第3話 後編


 源六が消えてから四日が経った。

 この四日間、ずっと源六の言葉が消えない。

 環とちゃんと向き合え。これだけが脳の中で何回も反響し、どうするのが正解なのかをずっと考えている。

 ザーザー、チクタクチクタク、雨と秒針の音だけが聞えている。

 ベッドの上で自室の天井をぼうっと眺めていると、コンコンと何かが窓を叩く音がした。

 上体を起こして見てみると、そこには見覚えのある白いカラスの御霊が、くちばしで窓を叩いている。

 慌てて窓を開けに行く。


「どうしたんだ」


 聞いてもカラスが答えることはない。

 しかし代わりに、顔を背けある一点を眺めだす。

 そっちは楽神神社のある方角だ。

 嫌な予感がした。

 俺は急いで動きやすい服に着替え、大福を伴って部屋を出る。

 傘を持って玄関を出ると、そこにはカラスが雨に打たれながら門の上で俺を待っていた。

 姿を確認するや否や、カラスはすぐに飛び立つ。

 方角はやはり神社の方面だった。


「はあ、はあ」


 雨の中、息を切らして走り続ける。

 住宅街を抜け、商店街を抜けて、石段を駆け上がり、そして楽神神社にたどり着く。

 雨のせいか、楽神神社の空気はいつもより暗くて重かった。

 肩で息をして呼吸を整え、ドキドキと激しく脈打つ心臓を感じながら、俺は歩き出す。向かう先は神社ではなく、境内にある一軒家。

 この神社に着いてからカラスの姿は見失ってしまったが、なんとなくいるとすればそっちの方だろうと思った。

 ザリ、ザリ、音を鳴らしながら進む。

 そうして数分もしないうちに田上家へたどり着き、見覚えのない人たちがいることに気付いた。


「あの」


 家の玄関前で傘を持って立っていた女性に声をかける。


「えっと、貴方は?」


 女性は戸惑ったように聞き返してくる。


「最近困っていたのを琴菊さんに良くしていただいて、そのお礼に来たんです」


 そういうと女性は納得してくれたのか、琴菊さんらしいと小さく呟いて、次には悲しい顔をした。


「そうなの。けれど、ごめんなさい」

「……何かあったんですか?」

「亡くなったの」


 誰が? 思わず聞いてしまいそうになって、唇に力を入れた。

 聞くまでもない。琴菊さんの他に誰がここに住んでいるというのか。

 環は隣人でない人間には見えず、琴菊さんも家族を失ってから久しい。

 親戚はいるが、二つ隣の町に住んでいるということで、ここで暮らしている人間なんて琴菊さん以外にはいない。

 なら目の前のこの女の人は、例の親戚だろう。


「亡くなったのは多分昨日の夜だって、往診に来たお医者様が」

「そう、ですか。その、じゃあ、せめて、ありがとうって、いっても」


 喉が乾く。舌が上手く回らない。

 走った後だからというのもあるだろうが、それよりも自分と同じだった人が、遂にこのときが来てしまったことが、余りにも衝撃的過ぎて、思考がぐちゃぐちゃし始める。


「……ええ」


 女性は頷き、家の中に招き入れてくれた。

 どこか寂し気な廊下を歩き、琴菊さんの部屋に着くと、中には数人の親戚と一人の医者が話し合っていた。

 医者と話していた男性が何かを言っているが、何も頭に入ってこなかった。

 目の前で横たわる、白い布を顔にかけられている老婆。

 頭では理解しているし、実際にそうなんだろうとも分かってはいるが、確認せずにはいられなかった。

 膝をつきかぶせられた顔かけを少しだけはがし、確認する。

 ぐらんっと、脳が重たくなったように感じた。

 そして顔かけを戻して、座り込む。

 呆然としていると、肩に誰かの手が乗る。

 顔を上げると、医者と話していた男性だった。


「琴菊さんのことは、残念だ。……けど君がこうして来てくれて、きっと琴菊さんも……」


 つらつらと声が聞こえるが、内容は全く理解できず、言葉が右から左へ流れていく。

 その時だった。


「親父、琴菊さんって一人暮らしなんだよな?」


 年若い男性が、部屋の外から顔をのぞかせる。


「ああ、そのはずだが……」

「おっかしいな。別の部屋確認したらもう一人分の家具とか生活用品があってさ」


 はっと気付く。環は大丈夫なのか。

 探さねばと考えたときには既に動き出していた。

 後ろから声が聞こえるが知ったことか、どうでもいい。

 走って環の部屋に向かう。いない。

 琴菊さんのそばにも自分の部屋にもいないなら、この家にいる可能性は低い。

 俺は家を飛び出て、傘も差さずに周囲を見回す。


 「環!」


 叫んで名を呼ぶが反応はない。


 「クソッ!」


 どこにいる? どこへ向かった可能性が高い?

