋いっぱいのパンを持たせてくれたし。しかも余りものではなくて、ちゃんと焼きたての美味しいやつだ。


「こんなにいっぱい……ありがとう」

「ん。そうだ、冷凍おかずも持ってくか?」

「いや、それはいい。そもそもうちのミニ冷蔵庫には冷凍機能とかついてないし、電子レンジも持ってないから。せっかくもらっても無駄になる」


 私が固辞すると片桐父は再び目頭を押さえて、それから少し待たされて、冷凍じゃないおかずをタッパーに入れて持たせてくれた。まだ働いてもいないのに、こんな至れり尽くせりでいいんだろうか。


 そんなこんなで、翌日の放課後。

 帰りのホームルームが終わると、片桐はすごいスピードで私のもとに近づいてきて、爛々と目を輝かせた。犬かな。


「今日からバイトだろう? 一緒に行こう」

「ん。早く仕事覚えないと」

「おう。なんか気合十分だな」


 いや、既にパンとかおかずとか色々貰っちゃってるから。流石に仕事も覚えず世話になりっぱなしというのも違うので、できるだけ早く戦力になろうと思ってるだけだ。


 片桐父と面接をした結果、私はほぼ毎日シフトを入れることになっていた。部屋に帰ってもあまりやることはないし。といっても、平日は放課後から夕方までだから、それほど長くは働けないけど。

 まばらにしか客の来ないベーカリー・カタギリでは、大抵は店員二人で店を回すことになる。そんな中、私に仕事を教えてくれるのは片桐母だ。


「読子ちゃんは筋が良いわね」

「そう? 誰でもできることしかしてないけど」

「ううん。商品をすごく丁寧に扱ってくれてるわ」


 それこそ当たり前のことだ。

 あんな美味しいものを粗末に扱えるわけがない。


 たまにくるお客さんは常連ばかりみたいだし、会計などで私が少々手間取ってもみんな穏やかに待ってくれている。

 役に立つつもりで私なりに気合いを入れていたけど、結局は周囲の優しさに甘えているだけになってしまった。まぁ、こればかりは今後の頑張りでどうにか返していくしかないだろう。


 片桐母はふんわりと柔らかく笑う人だ。

 その顔を見て、なるほど、片桐は母親似なんだなと思う。父親はわりといかつい顔をしているんだけど、片桐はけっこうふにゃっと笑うから、あんまり似てないなぁとは思っていたのだ。


「そうだ、読子ちゃん。ちょっと夕飯を作りすぎちゃったんだけど、仕事が終わったら食べていかない?」

「いいの?」

「余らせちゃったらもったいないもの。食べてくれる人がいた方が、私も嬉しいわ。ふふふ……あと、仕事でパンを取り扱ってる反動もあって、夕飯はパン以外のメニューにすることが多いのよ。さすがに三食パンだと飽きが来るでしょ? 読子ちゃんも」


 その日は片桐母のお言葉に甘えて、久々に温かい食事にありつけた。

 片桐父はちょいちょい目頭を押さえていたし、片桐母はずっと微笑んでいた。そして、片桐はなんかちょっと落ち着かない様子でチラチラと私のことを見ていた。なんで。


 親戚の家で食卓に混ざるのは、気まずかった記憶しかないんだけど……片桐家はなんだかすごく優しくて、私は気がついたらご飯をおかわりしていた。一体何が違うんだろう。

 その後も、片桐母とシフトが被るたびになぜか夕飯に招待してくれるようになったから、私は水道水で空腹を紛らす機会がぐんと減った。アルバイトってすごい。


  ◆   ◆   ◆


 働き始めて一ヶ月が過ぎた。

 ゴールデンウィークもほぼ毎日バイトをしていた私は、気がつけば片桐とよく話をするようになっていた。放課後にベーカリーに向かう時だけでなく、早朝にも昼休みにも、片桐は私に声をかけてくる。


