ヒトナツカミ

桃原悠璃

第1話 前編

 

 夏休みの一週間前、この町に来て、君と出会ったのが始まり。

 母曰く、小さい頃に一度だけ訪れたことのあると言うこの田ノ上町たのかみまちだが、全然そのことを覚えていない俺――秋月楸あきつきひさぎからすれば、色々と新鮮だった。

 だいぶ寂しくなったと地元の人は言っていたけれど、俺からすれば都会よりも自然が多くて、転校先の学校が一クラス二十人ほどしかいないと聞いて驚き、それだけでも十分に新鮮だった。

 けれど、その新鮮さをさらに塗り替えたのは、雪のように白い髪をした少女だった。


「――たまき


 白い、少女の姿をした神様の名前を呼んだ。


「ふぁんふぇすか?」


 屋台の並ぶ場所から少し離れたベンチ、そこに腰掛けながらりんご飴を頬張り、首を傾げるその姿は大変可愛らしい。

 今日は夏祭り。なのでいつも巫女装束の環に合わせて俺、秋月楸は甚平を来て一緒に祭りの喧騒を楽しんでいた。


「いや、この祭りって、もともとは環のために行われていたんだよな?」

「そうですよ。昔の人たちが、ありがとうって気持ちを私に伝えるためにやり始めたんです。でも私の方こそ、私なんかのためにお祭りを開いてくれてありがとう! って言いたいんですけどね」


 そう言って、環は少しだけ寂しそうに笑う。

 この世界に彼女の声を、姿を認識できるものは少ない。それは隣人と呼ばれる、生まれた時から特別な体質を持った人間にのみ、許されている。

 そう、だから環という土地神の少女とこうして会話を出来るのは俺と、環の家族のような存在である琴菊さんだけなのだ。


「あ、環。そろそろ花火の時間……」


 言って、少し自分を情けなく思った。

 いくら環の寂しそうな顔が見たくなかったからと言って、露骨に話題を変えすぎた。もう少し何か、彼女を励ます気の利いたセリフぐらい言うべきだった。

 長年、人と積極的にコミュニケーションを取ろうとしていなかった付けが、ここで回って来るとは。

 そんな俺の内心を見抜かれたのだろうか、おかしそうに環がフフフと笑った。


「そうですね。みんなも待っていることでしょうし」


 環は明るく言って、食べ終わったりんご飴の棒を近くにあったごみ箱に捨てる。

 彼女に気を使わせてしまったかもしれないなと少し反省していると、はぐれないようにとそれらしいことを言って、環は俺の手を取り歩き出す。

 そのことに僅かばかりの恥ずかしさはあるものの、特大の幸福感を感じてしまう自分自身に、俺はなんて単純な男なのだろうと、少し呆れるのだった。



「おーい、こっちだ!」


 田ノ上町の少し外れ、未だに手の付けられていない僅かに自然の残った場所。

 スマホで指示された通りの場所に向かうと、すでにそこには四人の先客がいた。


「ごめん、お待たせ」

「気にすんな、そんな待ってねえから」

「そうそう、あたしたちも今さっき来たばっかだし」


 最初に言葉を発した上島翔吾うえしましょうごの言葉に付け足すように、この町では少し珍しい派手な色に髪を染めたギャル――竹田優奈たけだゆうなが言う。

 竹田は興味深そうに、俺の右横を見つめる。


「今いるん、だよね? 環さん? さま? が」

「うん、竹田が見ている方とは反対側に」

「あ、そうなんだ」


 そういうと竹田は視線をすぐに左側に変えて、凝視し始める。環を見えるのは隣人体質の人だけと、そう説明してあるはずなのだが、それでも竹田がこんなことをしてしまうのは、それほどまでに環に興味があるからだろう。何と言っても、自分が生まれ育った町の神様なのだから、それも仕方のないことなのかもしれない。

