ドロップ・イット

@qwegat

本文

 今度は、ヘッドホンの音量を少し下げてみることにした。

 イヤーパッドの内側で続く饗宴の影が少しすぼまって、全ての圧が薄まっていく。なきさけぶリード、うごめくベース、ひかえめにゆれるコードパッド。低い音から高い音まで、一様に群れが縮小し、僕の両耳に余裕を持たせる。

 さらに、一時停止のボタンを押す。

 イヤーパッドの中身が、急に消える。ぶつりと。いや、ぶつりという効果音すらなく。リードもベースもコードパッドも、ついでに言えばドラムやギターも、一秒前まで予想していた未来を切り取られて、僕の自室のコンピュータの上に開かれた、ありふれた音声プレイヤーによる延滞を受ける。

 音声プレイヤーの再生バーをクリックして、全体で見て十パーセントくらいの位置にあったハンドルを、ぐいっと左の端まで戻す。そのままマウスポインタを泳がせて、一時停止から再生へと役割を変えた、例のボタンをもう一度押す。

 そして、音楽が復活を遂げる。

 両の瞼を瞑った僕の脳裏に響くようにして、リードがベースがコードパッドが、ついでに言えばドラムやギターが、イントロからやり直す形で再び音像を広げはじめる。メロディが響き――リズムが刻まれる。ツーステップのフューチャー・ベース。賑やかながら忙しすぎない、広々と響く電子音の群像。机に置いた右手の人差し指が、バスドラムに合わせて天板を叩き始める。とん、とん、とん。とん、とと、とん。心地よい感触が耳を包む。

 そして――言及していなかった要素が、一つ。

『とん、たた、とん、た、とん、たたたん、とん』

 ボーカルチョップだ。

 ちょっとしたオートパンをかけられて左右にかすかに揺れ動くそれは、中音域の高めで鳴るように加工された、すごく楽しげな女性の声。それも、とびきり可憐なやつ。今回の場合、女性が『とん』と呟いている音声と『たん』と呟いている音声、二つのサンプルをそれぞれ用意したうえで……例えば『たん』から『た』だけを抜き出したり、『とん』の『ん』を逆再生して置いたりして、この口ずさむようなリズムを表現しているということになる。はずだ。断言はできない。

 この曲は、僕が作ったものではないから。

『とんとと、たんた、とん――』

 再生バーが進行を続けて、曲の展開も変化していく。さっきまで鳴っていなかった和音が聞こえて、合いの手のストリングスが弦鳴を響かせる。ボーカルチョップも同様に――変わる。いったんそこまで鳴っていたパターンが途切れ、一、二拍ほど置いた後、改めて快活な言葉がひとつ。

『――いぇい!』

 そうだ、このサンプルには思い出がある。


▽▽▽


 サンプルパックづくりは、僕のほうから持ち掛けた。

「どうして私なの?」

 第三教科準備室に差し込んだ、焔のような夕日の中。焼け跡のような橙の影でその身にまとった制服を覆って、アサクラは僕にそう訊いた。

 夕焼けと同じ色の光沢を帯びた、彼女の双眸。疑問だとか警戒だとか困惑だとか、いろんな感情が少しずつ混ざった虹彩の中で、眼球に沿って歪んだ僕の立像が、これ見よがしに腕を組む。……悩んでいるのだ。「あなたの声が好きだから」と直接的に伝えてしまうのは、流石にちょっと良くない。

「……向いてると思ったから、かな」

 それを聞いたアサクラの重めのまばたきで、瞳の中の僕が一瞬隠れ、また現れる。ここから更に「具体的にはどこが向いてるの?」みたいに聞かれたらどうするべきか、迷いを巡らせている表情。しかし杞憂は外れたようで、

「そう」

 彼女は控えめに言葉を落として、その目を伏せるだけだった。

 その呟きの残響が、僕の聴覚を漂っている。

 アサクラはクラスで僕の前の席に座る、何かと控えめな短髪の女子高校生だ。どちらかと言えば内向的なタイプのようで、休み時間にクラスメイト達が産む巨大な喧騒の波にも乗らず、一人座って黙々と、カバーで表紙が隠された謎の文庫本とかを読んでいる。僕自身彼女とはほとんど関わった記憶がないから、警戒されるのも無理はないだろう。

