第九話 思わぬ開放。

 だから、これより先の話は、本当にただの蛇足。


 遂に自らの手で自身の鍵を解く事の叶わなかった者の見た、全くの予想外から齎された純粋な棚ぼたであり、其れはまるで夢の中での出来事の様に、自身の意志とは無関係に事の進んで行くのに驚き、戸惑うばかりで、ぼんやり見ている間にも事態はどんどん進んで行き、何を見ているのか、それを把握するにも苦心する有様なのだった。


 事の起こりは、或る日、夢の今だ覚めやらず、目覚める直前の夢に有りがちな、こんがらがった状況を何とか解き解そうと四苦八苦する中で、不意に何処かで掛け金の外れる感覚を覚え、目を開くと、常とは違い、妙に身体が軽く、日頃感じていた重苦しい感覚が嘘の様に消え失せて、其れが却って物寂しい感じすら覚えるのだった。


 自分でも説明の付かない感覚に首を捻りながらも、外に出て辺りを見渡してみると、拍子抜けする程今までに感じていた圧迫感が感じられず、替わって、内から湧き上がって来たのは、何処か取り残されてしまった様な、眠っている間に全てが終わってしまい、戸惑う自分を余所に、世界は既に別の方向へと舵を切って進みだしていた、と云う、曰く言い難い疎外感が胸に去来し、訳も分からず周りを見渡して途方に暮れるばかりなのだった。


 今までさんざん自分を悩ませて来たあの牢獄の感覚が、何時の間にやら終わりを告げ、同時に、自分と云う物語も疾うに終わりを遂げていた事を悟り、俄かに手持ち無沙汰になった様な空虚な感覚を胸に覚え、自身を取り巻く世界が、最早自分とは関係無く流れて行く様を、ぼんやりと眺めている事しか出来なかったのである。


 穏やかに流れる街並みの中に佇んでいると、その流れる様がまるで、思い掛けず齎された残りの時を、その中に浸して心穏やかに過ごす事を促されている様に思えて来て、何時しか安らいだ心地で、傾きかけた陽の光に空一杯に広がった雲が薄赤く染まり始めるのを静かに見詰めていた。


 あれ程までに見る度に言い知れぬ恐怖を覚えていた高く積み上がった建築物、何処までも高く伸び上がり、空を覆い隠さんばかりに圧し掛かり、何処までも追い掛けて来て、行き場の無い所まで自分を追い詰めようとしていた巨大な障壁が、今はどうだろう、空の一点でそれ以上伸びる事無く留まり、その上に広々と広がる空の中で安らいでいる様に見えるのだった。


 空では大小様々な雲が後から後から沸き立つ様に生まれ出で、生まれる端から空全体を巻き込む巨大な流れに乗って、少しずつその形を変えながら、やがて空その物の中に溶ける様にして消えて行く。


 まるで世界その物を押し流してしまう様に見える、空一面の雲の群れは、時には瀑布となって地上に降り注いで来るかと思えば、片や街の片隅で、雲の切れ間より漏れ零れる陽の光と共に、静かに流れ落ちるせせらぎの調べとなって、たおやかに絶える事無く流れ込んで来るのだった。


 そして、行き交う人々は其の流れを縫うように親ぐ魚さながらに、足取りも軽く息衝き身を委ねていた。


 ともすれば、地上に存在する全ての物を押し流てしまいそうに思える空の流れを、空に掛かった建物が堤防の様に堰き止め、その下に居る人々の安らぎを守り、静かな眠りに導いている様に見え、同時に空に伸び上がって見えるそれらの建物は、空と云う海に伸びた桟橋の様にも見え、何れ其の海に向けて漕ぎ出して行くであろう者達の姿をも暗示しているのだった。


 その傍らには、雲の波間に浮かぶ白い月が、周りの空の色に溶け込む様に半ば掠れた姿を見せていた。


 それは、もしかしたらこの地上が辿っていたのかも知れないもう一つの姿。空の流れに全てが洗い流されて、砂と水との清浄な、しかし生きる者の何一つ存在しない世界。


 この地上がそうならなかったのは、皮肉な事に、自分があれ程厭うていた牢獄の象徴である、立ち並ぶ高層建築が空の瀑布より地上を守り抜いた為であったのだ。


 

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