 竹田の行動を見ていた環が、少しおかしそうに笑う。


「面白い子ですね、優奈ちゃんは」


 えいえいと、いたずらごころが湧いたのか、環が竹田の頬をつつき始める。


「竹田、環が笑いながら顔をつついてるぞ」

「うえぇ!? ちょ、やめてくださいよ」


 慌てて竹田が手を大きく振る。

 隣人でないものは、その存在を認識することはできない。それは触覚においても同様だ。竹田は俺に言われるまで、環に触られていることに気付けていない。

 だから竹田のこの大げさな反応は、竹田なりの優しさなのだ。派手な見た目に反して、中身はこれなのだから、人は見た目によらないとはよく言ったものだ。


「ん?」


 ツンツンと、肩をつつかれてそちらを振り返る。

 相変わらず無口な田中たなか(下の名前は覚えてない)が、少し下を指さす。そちらの方を見れば、ともすれば小学生に間違われてしまいそうなほどに小柄な友人、ササミちゃんこと笹川美羽ささがわみうがいた。


「あのぉ、皆さん急がないと始まってしまいますよぉ」


 楽し気な雰囲気に水を差すのが悪いと思ったのか、ササミちゃんが遠慮がちにいった。

 何が、と言おうとしてここに来た目的を思い出す。


「そうだなって、翔吾は?」


 ふと、さっきまでいたはずの翔吾がいつの間にかいなくなっていることに気付き、辺りを見回す。

 すると脇の茂みがかさかさと動き、そこからひょっこりと翔吾が飛び出てくる。


「呼んだか?」

「……何してんだ?」


 と聞いてみると、翔吾は右手にあるそれを見えるように持ち上げる。


「スイカ?」

「そう! 祭り前にすぐそこの小川で冷やしてたんだわ」

「そりゃまた、何とも古風なことを」


 冷蔵庫なりなんなりでやればいいものを、と翔吾の笑顔を見て呆れとも感心ともとれない反応をしてしまう。

 しかし環はそうではなかったようで、


「わあ! いいですね、スイカ!」


 食いしん坊神でもある環は嬉しそうに、翔吾の持つスイカを見ていた。


「それじゃあ、行きますか」


 日も傾き、夜の帳が下りようかという時間帯。翔吾の号令に合わせて、俺たちは目の前に見える山の入り口に足を踏み入れた。



 山の中は意外にも整備されており、等間隔で配置された遭難防止用のランプが山の中を照らし、山道も予想していたほどの歩き辛さはなかった。

 がしかし、それでも山は山だ。普通の道に比べれば歩き辛いし、体力だってかなり持っていかれる。

 つまり、何が言いたいのかというと、


「大丈夫ですか? 楸」

「はあ、はあ、だい、じょう、ぶ」


 環の手前見栄を張っているが、正直に言えば辛い。まさかこんなところで育った環境の差が出てくるとは。

 だが俺だって男だ。竹田や環どころか、あのササミちゃんにさえ心配そうに見られているが、弱音を吐くわけにはいかない。


「あっはは! 体力ねえな都会っ子。もうすぐで着くから頑張れ」


 励ますように、先頭を行く翔吾が振り返り笑う。

 ササミちゃんや竹田も、頑張れと応援してくれる。答える余裕なんてないが、それでも少しだけ体力が戻った気がした。

 俺の眼に生気が戻ったのを見てか、近くにいた田中がサムズアップをする。

 言葉はなくても田中の応援が聞こえてくるようだった。

 力を入れ直し、止まりかけていた足を動かす。

 俺らが向かっているのは、翔吾の祖父が昔に建てたという山小屋。なんでも、その場所から見る花火が絶景なのだという。

 そうしてひたすらに進むこと数分。


「お疲れ様です、楸」


 ふと、鼻孔を花のような甘い匂いがくすぐった。

 ふらつく体を環が支えてくれたのだと気付いた時には、余りにも環が近すぎて、その雪の結晶のように綺麗な顔に意識が飲み込まれしまう。

 疲れているのも忘れて、このままずっと見ていたいと思ってしまった。


「お、着いたか、お疲れさん!」


 快活なその声に引き戻され、我に返る。

 危ない危ない。翔吾の声がもう少し遅かったら、変なことを口走っていたところだった。


「ほらよ」


 翔吾が差しだしたのは、綺麗にカットされた二切れのスイカ。先に着いた翔吾が山小屋にあった道具で用意をしてくれていたのだろう。


「ありがとう」


 息を整えて、二人分のスイカを受け取る。

 環を認識できない翔吾にとって、スイカを渡すことすらままならない。だから面倒ではあるが、こうして一度俺が受け取る必要があった。

 受け取ったスイカをワクワクしている環に渡し、

 ――――空に花が咲いた。

 夜空に散りばめられた星と、星のように明るく咲き誇る花火。その下には田ノ上町が一望でき、全てが合わさって瞳に映るその光景は、ああとても陳腐ではあるが――綺麗だ、とそれ以外の言葉が浮かばなかった。


「綺麗ですね」


 環の言葉に、ただただ無言で頷く。

 環や「たーまやー」などと騒いでいる翔吾たちは、これを毎年見ているのだろう。けれど、この綺麗で幻想的にも感じる光景を初めて目にした俺は、言葉を失って無我夢中で見入っていることしかできなかった。


