第十話 何時しか牢獄はその役目を終え、斯くて、語り手は空に旅立つ船を見送る。
空の移り変わるにつれ、向きを変えながら流れる空の空気は、地上に届く頃には優しく頬を撫でる様に緩やかで穏やかな物になり、其の中を人々が思い思いの様子で行き交っていた。
心なしかその表情は晴れやかで、しかし、その原因が何であるか皆分からず、戸惑っている風な感じでもあった。
その情景は、今まで心の牢獄に囚われていたこの自分には、全く予想し得なかった世界であり、街角に佇み、その様を覗っていると、自分が最早、此の世界に乗り遅れ、取り残されたと云う感情がひしひしと湧き起って来るのを感じるのだった。
しかし、不思議とその事に対する悲壮感などと云った物は感じず、むしろ、何処か胸の支えが取れた様な安堵の気持ちが強く、自分の抱いていた恐れ、やがて訪れるだろうと思っていた結末が何の根拠も無い杞憂に過ぎず、見当違いの箇所を見ていた自分を余所に、物事は全て滞りなく進行していた、と云う現実を目の当たりにして、強張った身体中の力が抜けて行くのを感じていた。
其れ迄自分が見据えていた未来、見渡すばかりの牢獄世界の中に最早人間の姿は無く、替わって野生の物と思しき動物達が現われる。世界その物が牢獄と化した中で、人々は行き場を失い、その末に誰も居なくなってしまった世界。伽藍洞と化した世界で、追い遣られていた野生の物達が蔓延り、最早此処には人の足跡は残っていないのだと、我が物顔で世界を闊歩する彼等を見て、静かに自身の終わりを待つしかない。
其れは避け様の無い未来、殆ど予言に近い物となって自分を長い間苛んでいた筈だった。
しかし、目の当たりにした現実の世界で戻って来たのは、行き場を失い何処かへと姿を晦ませていた筈の人々の姿だった。
人々は逃げ出した嘗て自分達の牢獄だった場所を見回して、それが最早牢獄としての体を為しておらず、終わりの無い様に思われた牢獄の拡張も既に無く、この巨大で複雑に入り組んだ建築物の迷宮は、その複雑さにも拘らず、広々とした風通しの良い空間を有していたのだった。
その原因は、際限無く積み上げられた建築群の上に広がる空の世界に有った。地上を埋め尽くし、何処にも行き場を無くしてしまった事で自然と視線は上を向き、何処までも広がる空の世界へと近付く結果を齎す事になるのだった。
その光景は、嘗てどうあっても届き得ない世界であった空が、今や思いも掛けず、相変わらず遠い事には変わりは無いのだが、最早手の届かない世界ではなく、何れ其処に向けて旅立って行くのだろう、と、そう思わせる空と街との夕暮れ時の光景。
何時かそんな情景に立ち会える日が来るだろうか? 恐らく其れは、遠い未来の話であり、その願いが叶う事は無いだろう。
それでも、その可能性が芽吹き、育ち始めているその瞬間に立ち会えていると云う、別の機会は与えられた、そう思っておく事にしよう。
多分、街を行く人々は其の事に気付いていない。しかし、水面下で何かが育ち、今も尚伸びて行こうとしているその機運の高まりを、何となくではあるが感じ取って、自分達でも説明の付かない気分の高揚を覚えている事だろう。
其の高揚が今この時を進め、やがては空に至る為の原動力となっている事、その事に気付くのは、果たして何時の事になるだろうか。
空と地上と人々の見る幸せな夢を、夜が優しく包み込み、安らぎに満ちた深い眠りの中で人々の見る夢は、やがてゆるやかに流れる大河となって、何時しか空を横切る星々の織り成す大河に合流し、共に空の向こうの遥か彼方まで流れて行く事だろう。
そして嘗て牢獄であった世界は一つの大きな船となって、其の流れに乗って旅立って行くのだろう。
人々が終わりの見えない労役で造り上げた、自らを閉じ込める為の牢獄。
それは、これから旅立つ空の世界から自分達を守り、そこへ乗り出して行く為の一つの巨大な船だったのだ。
人々は自分達が気付かぬ内に為していた事に驚き、戸惑いながらも、次々と乗り込み、やがて舟はゆっくりと空に向けて船出して行く。
その船に乗り遅れた自分は、ただこの場でその行方を見送るのみだ。
追い縋る為の翼も、最早この身から失われて久しい。しかし、想いを託す、その位は許されても良いだろう。
其の想いが、旅行く舟に乗って、何処までも共に行けるように。
目の前に俄かに現われた、光り輝く翼に其の想いを乗せて、今にも力強く羽ばたこうとするその姿に、自分は一言告げるのだ。
〝行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って。″
牢獄逍遥記:終
牢獄逍遥記 色街アゲハ @iromatiageha
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