第2話 中編
そこは花園だった。
綺麗な花が無数に咲き誇り、風に誘われて花びらが宙に踊る。
花園の中央には一人の女性が立っており、舞う花びらの中というのも相まって、映画のワンシーンみたいだと思った。
後ろ姿の女性に既視感を抱くが、誰なのかが思い出せない。
だからもっと近くで顔を見ようと足を前に出そうとするが、意思に反して体は言うことを聞かなかった。
体が動かないならと声を出して呼ぼうとするが、声も発することができない。
風が少しずつ強くなっていく。初めは髪を揺らす程度だったのが、体がよろめくぐらいになり、目を開けていられないほどにまで勢いを強める。
視界の隙間から、女性がこっちに振り向いたのが見えた。
あと少し、もう少しで顔が見えるというところで、大量の花びらが視界を遮り、俺の顔を覆う。
目も鼻も口も、全てが蓋をされ息が出来ずに意識が薄れていき、俺は真っ暗な闇に沈んでいった。
*
「ふがっ!」
息苦しさからガバッと飛び起きる。
呼吸を整え、ぼやける目を動かして周辺を探るが、何の変哲もない俺の部屋が広がっているだけ。
部屋の壁に掛けられた時計を見れば、朝と言うには遅く、昼と言うには早い時間だった。
変な夢を見た。いや、内容はほとんど覚えていないが、なんとなくそんな感じの夢を見た気がする。
ふと、足元でもぞもぞと何かが動くのを感じて、タオルケットをひっぺ返してみれば、足の間にすっぽりと収まっている大福がいた。
「もしかして、息苦しかったのはお前のせいか」
おそらく、寝ている俺の顔に乗ったりでもしたのだろう。
原因が分かり少しスッキリしたが、二度寝する気にもなれない俺は遅めの朝食を摂ろうとベッドから立ち上がった。
みんなで花火を見たあの夏祭りから三日。
残り少なくなった夏休みをどう過ごそうかと考え、結局思い浮かばなくて、取り敢えず環に会いに行こうと楽神神社に足を進めていた。
俺の家は田ノ上町の都市開発で作られた住宅街の一角にある。それに対して楽神神社は、住宅街のある場所とはほぼ真逆の所にあるため少し遠い。
なので自転車で向かおうとしたのだが、どうやら母親が自分の自転車をパンクさせてしまったようで、代わりに俺のを使っているため徒歩で向かうことを余儀なくされた。
空は快晴で日差しを遮るものはなく、夏場のアイスのように溶けてしまいそうだ。
ツーと額から垂れる汗に不快感を感じている俺の足元で、何が楽しいのかグルグル大福が走り回っている。今だけはその元気がうらやましく感じた。
神社に近くになるにつれて、緑色が増えていく。
楽神神社がある辺りはまだ都市開発の手が伸びていないらしく、自然らしい自然がまだ残っている。
翔吾から聞いた話だと、この辺りにレジャー施設を作る計画が立てられたらしいのだが、それを知った地元民たちの激しい抗議活動により、一旦計画を凍結せざるを得ない状況になったのだとか。
「ん、大福?」
楽神神社の石段前に着いたとき、大福の様子が変わる。
あれだけ動き回ったのだから流石に疲れたのかと思ったが、違うみたいだ。
長い耳をぴくぴく動かして、一点を見つめたかと思うと、急に地面の匂いを嗅ぎだす。
見た目は兎なのに、なぜだか犬並に鼻の利く大福は、ある方向へ動き出す。
大福が走っていったのは、石段の脇にある林。
何かあったのか。放っておいてもいいが、先に何があるのか俺も気になったため、後を追うことにしてみた。
林の奥、完全な緑に囲まれた空間を進むと、急に視界が開けた。
陽の光が差し込む美しき池。美術館にでも飾られていそうな絵画を思わせる、風光明媚なちょっとしたスポット。