「ふふふ」


 楽しそうな笑い声に反応して、視線が移る。そこにはまるで微笑ましいものを見たような、柔らかい笑みを浮かべる環の顔があった。

 宝石のような環の双眸が、俺を見つめる。


「なんだよ?」

「まるで子供みたいだったので」


 まるで俺の方が田舎者扱いされているような感じがして、少し気恥しくなる。


「それはそうと、その……楸」

「ん?」

「おかわりが欲しいです」


 スッと、皮だけになったスイカが差し出される。

 いつの間に食べたのだろうか。恐ろしく速すぎて、見逃してしまった。というか、この速度を見切れる人類はいないだろう。流石は食いしん坊神である。


「む、今失礼なことを考えましたね」


 この鋭さも、神の力によるものなのだろうか……。


「気のせいだ。……ほら」


 一口も食べていない自分のスイカを差し出す。


「おや、いいんですか?」

「いいよ。俺はもう、さっきの食べ歩きで腹いっぱいだから」


 本当はまだ食べられるが、祭りの序盤に環と一緒に沢山食べ歩いたので、もう何も食わなくてもいいと思っているのも本当だ。


「そうですか、では遠慮なく。ありがとうございます♪」


 本当に、いつ見ても食い意地が張っている土地神様だと、少し呆れてしまう。

 ドカン! と、ひときわ大きな花火が咲いた。

 再び視線がそちらに引き戻される。

 赤、白、黄色。同じはずなのに、東京の家の自分の部屋から見ていた花火と、だいぶ違うように感じた。

 なんでだろうと考えそうになって、思考を止めた。きっと何が違っているかなど、どうでもいいのだ。

 大事なのは、俺がこの光景を好きになったということ。

 もしかしたら人生で初めてと言えるかもしれない友人たちと、神様らしくない神様の少女。

 皆で見たこの景色を、俺は絶対に忘れることはないだろうと、そう思えた。



 打ち上げ花火の終了と共に、祭りも終わりを告げる。帰り道、環と一緒に石段をゆっくりと上る。

 神社に近づくにつれて人の気配は少なくなり、神社の大鳥居が見えるころには完全になくなっていた。


「今年も楽しかったですね。やっぱりお祭りはいいものです」

「俺は初めてかな。こんなに楽しいと思ったのは」

「おや、そうなのですか?」


 少し驚いたように、隣を歩いていた環が顔を覗き込んでくる。


「俺のこの体質で、な」

「……ああ」


 納得したように、環が頷いた。

 隣人体質。見えないものが見える人間を、昔の人はそう呼んでいたらしい。

 隣人であった俺は、物心ついたときから色々な問題を起こしていた。

 普通の人間であった両親は、御霊みたま(隣人にしか見えない不思議生物をそう呼ぶらしい)など知っているはずもなく、俺が何かの病気かと思い、よく病院に連れて行かれた。

 しかし原因など見つかるはずもなく、俺は虚言癖、あるいは幻覚が見えてしまう精神疾患の子供という扱いをされることになる。

 小学校ではそれが原因で虐められて、噓つきと呼ばれた。

 それが悔しくて、見返そうとして、そして俺の感情に反応した御霊が暴走して……気づけばその子は腕から血を流していた。

 何があったのか、何をしたのか、誰も理解できないその現象に、俺は虐めの対象から気味の悪い子供にレベルアップ。虐めはなくなったが、誰から干渉されることもなくなった。