「あのさ……望月さんのこと、読子って呼ぶのはちょっと馴れ馴れしいかな」

「大丈夫。片桐は最初から馴れ馴れしかった」

「え、そう? なんか照れるなぁ」


 褒めてはいない。

 ふにゃっと笑って嬉しそうにしているけど、そんな喜ぶようなことは言ってないと思う。片桐の喜ぶ基準は謎だ。


「読子も俺のこと、幸平って呼んでいいよ」

「ん。分かった。片桐」

「うん……読子? 幸平って――」

「片桐。下の名前で呼ぶ権利は受け取ったけど、義務はない。もらった権利を行使するかは私次第」


 私がそう言うと、片桐はぽかーんとした顔をした後で、いつかのようにワッハッハと笑った。片桐の笑いのツボも謎である。こんな風にして、片桐は私のことを下の名前で呼ぶことになったんだけど。


 片桐に下の名前で呼ばれるのはちょっと愉快だ。

 どうしてそんな風に思うのか、私は自分でもよく分からない。片桐の笑いのツボを謎だなぁと思っているけれど、自分自身の気持ちのほうがもっと不可解だった。


  ◆   ◆   ◆


「望月さんって、片桐くんと付き合ってるの?」


 乳のでかい野鼠みたいな忙しない女子にそう話しかけられたのは、六月のとある放課後のことだった。

 最近は私もクラスメイトの名前くらいは覚えなきゃと思っているから、彼女のような女子の中心人物の情報はちゃんと押さえてある。舐めてもらっては困る。


 たしか彼女の名前は、なんとか山……柴犬……そう、柴山さんだ。


「なに、柴山さん」

「誰よそれ。私は海老沢よ」

「あ、そんなんだった」


 私の言葉に、野鼠さんは一気に脱力した。

 うーん。悪いなぁとはそれとなく思ってるけど。


「で、望月さんは片桐くんと付き合ってるのか確認したいんだけど……二人はよく一緒にいるし、一緒に帰るわよね」

「うん」

「で、付き合ってるの?」

「付き合ってるって何?」


 私がそう問いかけると、野鼠さんは面食らったような顔をする。いや、付き合うということの意味くらいはもちろん知ってる。恋人になって、お互いを特別な相手だと認識して、デートに行ったり、何やらけしからんことをする間柄になることである。さすがにそれは分かってる。

 ただ、あまりにも自分に無縁のワードだったから困惑してしまったのだ。付き合う……片桐と私が? うーん。そういうのはいまいち想像できないんだよなぁ。


「あのね。友達のモエが、片桐くんに告白しようと思ってるの。でも、片桐くんが彼女持ちだったら玉砕するだけでしょ。だから事前に確認しようと思ったんだけど……分かった。この感じだと付き合う以前の問題みたいだし」


 そう言って、野鼠さんは一人で納得して去っていった。

 なんだか良く分からなかったけど、とりあえず、クラスメイトの名前は一人覚えられたと思う。野原の「野」に動物の「鼠」と書いて「野鼠」さんだ。忘れないようにしよう。


 そんなこんなで翌日の放課後、片桐は女子の一人に呼び出されていったわけだけど……ものの数分で帰ってきた。

 うーん、けしからん展開に至ったにしては早すぎるな。これは何もなかったのか、または片桐が早撃ちガンマンだったのか、どっちだろう。


「片桐、女子に呼び出されてたけど」

「あー、うん……妬いた?」

「私にそんな感情はない。それで?」


 話によると、どうやら片桐は告白を断ったらしい。

 で、どんな告白をされて、なんと言って断ったのか、そのあたりを詳しく問い詰めてみたんだけど……なんというか、断り方がすごく手慣れている感じだった。


――好意を持ってくれてありがとう。でも俺は、今好きな子がいて、振り向かせようと頑張ってるところだからさ。君の気持ちには応えられないんだ。悪いね。


「告白されるの、初めてじゃなさそう」

「それはまぁ……うん。何回かあるけど」


 片桐のくせに生意気だ。


 なぜか分からないが、私はちょっと不機嫌になってしまって、ベーカリーに向かう途中でもちょっと雑な対応をしてしまった。

 そうしたら、片桐がコンビニでアイスを奢ってくれた。悪いなぁと思いながら、二人でパピコを食べる。散財させてしまって申し訳ないけど……うん。美味しかった。暑かったからかな。