この夏休みの間に何度か来たことのある場所だった。
ざわざわと、池のほとりに人が集まっている。いや、違う。人ではなくて、御霊と見覚えのある妖怪たちの群れだ。
その中に一人、特徴的な巫女装束を来た友人が大福を抱え立っている。
こうして外から見ると、一人だけ人間の姿をしているのでものすごく目立っている。
一体全員で何を見ているのか。俺はそっと後ろから近づき、
「何見てるんだ!」
耳元で、少し大きな声を出した。
「ひゃっ!」
肩をビクッとさせ驚いて、環は振り向く。
よ、と俺はあいさつ代わりに軽く手を上げた。
「そうやって人を驚かせるのはよくありませんよ?」
「じゃあ大丈夫だ。俺が驚かせたのは神様だから」
「むぅ、屁理屈です」
頬を膨らませて怒っている顔をするが、全く怖くない。
腕に大福を抱えているというのもあるのだろうが、全く怖くないのは神様としてどうなんだろうか。
「お、あんちゃん!」
周囲にいた妖怪や御霊たちが騒がしい俺らに注目する。その中の一人? 一匹? の妖怪が嬉しさ混じりの声音でそう言った。
環よりも小柄な体躯に緑の肌、鳥のくちばしに頭には特徴的なお皿が乗っている日本で有名な妖怪、河童。その最後の生き残りである、河童の
源六はシワの多い顔をさらにくしゃくしゃにして破顔し、歩いてくる。
「はっはっは、二人して仲のいいこって。なんでえ、なんでえ、こうしてみると良い夫婦じゃねえの! こりゃ、おめでたの報告が楽しみだぜい」
「おい、出会い頭におっさん臭いセクハラするな」
隣で環が顔を赤くし、あわあわとし始める。
俺も源六に揶揄われたのが少し恥ずかしくて少し強めに言ったのだが、当の源六は
「はっはっは」と笑い飛ばして意に介していない。
「それで源六、お前ら何してたんだ」
短い溜息を吐き、俺は諦めて話題を変えることにした。
「あん? あんちゃんも勝負しに来たんじゃねぇんかい?」
「勝負?」
「あれだぜい、あれ」
源六が指をさしたのは、ほとりの近くにある縄で作られた、簡素な土俵だった。
「相撲?」
土俵と言えば相撲だ。
そんな俺の思考を、うれしそうに源六が肯定する。
「おう! 久しぶりにやりたくなってな。あちこち知り合いに声をかけてたのよ。てっきりあんちゃんもその話を聞いて来たのかと思ったんだが」
そう言えばなんかのテレビ番組で、河童は相撲が好きという話をしていたのを思い出す。
あの番組で言っていた話は、あながち間違いでもなかったと証明された瞬間だった。
「いや、たまたまだよ。大福がこっちに来たから追いかけてきただけだ」
「なんでい、環様と同じって訳かい。似た者夫婦め」
「そうなのか?」
あわあわと未だに揶揄われて慌てる環に聞いてみる。
「そ、そうですね。御霊たちが集まって行くのが見えたので、何でしょうと思って。大福ちゃんとも、その途中で偶然」
「そうか」
チラッチラッとこちらの様子を伺う環に気付かないフリをする。
恥ずかしくてどう答えればいいのか分からないから。
「どうでい、あんちゃん。一つ勝負しねえかい?」
「いや、俺はいい。環と一緒にここから見てるよ」
元々運動は得意ではない。かと言って苦手と言う訳でもないが、翔吾たちの言う通り都会っ子である俺では、いくら小柄とは言えこの自然で暮らしてきた源六に勝てる見込みは薄い。
それに相撲なんて一度もやったことがない。やる友達なんていたことがないので、なおさらだ。
「情けねえな、あんちゃん。環様にいいところ見せるチャンスだぜい?」
「いやいいよ、俺は強くないし。多分他のやつとやった方が楽しいぞ」