 それから、自分は普通とは違うことを段々と自覚し始めて、それを隠すために他人と関わるのを避けるようになった。


「でも」


 優しい声が、風に乗って聞こえる


「でも、今日で楽しいと思ってくれたなら、私はそれを自分のことのように嬉しく思います」


 当たり前のように紡がれたその言葉が、どこまでも優しい彼女を象徴しているように感じた。


「ありが……わぷっ」


 感謝を伝えたくなって口を開いたとき、木陰から何かが飛び出し顔に張り付いた。

 慌てて張り付いた何かをはがしてみれば、それは白く丸いデフォルメされた兎のような御霊だった。


「大福?」


 文字通りの大福、ではなく。それは、俺が大福と呼んでいる御霊。

 夏休みの始めにこの御霊と出会い、そしてなぜだか懐かれたのである。

 環には俺のペットのような認識を持たれている。

 ちなみに、名前の由来は大福のように白く丸いからだ。


「おや、大福ちゃん。そう言えば今日は姿を見ていませんでしたね」

「確かに……」


 大福はこの夏休みの間、ほとんど俺に引っ付いていた。

 どこへ行こうとも、家にいようとも常に一緒で、俺の何をそんなに気に入ったのか知らないが、滅多に離れようとはしなかったのだ。

 それが今日、朝に一度姿を見せただけで、後はどっかに出かけたまま今の今まで姿を見せなかった。

 もしかしたら、大福は大福なりに空気を呼んだのかもしれない。だとすれば、グッジョブと褒めるほかない。


「到着しましたあ。付き添いありがとうございます、楸」


 片付けの終わっていない屋台が残る境内を進み、奥にある一軒の家に着く。ここが環の住んでいる場所だった。

 前は直接神社に住んでいたと言っていたが、今はこの家が自分の帰るべき場所なのだと、彼女は嬉しそうに笑っていた。


「ああ、じゃあおやすみ」

「はい、おやすみなさい」


 別れをすませ俺も帰ろうとしたとき、まるでどこかの黄色い電気ネズミのように肩に乗っていた大福が、頬を軽く叩いてきた。


「なんだ、どうした。あ、おい大福」


 肩から突然大福が飛び降りて、少し進んだところで立ち止まる。

 何事かと思ったとき、月明かりに紛れて白い三本足のカラスが現れる。

 そのカラスには見覚えがあった。まだこの町に来て数日たったぐらいの頃に、俺と環を引き合わせたカラスの御霊だ。

 カラスは俺を一瞥すると、まるでついてこいと言わんばかりに飛んで行く。

 なんとなくついていった方がいいと感じた俺は、大福と一緒にカラスの飛んで行った方へ歩き出した。




 カラスが止まったのは、境内の社務所にある縁側。

 白い月明かりが、カラスの近くにいた人物を照らし出す。


琴菊ことぎくさん?」


 そこにいたのは、重病で布団から起き上がれないはずの人物だった。

 田上たのかみ琴菊。楽神神社最後の女宮司で、俺と同じ隣人の老婆。


「こんばんは、楸くん」


 年老いても衰えることのない嫋やかさをまとう微笑みは、重病人とは思えないほどに、美しいと思った。


「こんばんは。あの、大丈夫なんですか?」


 元気そうに見えても、琴菊さんが重病人であることには変わりない。

 普段は体を起こすこともできないほどに弱っているのに、こうして家から離れた場所にいれば心配にもなってしまう。

 環の唯一の家族と言ってもいい人なのだ。あまり無理をしないでほしい。


「大丈夫かどうかで言ったら、大丈夫ではないのでしょうけど」