 林の池? 違う。

 みんなで花火を見たあの山? 違うだろうな。

 なら初めて俺らが出会った神社の裏手? 分からない……。

 必死で脳みそをぶん回すが、答えは出ない。

 可能性は低いだろうが、それでもここでじっとしてるよりはマシだ。

 俺は一縷の望みにかけて、環と初めて出会った神社の裏手へ走る。


 ――しかし、やはりそこに環の姿はなかった。


「クソ、クソ、クソ! どこにいるんだよ!」


 膝に手を置いて悪態を吐く。

 胸のうちにだんだんと苛立ちと焦りと不安が募り、涙がこぼれそうになる。

 ……駄目だ。こんなことをしていても環は見つからない。

 気持ちを切り替えてもう一度周辺を探してみようと顔を上げたとき、足元にいた大福が何かに気付き、地面の匂いを嗅ぎ始めた。


「まさか残ってるのか、環の匂いが!?」


 だとすれば運がいい。雨で完全に洗い流される前に、かすかでもいいから何か手掛かりを見つけられれば。

 くんくんと犬のように地面をたどっていく大福。

 頼む。お前だけが頼りなんだ。どうか、どうか……。

 そうした俺の祈りが通じたのか、急に大福が顔を上げて裏の森へ走り出す。

 一度息を吐いて、俺は森へ足を踏み入れた。

 