「もうやった後だぜい。骨のないやつらばかりで、今のところ全戦全勝よ」
あっはっは! と笑う源六に、近くにいた一つ目の妖怪がボソッと、
「いや、旦那が強すぎるんですよ」
と呟いた。
どうやら大体の妖怪とは相撲を取った後らしい。
残念だが源六の相撲を見ることはできないようだ、仕方ない。
「ふむ、そうだな。こんなのはどうでい、あんちゃん」
相撲を取りたがらない俺に、源六は一つ提案する。
「ワシと相撲を取らないなら、今ここで環様の恥ずかしい秘密を一つ暴露する」
「ふえっ!?」
ん? なんだろうか。今少し日本語がおかしかったような。
俺の秘密ではなくて、環の? いや確かに、秘密を抱えられるほど俺はこの町で過ごしてきた訳でもないので、言って意味は分かるが。
「環のって、俺に被害はないぞ……」
俺がそんなことで相撲を取るとでも思っているのだろうか。
だとしたら愚策である。なぜなら、環の恥ずかしい秘密と言われれば、むしろ聞きたいに決まっている。
環には悪いが、俺が相撲をすることはない。
「あのぉ~源六、その秘密とは……」
恐る恐る環が聞いてみる。
「五十年ほど前ですかね、琴ちゃんに大変激怒されたあれですよ。そう言えば、あのときも今日みたいに気持ちのいい天気でしたな」
「――ッ!? ダメですダメです! あれを楸に知られるのだけは!」
わなわなと体を震わせて百面相する環。
環がこんな反応になるぐらいの出来事とは、余計に気になってしまう。
「楸、私のためにお願いします」
ガシッと、片手で肩を掴まれる。
心なしか、環の笑顔に圧力を感じる。これが神威というものなのだろうか。
「いや、でも……」
「楸」
「あ、はい」
断ろうとして俺の本能が警鐘を鳴らし、反射的にうなずいてしまった。
おかしい、神としての力はもう残っていないはずなのに。
環の背に、般若が見えた気がした。神なのに般若とは、これ如何に……。
「はっは、決まりだな!」
「はあ、仕方ない。つまんなくても文句言うなよ」
「おうよ」
源六と一緒に土俵に移動する。
俺も男だ。自信はないが勝負をすると決まった以上、負けるつもりなんてない。
軽く準備運動をし、源六を観察する。
流石に相撲好きなだけあって、堂に入った四股を踏む。一瞬、妖怪が四股なんて踏んでいいのか? と疑問に思ったが余計な考えだろう。
「勝ってください楸! 源六をボコボコにしちゃいましょう!」
それはもう目的が変わっていませんかね土地神様。なんて、妖怪と御霊の中に混じって声援を飛ばしてくる環に苦笑いを浮かべる。
「こりゃ負けられないな、あんちゃん。環様に男みしてやりな」
「やれるだけのことはやってみるよ」
「ははは、弱気だねえ!」
余裕たっぷりに呵呵大笑する源六。
乗せられる訳ではないが、確かに環にいいところを見せたい気持ちもある。
なので精々頑張るとしますか。
ふうと息を吐き、源六に合わせて形だけの蹲踞をする。
年季の違いか、俺よりも二回りも小さいはずの源六が、何倍も大きく見えてしまう。
一人の妖怪が俺たちの間に立つ。交互に源六と俺の顔を見た後頷いて。
「はっけようい、のこった!」
掛け声を放った。
先手必勝。掛け声が聞えるのと同時に、速攻で間を詰める。
技どころか相撲の基本も基礎も分からない、ルールも大雑把にしか知らない俺にできることなどほとんどない。
ならばとにかく攻勢の一手に出る。あわよくばこのまま勢いで押し出してしまえたら……なんて考えが通じるはずもなく。
「おいしょ! なんでい、弱気だった割には威勢がいいじゃねえの!」
「重っ!」
思わず言ってしまう。いや、本当に重いのだ。というか硬い!