  ◆   ◆   ◆


「読子。週末、映画でも見に行かない?」


 片桐に突然そう誘われた。

 七月初旬。夏休みも近くなってくると、クラスメイトはみんな浮足立っていた。なんか「誰それと誰それを掛け合わせると」みたいな馬主のような話題で盛り上がったりして、青春という枠組みにどうにか自分をねじ込もうと躍起になっている。たぶん、片桐もその空気に影響されたんだろう。


 片桐と映画を見る、というのは悪くないけど。


「……お金がない。服がない。シフトも入ってる」


 一応私だって、最近は片桐の気持ちになんとなく気づいてはいるのだ。ただ、こんな仏頂面のどこが良いのかはまったく分からないし、私がそれに応えられる気はこれっぽっちもしない。恋とかなんとかキラキラした感情は、いまいちよく分からないから。

 それでも、片桐には日頃からとても世話になっているから、彼がデートをしたいと言うのなら一日くらい付き合ってやらんでもないと思ってる。


 が……残念ながら、デートに着ていく服がない。


 なにせ部屋では中学のジャージのみで着回しコーデをしているし、週末に外出する時も高校の制服だ。バイト先で知り合った女子大生のアルパカ先輩から「私のお下がりでよければあげるよ」と言われたけれど、あの胸部装甲を包みこんでいた服を私が着ると、胸元がパカパカして、さらなる虚無に襲われることになるのは目に見えてる。丁重に拒絶しておいた。無理。


「はぁ。ダメかぁ……」

「そんなに落ち込むことじゃない。それに、あんまりお金のかからないデートならしてもいい。片桐家はサブスクに入ってるから、映画ならそれで見ればいい。片桐の部屋とかで。バイトの後でよければ」

「え、それ……いいの?」


 片桐の顔は、桜の開花を倍速再生したかのように見る見るパァッと明るくなっていき、すごく機嫌が良くなった。幻の尻尾をブンブン振っている。さては花咲か爺さんのとこの犬だな。

 そんなわけで、片桐の部屋にお邪魔することになったんだけど……週末が近づくにつれ、片桐のそわそわ度はどんどん上がっていった。


 土曜日の仕事を終え、片桐家の食卓にお邪魔してから、片桐父母のニヤニヤ顔に見送られる形で片桐の部屋に来る。


「えっと……じゃあ、飲み物を持ってくるよ」

「ん。私は片桐の部屋を観察してる」

「そんな面白いものはないと思うけど」


 そうでもないと思う。

 本当に面白みのない部屋というのは、私の部屋のようなものを指すのだと思う。年頃の女子らしい飾り気など一つもなく、古い布団セットが置いてあって、小さな冷蔵庫の上で宿題をやるだけの部屋。いつ自分が死んでも、一瞬で片付けが済んでしまうような、そういう部屋だ。


 でもこの部屋は、片桐が生きているのを感じる。

 頑張って片付けただろう棚に、並べられたゲームのパッケージ。中学までやっていたというサッカー関連のグッズ。ガチャガチャで出したらしい変な人形。ちょっと見栄を張って逆に不自然になっている参考書や教科書の並んだ本棚。たぶんあの裏には、思春期男子御用達の漫画なんかが隠されてるんだろうなぁ。わざわざ暴こうとは思わないけど。


――よし、ちょっとだけサービスしてやろう。


 私はタンスから片桐のワイシャツを取り出して、誰からの需要もなさそうな下着姿になり、少し大きなサイズのそれを着る。

 というのも、最近ちょっとだけ話すようになったクラスメイトの野鼠さんに「片桐になんかサービスしてやりたい」と相談したところ、呆れ顔で「彼シャツでもすればいいんじゃない」と雑なアドバイスをされたのである。これで何かあったら、全責任を野鼠さんに押し付けよう。そう思いつつ、彼シャツ作戦を実行に移すことにしたのだ。サービスサービス。


「おまたせ、コーラとポップコーンを――」


 部屋に入ってきた片桐はそこで言葉を切り、ローテーブルの上に飲み物を配置すると、何食わぬ顔でスマホをいじりながら映画を選び始めた。無言で。どうしたどうした、顔が赤いぞ。