「なら」

「けど、今日は調子がいいの。だからあまり心配しないで。それにそうでなくても、あなたと話したかったの」

「それはいいんですけど……今頃、琴菊さん消えたって環が騒いでますよ」

「それも問題ないわ。布団に枕を敷き詰めてきたの、はたから見たら寝ているようにしか見えないわ」


 一体どこからそんなことを覚えてくるのだろうか……。

 今からでも環を呼んだ方が、と考えたが本人がこう言う以上、他人の俺が何を言っても余計なお世話にしかならないだろう。


「……そうですか」

「優しいのね」


 納得していないのが顔に出てしまったのか、琴菊さんがふっと笑った。


「それでその、話って」


 琴菊さんの柔らかなその表情が、環が子ども扱いしてくるときの表情に似ていて、少し気恥ずかしくて、話を進めた。


「あなたに聞きたいの。自分のことが嫌いになっていない? 生きるのがつらく感じていたりしない?」


 質問の意図が分からない。どういうことかと聞き返そうとして、俺が口を開くよりも先に琴菊さん続けた。


「私とは違って苦労をしてきたあなただから、聞いてみたくなったの」


 その言葉でピンとくる。


「“隣人体質”のことですか?」


 そう言うと、琴菊さんは静かに頷いた。。


「そうですね……」


 何と答えたものだろう。

 確かに周りとは違うこの体質のせいで色々と苦労してきた。

 どこまでも異常者扱いする周囲と、俺を精神疾患だと思っている両親。

 小学校の時は虐められ、挙句に問題を起こした。

 中学の時は嫌でも見えてしまう御霊のせいで、幽霊が見えているとか言われ、あることないこと様々な噂を立てられた。

 その内の何個かは、あながち間違っていないのが余計に腹立たしい。……けど、それだけじゃない。


「死にたいって、思ってました」


 俺の言葉を聞いて、「そう」と琴菊さんの顔が悲しみを帯びる。

 昔は、確かに嫌なことばかりだった。

 何を言っても信じてもらえなくて、両親でさえ苦笑いでそれは夢だと、ほんとは存在しないものなんだと、優しく否定してくる。

 段々とおかしいのは自分なんだと思い始めて、自分は壊れているのだと錯覚していって、何を言っても信じてもらえず肯定されない毎日。


「外に出るのが嫌になって、家でふさぎ込んで。生きてる意味あるのかとか、そもそも俺は本当に生きてるのかとか、訳分かんなくなって。……死にたい。というかみんな死ね、とか本気で思ってた時期もありました」


 こうして改めて口に出してみると、我ながら酷い時期があったものだ。


「けど、昔の話です」


 あの暗黒期とも言える時間を過ごして、今では隣人であることに折り合いをつけられるようになった。


「なら、今はどうなの?」


 今の話を聞いたなら、当然出てくるであろう質問。俺も聞かれるかもなとは思っていたが、それに対する答えなんてものは用意していなかった。


「……分かんないです」


 数秒考えて出た言葉が、それだった。


「あら、それはなんで?」


 琴菊さんが首を少し傾げる。疑問を感じると首を傾げる癖は環と同じだな、なんてことを考えながら、思っていることを口に出す。


「えっと、その……何もかもが初めての経験で、分からないことだらけで。今だって何がどうなっているのか、自分でもまだ分かんないんです。けど、嫌じゃなくて。むしろ楽しくて」