まるで巨大な岩と言えば理解できるだろうか。思いっきりぶつかったはずなのに、その場からびくともしない。
俺の突撃を真正面から受け止めた源六は、大変愉快そうに笑顔を見せる。
そのまま俺のズボンを掴もうとするのが分かり、急いで距離を取った。
距離を取るのには成功したが、本当だったら逃げる間もなく俺なんて掴んで転ばせることが出来ただろうに、余裕の表れかわざと見逃してくれた。
もしかしたら、力量差を考えて手加減してくれているのかもしてない。
源六の目的はあくまでも相撲を取るということで、勝敗に関しては頓着していない可能性もある。
けれどどんな理由にしろ、俺が逆立ちしてもボコボコにできない相手なのは確かだ。むしろ、俺がされる側だった。
「おいおいあんちゃん、逃げてちゃつまんねえぜい。組み合って力比べすんのが、相撲の面白味の一つよ」
「冗談……人間の中でも俺はひ弱な方なのに、力で勝てるわけない」
「なにも力一辺倒が相撲の全てじゃあねえぜい。来な、ちょっとコツを教えてやらあ」
挑発するように、クイクイっと手招きをされる。
これは罠か? と疑うが、源六はそんな小賢しい妖怪ではないと知っているため、誘いに乗ってみる。
「ほれ、ここ掴みな」
取っ組み合いが出来るほどの距離まで来ると、源六は自分の腰蓑を叩く。
言われたとおりにすると、今度は源六が俺のズボンを掴み組み合う形になった。
「よしよし、それもっと腰落とせ。そう、んでこうだ」
「うわっ!」
どてっと、軽く倒されてしまった。
「あっはっは、もっと踏ん張んねえと駄目だぜい、あんちゃん。ほれもう一度、今度はワシを倒してみな、ごぼうのあんちゃん」
ごぼうと揶揄されて、少しカチンと来る。
いいだろう。勝てはしないかもしれないが、少しだけでも一矢報いてやると心に決める。
それからはもう気付けば勝負ではなくなっていた。
相撲のコツを源六から教わり、投げ飛ばされたり、倒されたり、こんなに土まみれになったのは生まれて初めてだった。
この場にいるみんなして時間を忘れて、他の妖怪とも相撲をし遊んで、源六の師事が良かったのか何回かは勝って、幼い子供のようにはしゃいでいたのが自分でも信じられなかった。
気が付けば夕暮れどき。池から少し離れた木陰でこてんと座り込む俺の隣に、環が腰かけた。
「楽しかったですね」
「ああ。信じられないぐらいに」
俺はあんな風に動き回ることができたのかと、自分自身に驚く。
「ふふふふ、みんなと一緒に相撲をする楸は、大変可愛らしかったですよ」
「……そうか」
恥ずかしくて反応に困る。
子供みたいだったと、自覚はある。所詮相撲、ただの昔遊びだと思っていたのに、自分でもまさかあそこまで夢中になるとは。
「いやあ、疲れた疲れた」
相撲を終えた源六が、隣までやって来る。
「あっといけねえ、大事なことを忘れてたぜい」
ぽんと思い出したように、源六が腰の巾着から何かを取り出す。
「封筒?」
源六が手に持っているのは茶色い封筒。巾着の中にあったせいか、少しシワができている。
「そうだぜい。環様、これを琴ちゃんに渡してくれませんかね」
「いやそれぐらいなら俺が行ってもいいが」
いくら神らしくないからと言って、神様を妖怪のお使いに出すのはどうなんだ? と思いそう言ってみる。
「鈍いのぉあんちゃん、察せえ。環様がそろそろ琴ちゃんの様子を見に行きたいと思ってると思ってな、これはそのついでよ」
「なるほど」
何百年単位の付き合いの長さ故か、環の考えぐらいは分かるみたいだ。
はっとした環は源六から封筒を受け取り、
「お気遣いありがとうございます、源六。では楸、すぐに戻ってくるので待っていてくださいね」
「いや、もうしばらくここにいるから、ゆっくりでいい」
「……ありがとうございます。では行ってきます」
律儀に頭を下げて、神社の方へ消えていく環。
環についていこうとする大福を持ち上げて、胡坐をかいている足にすっぽりと納める。
環が見えなくなると、どっこらせと源六が隣に腰を下ろした。
「さて……今日はありがとうな、あんちゃん」
「なんだよ、いきなり」
しんみりとした源六の空気に、似合わな過ぎて思わず笑ってしまう。
「いやなに、言いたかっただけだぜい。それより、あんちゃん。環様とはどこまで行ったんでい」
ぶふっと噴き出す。いきなり何を言い出すのだろうか。
「どこまでも何も……」
「まさか何もしてねえんかい? そりゃあいけねえ。身内贔屓じゃねえが、環様ほどの別嬪さんはそういるもんじゃねえ。逃しちゃあならねえよ。ワシが若い頃はそりゃもう、必死で一目惚れした女房に……って、そんなことはいいやい。で、どうなんだい」
いつもの好々爺然としたおちゃらけた空気はどこへやら、真剣にこっちを見据える源六は、俺の言葉を待っていた。