「読子。ど、どんな映画にしようか。恋愛系?」

「ホラーがいい」

「え」

「エグいのがいい。悪夢見そうなやつ」


 そんな話をしながら、片桐の横にピタッとくっつく。ふむ、チラチラと感じるこの視線は……ほほう、この貧相な体にもそれなりに需要はあるってことか。これはちょっと愉快だなぁ。


 片桐は短めの映画を選ぼうとしていたけど却下。

 私はもうちょっと長くこの時間を楽しみたくて――映画というよりも、そわそわしている片桐をしばらく眺めていたい気分だったので、三部作になってる作品を古い順に見ることにした。徹夜の覚悟だ。


「――幸平」


 下の名前で呼ぶと、彼は目を丸くする。

 ふむ。これもなかなか愉快な反応だ。


「幸平にはいつも世話になってるから、今日はサービスデー。今日だけは、何をしても許してあげるけど。何したい?」


 私がそう問えば、片桐は頭を抱えてしばらく悶え苦しんだ後に、小さな声でポツリと言った。


「……手を」

「手を?」

「繋ごう。映画を見てる間」


 まぁ、片桐ならそんな感じだろうなぁ。

 そうして手を絡めて映画を見ている間、片桐はずっと落ち着かない様子だった。視線が泳ぎまくっている。いいんだぞ、襲ってくれても。


 そわそわしっぱなしの片桐を眺め、私は「思春期男子って大変だなぁ」と思いながらコーラを飲んでいた。美味しい。


  ◆   ◆   ◆


「……それは、恋だよ」


 ベーカリー・カタギリの店番をしながら。

 そんな感じの片桐エピソードを、シフトの被ったアルパカ先輩に話していたところ、それは恋だと言われてしまったのである。うーん。恋か。私が恋……うーん。


「ねぇ。夏休みに幸平くんと遊ぶ予定は?」

「うーん。ほぼ毎日バイトだから」

「そうなの?」

「だからバイトの前後でいろいろする予定。で、また不意打ちでサービスしてやろうと思う。真っ赤になって悶える片桐は面白いから、どこまで耐えられるか夏の自由研究にしようと思ってる」


 まぁ、研究成果を発表する相手はアルパカ先輩くらいだけど。


 なんでも片桐は、この夏に私とやりたいことが色々あるらしいのだ。それで、それを先日のお部屋映画デートのようになるべくお金のかからないイベントとして実現するために、ずっと頭を捻っている。

 だから、その労力に見合うだけのサービスはしてやってもいいかなと私は密かに企んでいるのである。


「……ちなみにどんなサービスをするの?」

「うーん、まだ考え中だけど。とりあえず添い寝でもすれば喜ぶかなって。片桐って焼きたてパンみたいないい匂いがするから、快適に寝れそうな気がする」

「んっんん? えー。んん? んんん?」


 どうしたんだろう。

 アルパカ先輩は急に挙動不審になって、分厚い胸部装甲を掻きむしるようにして、なんかすごい悶え始めた。何の発作だろう。薬があるなら持ってくるけど。


「た……例えばね、読子ちゃん」

「うん」

「幸平くんにキスされたらどうする?」

「やられたらやりかえす」


 私の返答にアルパカ先輩は頭を抱える。

 うーん、そんなに変な回答だろうか。


 もちろん、片桐以外の人間にそんなことはしないし、そもそもそんな距離まで近づかせないけど。

 もしも片桐が急にキスをしてきたら……うーん、やられっぱなしは癪だし、片桐がオロオロしてる姿を見るのは愉快だから、やりかえす一択だと思う。


「うん……それは恋だよ……」


 そうだろうか。うーん、恋かぁ……だけど、アルパカ先輩とロバ氏のようなキラキラでふわふわとした感じには、どうやってもならない気がする。そもそも私は、恋とか何とかが似合うような人間じゃないし。


 まぁ、それはさておき。

 一つだけアルパカ先輩に言っておきたいんだけど。


「いくら先輩でも、片桐を下の名前で呼ぶのはどうかと思う」

「それは恋だよ!」


 そうなのかなぁ。やっぱりよく分からない。

 そんな感じで、閑古鳥の鳴いているベーカリー・カタギリの昼下がりは、のんびり穏やかに過ぎていったのだった。

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