 ――そこから何時間もかけて、俺と大福は森を走り回った。


 もう自分がどこにいるのかなんて、とうに分からなくなっている。

 これでは仮に環を見つけても、戻るのは難しいだろう。

 でも、それでも構わない。環に会えるなら、もう戻れなくなっても。

 そう思って歩き続けて、やがて雨が止んで、星々が顔をのぞかせる時間になって、俺はようやく環を見つけた。


「環!」


 急勾配になった森の斜面の下、木に寄りかかるようにして環が座っている。

 名前を呼んでも気付かないのは寝ているからなのか、あるいは。

 急いで降りようとした時だ。環を見つけた喜びの余り俺はぬかるみで足を滑らせて、勢い良く転がりながら滑落していった。

 世界が回る。頭を打つ。むき出しになった岩や木の根で体が切られる。

 世界が回るのを止めた頃には、俺は環のそばまで転がり落ちていた。

 全身が痛い。視界がぼやける。体に力が入らなくて、這いつくばって何とか眠る環の手に触れる。

 やっと環に会えた。その安心感で、俺は意識を手放した。




 ――夢を見ているの。幼いころの夢だ。


 そこは木漏れ日の差す深い森の中で、俺の手には怪我した白ウサギが抱えられている。

 ああ、そうだ。確かこの日は、俺の起こした傷害事件の一週間後で、家族でどこかの町へ旅行に来ていたのだ。

 旅行先の町でたまたま見かけた野生の白ウサギが珍しくて、無我夢中で追いかけまわしていたら迷子になったのだ。

 途中でウサギは怪我するし、俺も転んで膝を擦りむいて、挙句の果てに迷子になり泣き散らかしていた。


「グズ、ヒグッ……父さん母さん、どこぉ……ヒグッ」


 泣いていても、怪我した白ウサギだけは手放さない。それは怪我しているからとかではなく、単に俺は一人になるのが嫌だったからだ。

 あれ、でも、この後どうやって帰ったんだっけ。

 思い出そうとしたとき、森の奥から一人の女性が現れた。


「お姉さんだれ?」


 俺がそう言うとその人は一瞬驚いた顔をして、けれど次の瞬間には俺の頭を撫でていた。


「どうしたの? こんなところで何をしてるの?」


 特徴的な巫女装束を来て、泣いてる子供をよしよしとあやす女性。


「そう、迷子なの。ああ、泣かないで」


 割と泣き虫だった小さい頃の俺は、自分以外の誰かに会えた安心感で再び泣いてしまい、お姉さんを困らせてしまう。

 どうすれば泣き止むのかをお姉さんは考えて、ピンと何か閃いた様子だった。


「お花は好き?」


 好きでも嫌いでもないと、俺は答えた。

 お姉さんは何も言わず、そっかとだけ笑って、俺の手を取り歩き出す。

 そうして連れて行いかれた所は、美しい花畑だった。

 この世のものとは思えないほどに綺麗で、子供だった俺はこの世界で一番綺麗だと口に出していった。


「ふふふ、ありがとう。私の好きな場所なんだ」


 近くに川があり、夏には蛍も見れるというその場所は何だか遊園地みたいで、気が付けば涙は笑顔に変わっていた。

 無邪気に走り回る子供の俺は、ある一つの花を見つける。

 ピンク色のカーネーション。なぜだかその花が、この花園で一番綺麗だと思った。


「これ好き」


 俺がそういうとお姉さんは笑った。


「そう。私はこれ」


 お姉さんが見せてくれたのは、色とりどりの菊の花。


「私の家族と、同じ名前の花」


 本当に幸せそうに笑うお姉さんの顔があまりに美しくて、その顔を見ているだけでなんだか俺まで嬉しくなって……。

 徐々に夢が曖昧になっていく。

 お姉さんの輪郭も崩れ、花園が色あせていく。

 ホワイトアウトしていく意識の中で、大切な記憶を思い出せて良かったと、俺は夢の世界からはじき出された。



 誰かに頭を撫でられ、意識が浮上する。

 重い瞼を開けば、上から環が顔を覗き込んでいた。


「おねえ、さん?」


 夢にまだ意識が引っ張られているのだろうか。

 無意識にそう呼んでしまう。

 環はそのことに一瞬頭を撫でる手を止めるが、ふっと口元を緩めるとまた撫で始めた。


「思い出したんですね」


 否定することではないので、黙ってうなずく。


「ビックリしました。あのときの子が、こんなに大きくなって、逞しくなって、また会いに来てくれるなんて」


 約一ヶ月前の出会いを懐かしむように、環は語りだす。


「本当に嬉しかったけど、けどちょっと残念なこともありました。まさかあのときのことを全部忘れていて、おまけに人間が嫌いになっているとは思いませんでした」

「……別に、人間が嫌いになった訳じゃない」

「忘れていたことは否定しないんですね」

「……ごめん」

「ふふふ、大丈夫ですよ。ちょっとした意地悪です」


 ペロッと、環は舌を出す。

 そもそも知っていたのなら、環も黙っていないで話してくれればよかったのに。

 けど、そんなことはもうどうでもよかった。

 環に会えたそれだけで、世界の全てがどうでもよく感じられる。


「帰ろう、環」


 そう言って、全身傷だらけの体を起こす。

 しかし環は困ったように笑い、首を横に振った。


「もう私、限界なんです」


 限界? 何を言っているのだろう。


「琴菊さんのことか?」

「それもありますが、私自身のことです」


 なおさら分からない。

 確かに琴菊さんが亡くなって、琴菊さんのかけた術は解けてしまったのだろうが、それでも琴菊さんによればまだ猶予はあるはずだ。

 俺の顔から何を考えているのか察した環は、安心させるように俺の手を握った。


「実はもうだいぶ前から術は切れていたんです」

「え?」


 ……何を言っているのだろうか?


「そうですね。一ヶ月くらい前にですかね」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。


「まって、くれ」


 声が震える。

 一か月前、それは俺と環が初めて会ったとき、再会をしたときと同じ時期だ。


「琴菊は優秀な術師でしたが、もはや自分の術式が解かれてしまったことにも気付けないほど、衰弱していたのです」

「まってくれ」


 では何か。俺と再会したあの時には既に術などなくて、じりじり自分の命を削りながら俺と一緒にいてくれたのか?