 上手く言葉がまとまらない。

 言葉を重ねれば重ねるほど、自分でも何を伝えたいのかが分からなくなってくる。おかしい、俺は別にコミュ障って訳ではないのに。


「つまり、何が言いたいかというと」


 頭を悩ませうなっていると、楽しそうな笑い声が聞えてくる。


「ふふふふ、それってつまり、今が幸せだということでしょう?」


 スッと腑に落ちた。

 言い難い自分の気持ちや、経験したことのない温かさ。そういったものをどう言葉にすればいいのか分からなかったがそうか、これが幸せというやつなのか。


「いい顔をするようになって、安心したわ」


 琴菊さんに言われて、無意識に笑っていることに気が付いた。


「そう。そんな顔ができるなら、心配はいらないわね」

「何かあったんですか」


 何か、心配をかけてしまうようなことをしてしまったのだろうか。

 逆に不安になり、訪ねてみる。

 すると、琴菊さんは少し考える素振りをする。


「言うのもどうかと思ったのだけれど、そうね」


 迷ったのは数秒にも満たない時間。何を言うのかは分からないが、いつにも増して真剣な空気を感じ取り、黙って聞くことにした。


「私がいなくなった後のことが心配になったの」


 いなくなった後。つまり琴菊さんが死んだ後のことだろう。


「時代が進むにつれて隣人は数を減らし、今ではその存在すら忘れられた。この町にいる隣人は、あなたと私の二人だけ。もしかしたら、世界にもう私たちだけなのかもしれない」


 昔は、多いとは言えなくてもそれなりの数が存在したと、環は言っていた。

 しかし文明が進んで科学が発展し、あらゆる現象を人は理解できるようになってしまった。それ故に神秘という概念が薄れ、人は神の存在を否定し始めた。

 先に神が、次に妖怪が姿を消し、やがて御霊もそうなってしまうかもしれないと、環の言葉が頭を過る。

 もしかしたら、御霊よりも先に隣人という神秘の証人がいなくなるかもしれない。その可能性だって、ゼロではないのだ。


「私たちがいなくなれば、あなたは一人になってしまうと、そう考えてしまったの」


 私ではなく、“私たち”。琴菊さんが死ぬということは、環にかけられた延命措置の術が解かれるということ。

 そうなれば環の消滅が早まる。下手すれば、術が解けて一週間ほどで環はいなくなると、琴菊さんは言った。そして、消滅自体を止める手立ては存在しない。

 自分と同じ隣人の琴菊さんが死ぬ。そう思ったら悲しくなった。

 けれどそれ以上に、環がいなくなってしまうと考えたとき、体がバラバラになって弾けてしまいそうなほどに、痛くなった。

 もしそのときが来たら……想像しそうになって、


「ふぐぅ!」


 腹部に強い衝撃が奔る。


「まあ」


 真剣な空気を霧散させて、琴菊さんが驚く。

 俺はひざを折り何事かと視線を上げると、飛んでいるカブトムシを追いかけ回す大福が見えた。

 カブトムシを捕まえようとして、俺にダイブしてきたのか。


「お前なあ」


 腹を抑え大福を睨むが、当の本人はキュッ? と可愛らしく鳴くだけだった。


「ふふ、聞いていた通り仲がいいのね」


 今の何をみてそう思ったのか、口元を抑え笑う琴菊さん。

 パンと手を叩き、場の空気を入れ替える。


「さて、もういい時間だわ。長く引き止めちゃってごめんなさいね」


 ポケットのスマホを取り出し時間を確認すると、もう九時を回っていた。


「大福」


 もはやペット同然の御霊を呼ぶ。

 大福は俺の声が聞こえると、カブトムシを追うのをピタリと止め、足元に駆け寄ってくる。


「じゃあ、気を付けてお帰りなさい。おやすみなさい、楸くん」

「あ、はい」


 三歩歩いて、俺は足を止める。

 これだけは言っておきたいと思って俺は振り返り、


「琴菊さん、俺はきっと後悔をしません。アナタと会ったこと、環と出会ったこと、全部、全部。だから――俺は大丈夫です」


 琴菊さんは一瞬だけ目を見開いて、静かに笑った。

 俺は再び背を向けて歩き出す。

 いつか別れがくるのは理解している。

 その日が来た時、俺は泣くのか、笑って見送るのか、それともまったく別の反応をするのか。それは分からないが、けれどこの出会いを後悔することだけはしないと自分に言い聞かせる。

 だってこんなにも幸せなのだから、後悔なんてしちゃい駄目だ。

 だから何があってもちゃんと受け止めようと、そう覚悟を決めた。

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