ひゅうと、林の中を夏特有のぬるい風が通り抜けた。
「……好きだよ」
遂に、口にしてしまう。
俺の答えを聞いた源六は今日一番の笑顔を浮かべる。
「そいつは良かった。これで何ともないと言われてたらワシァ、あんちゃんをどつかにゃいけんかったからの」
さらりと怖いことを言う。源六の力で殴られていたら、普通の人よりも弱い俺はひとたまりもない。
「良かった良かった、これで環様も初の」
「言わないよ」
嬉しそうな源六の声を遮るように、心に決めていたことを言う。
源六は俺の顔を覗き込み、大福までもが「え、言わないの!?」と驚いたように俺を見上げた。
「この気持ちは言わない」
自分に言い聞かせるように、確認するように、もう一度声に出す。
「あんちゃん……」
一転して、シワだらけの源六の顔が悲しみに満ちた。
でも、自分で決めたことだから。源六にそんな顔をさせてしまったのは悪いと思うが、これだけは伝えてはならない。
だって、そう遠くない内に離れ離れになってしまうから。
夏祭りの夜に琴菊さんに言った、後悔しないと言う決意。この気持ち伝えてしまったとき、琴菊さんに宣言した言葉を、決意を裏切ってしまうかもしれない。
好きだと伝えてしまったら、きっともう止まらない。笑顔でなんて別れられない。後悔をせずになんていられない。
――出会わなければよかった。
もしかしたら、そんなことまで思ってしまうかもしれな。だから……言わない。
人間と神。消える側と残る側。俺の考えを分かった訳ではないのだろうが、何かを察するには十分すぎる要素と、何より俺以上にそのことを身に染みて理解している源六が、悲痛な面持ちで、でも仕方ないやつだと孫をあやすように、俺の頭を撫でた。
「あんちゃんの気持ちは、あんちゃんだけのものだ。それをどうしようと、あんちゃんの好きにしたらいい」
けど、と源六は一度区切る。
「その気持ちをなかったことにしちゃ駄目だ。見ないふりをしてちゃあ駄目だ。それは今までのことを、なかったことにしようとしているのと同じだぜい。俺たちの存在を拒絶してるのと同じ。それは、ワシたちにとって一番の悲しいことなんだぜい」
「俺は、別になかったことにしたい、わけじゃ……ただ、後悔をしそうになるかもしれないから」
「それの何がダメなんだ?」
え? と思わず顔を上げる。
ただの老人のような顔が、そこにはあった。
「いいじゃねえの後悔。それもまた“思い”だぜい? 後悔をしてしまうほどに大切だから、それほど思っているから、だから悔いずにはいられない。これほど嬉しいことがあるものかよ」
はははと、源六は静かに笑いだす。
「ワシらは元々、人間の思いから生まれた存在だ。ワシは人の噂、河童という存在への恐怖心から生まれた。御霊もそう、環様たち神々だって、人が信じてそうあってほしいと願った“思い”があったから、人の世に降りてきた」
そこに思いがあるから環たちはいた。だからその思いがなくなって、環たちはこちらに存在できなくなった。
段々と妖怪を怖いと思うことはなくなり、本当に存在していると思い込む人はいなくなった。
思われなければいなくなるのが自分たちだと、源六は言う。
「自分と会ったことを後悔してくれる。は! これ以上嬉しいこたあないぜい。そんだけ大切に思われてたってことなんだからよ。だからな楸、環様とはちゃんと向き合うんだぜい」
初めて名前を呼ばれ――気付いた。
源六の体が淡い光の粒となって、少しずつ、少しずつ溶けていく。
「源六!」
後ろから、神社に向かったはずの少女の悲痛な声が聞こえた。
「ありゃ環様。見られちまいましたか」
何が起きているのか分からない俺を尻目に、いやはやと、困った顔を源六は見せる。
「漢、源六。別れに悲しみも涙も不要と、環様だけにゃ見られたくなかったんですがね」
別れ。源六の口にした単語が一瞬理解できなかったが、理解すると俺の中で痛い思いがじんわりと滲みこんできた。
相変わらずはっはっはと笑うその河童に、環は瞳を潤ませる。
「ええ、そうですね。だから泣きません。近いうちに会えますからね」
「おいおい、そいつは笑えない冗談ですぜい」
なんて冗談を言い合いながら、互いにくすくすと笑う。
やがて体の半分が溶け、源六の体が形を失っていく。
「それじゃあ、少しの別れです環様」
「はい。お疲れ様でした」
環は頷いて、最後まで笑顔を浮かべる。
「源六!」
唐突な別れ。何か言わなくちゃと、そう思うが言葉が出てこない。
結局そのときが来るまで俺は声を出すことができなくて、でも最後に源六はふっと笑い。
――頑張れ、あんちゃん! と世界に溶けていった。
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