 そして俺はそれに気付かないで馬鹿みたいに笑って、能天気に環を連れ出して、そして心配させまいと今も環に無理をさせてしまっている。

 なんだそれ。なんなんだよそれ。


「なんで、言わなかった」


 言う訳がない。この少女が、心優しい土地神が、他人が心配になるようなことなんて言う訳がない。


「ごめんなさい」


 何の言い訳もない、短い謝罪。

 違う。俺が行ってほしいのはそんな言葉じゃない。


「違う。そんなのが聞きたいんじゃない! なんで君はそこまで……!」


 スッと頭に手が置かれて。


「アナタが一人は嫌だといったから」

「……っ! ああ、クソ……」


 結局は俺じゃないか。

 小さなときの俺が言ったことを。本人でさえ覚えていないような願いを。ずっと、ずっと、この神様は叶えてくれていたんだ。

 涙が溢れる。喉が乾く。鼻水が出て、まともな顔ができない。

 困った顔が見たい訳じゃない。悲しい声が聞きたいんじゃない。

 ただ心の底から笑っていてほしい。小さい頃にあの花園で見たときのように。

 君に幸せだと思ってほしい。俺が君から教えてもらったように。


「楸?」


 体に鞭を打って無理やり立ち上がる。

 体中が悲鳴を上げて今にも倒れそうになるが、そんなの関係ない。

 血を流そうが、骨が折れようが、今度は俺が環を笑わせる番なんだ。


「わっあ」


 淡く光り始めている環を背負う。


「大福」


 名前を呼ぶと、ひょっこりと小さな頃に出会ったときと同じように姿を見せる。


「案内してくれ」


 たったそれだけの言葉で、小さな相棒は全てを察してくれて、匂いをたどって歩き出す。

 思えば大福とも始めから知り合いだったのだ。なぜ最初からに自分に懐いてくれるのか、今になって思い出すとは、本当に相棒には申し訳ない。


「楸、おろしてください。私は大丈夫ですから、早く病院に」

「うるさい」

「楸?」


 初めて、環に強い言葉を使った。


「大丈夫なわけないだろ。あんなところでへたり込んでいたやつが」

「楸、わたしは……」

「大体、なんで琴菊さんのそばにいないんだよ」

「それは……」

「大方! あの花園で菊の花を摘んで持ってこようとか考えてたんだろ」


 しゃべらせない。しゃべらせるもんか。術など始めからないのに、平気な顔で遊びまわる馬鹿神なんかに。無駄な体力など使わせるものか。


「あの喋ら」

「喋らせない! いつ消えてもおかしくない状況で、自分よりも他人なんかを心配するやつなんかに」


 声を震わせてながら叫んで、不格好に泣きながら歩いて、痛い痛いって今にも倒れそうになりながら我慢して、それでも前に進む。

 もう俺にできることはそれぐらいだから。それしかないから。

 優しい手に、頭を撫でられた。一回、二回、三回。撫でる手は止まらない。

 そのせいでさらに涙が止まらなくなる。


「ありがとう。けれど、なんで?」


 なんで? なんでだと? そんなもの決まってる。


「たまきが、好きだから」


 格好の付かない震えた声で言う。

 言ってしまった。言わないと決めていたのに。

 源六の言っていたことも理解できていないのに。

 溢れてしまった。零れてしまった。抑えられなくなってしまった。


「……っ」


 環が息を吞むのがわかった。

 頭を撫でる手が止まる。

 そして環は両手でギュッと俺の背を握り、


「本当に、私でいいんですか?」


 小さく囁くその声は、酷く震えていた。


「ああ」

「もうすぐ会えなくなっちゃうんですよ」

「そうだな」

「そしたら楸はきっと悲しみます」

「当たり前だ」

「昔みたいに、また泣き虫に戻っちゃうかもしれません」

「かもしれないな」

「楸は傷付いて、きっと後悔しますよ」

「多分、いや、きっとそうなる」


 源六の最後の顔が、頭に浮かんだ。


「なら!」

「それでいい」


 静かに、でもはっきりと答える。

 後悔をしてしまうのは、それが大切だからだと源六は言った。

 そして後悔をするのは悪いことではないとも。

 今なら源六の言っていたことが、何を言いたかったのかが分かる気がする。

 後悔をしなければ、それがどれだけ大切だったのかに気付けないのだ。

 本当は大切だったものを、それの価値に気付かずに忘れてしまう。思いが残ることはなく、ただ漠然とそういうこともあったと忘れてしまう。

 子供の頃の俺がそうだったように。

 あのとき何かしらの後悔をしておけば、俺が環と大福のことを忘れることはなかった。


「ありがとう」


 環が震える声で言った。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 何度も、何度も、、何度も繰り返し言った。

 月明かりの差す森の中に、二人分の静かな泣き声が響き渡る。

 そして花畑に着くころ。環の体は、半分以上が溶けていた。


「楸、ありがとうございます」


 花畑の中心で環を下ろし、その体を抱く。


「ああ」


 溶けていこうとする彼女の手を握る。


「ねえ楸、三つだけ約束してくれる?」


 こくりと、黙ってうなずく。


「私がいなくても前へ進むこと、もう私を忘れないこと、あとはこの花園を貴方に管理してほしいな」

「ああ、ちゃんと進むから。忘れないから。ここは俺に任せてくれ。だから」


 抑えているのに溢れ出す涙。最後が涙なんて、格好が悪すぎる。だから、必死で笑顔を作ろうとして、


「んっ」


 環はそっと口付けをした。

 そのことに思わず驚いてしまい。


「うん、泣き止んだね」


 してやったりと環は最後に幸せそうに笑って、光となって世界に溶けていった。

 花園に残され俺は一人、嗚咽を漏らして泣き崩れる。

 大丈夫だから。明日からはちゃんとするから。そう言い訳しながら、大好きな君を思って、日が昇るまで俺は泣き続けた。

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ヒトナツカミ 桃原悠璃 @ryuu04

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