 しかし、とにかく声が良いのだ。

「工程を説明するよ」

 一本立てた左の人差し指が、準備室に並ぶたくさんの学校机たちの上に、すごくとんがった影を落としている。

「さっき見せたように、私物のマイクとサンプラーを持ってきてある」

 アサクラの視線が少し動くのが分かる。マイクとサンプラーは僕たちが対峙するすぐ隣の机に置いてあるから、たぶんそこに目をやったのだろう。

「空いてる日の放課後になったら……こういう人がいなくて静かな空間に集まって、二つの道具で君の声を録音するんだ。喋って欲しいセリフはこっちで指定するから、だいたい……一日に五個くらいかな? うん、五個ずつ録ろう。五個録り終えたら解散して、僕が親戚に音声データを送る。そしたら向こうが「次に録って欲しいセリフ一覧」を送ってきてくれるから、次の回ではそれを録る。で、繰り返し」

 『親戚』というのはとある楽曲製作者コンポーザーのことだ。特定の業界でなかなかの人気を誇るクリエイターで、ざっくり電子音楽をよく作る。

「親戚が「これ以上セリフは必要ないな」と判断したら――まあたぶん、八十個くらい録ればそうなるかな。そしたら、僕らのやることは終わりだ。あとは親戚が音声データにノイズ除去処理とかをしたうえで、まとめて『カワイイ・ボーカルサンプルズ・ワン』的な名前でストアに出す」

 有名なコンポーザーは時として、サンプルパックというものを作る。これは簡単に言うと音声波形ファイルの詰め合わせで、他のコンポーザーが楽曲を作る時に流用するのが前提としたものだ。例えばドラムのサンプルパックなら、キック、スネア、ハイハットあたりのサンプルがそれぞれ何種類か入っていて、ダウンロードして並べるだけで、自分で音作りをする手間をかけずに、ドラムパートを完成させられるというわけだ。

 そして――声のサンプルパックも、当然ある。

「あとはさっき言った通り。サンプルパックの売り上げのうち、八割が君の懐に入る」

 今回作るのはセリフの詰め合わせだからメインボーカルになるかは怪しいけど、質のいい少女の掛け声が八十種類もあれば、用途はいくらでも考えられる。合いの手にするもよし、音程をつけてシンセサイザーもどきにするもよしだ。

「代わりに……そのパックを買った人に、私の声を好きに使わせる権利が行く。だったよね」

 改めて確認をする、アサクラのしっとりとした声。

「うん。そこが一番のネックなんだけど……」

「問題ないよ」

 彼女は顔に微笑を浮かべて、半分割り込むような恰好で、未来で発されるはずだった僕のセリフを、自分の声で上書きした。その響きが本当に透き通るようで、僕は少々面食らいすらした。

「じゃあ、とりあえず最初のセリフを録ってみようか」

 机の方に手を伸ばし、硬い感触。マイクをつかんだ。あまり高級なものではないけど、ボーカルチョップ用の声を録るには十分だ。サンプラーと繋がったケーブルをだらしなく伸ばしながら、マイクがアサクラの手へと渡る。

「まずは――」

 喋って欲しいセリフについて説明もしておく。セリフそのものの内容と、親戚からの注文についても。先方の話では――楽しそうに喋るのを想定しているけど、棒読みでもそれはそれであり、とのこと。それはきっと、彼女の陽気とは言い難い性格を踏まえたフォローでもあったのだろう。しかし果たしてアサクラは、半開きの瞳で僕を見て、

「わかった」

 そう言って、僕がサンプラーのボタンを押すのを待ったあと――まったく、驚くべきことに。普段の彼女の姿からは想像もつかないほどに、元気で、快活で、明るくて、楽し気な声色で。マイクにひとこと、吹き込んだ。


△△△


『――いぇい!』

 ……ここ、同じサンプルを連打しているんだな。悪くないや。

 僕が先ほどから繰り返し聞いているこのデモソングは、サンプルパックを紹介するために親戚が書き下ろしたものだ。アサクラの声を散りばめたそれははっきり言って相当魅力的で、彼の技術に感心するほかない。

 最終的に僕たちは当初の想定より少し多くの仕事をして、声のサンプルを九十個と少し録った。デモソングの中でそのすべてを使っているかはわからないけれど、聞いた感じ、かなりの量を散りばめているのは間違いない。フェイザーエフェクトをかけられた効果音が左右に広がる裏で、『ふわぁ』と『えいっ』が交互に流れ、『すごい!』の『す』の部分を切り取ったらしき歯擦音がハイハット代わりに連打され、ビートを織りなす一部に加わる。

『――ふふふっ』

 という笑い声も、思い出深いサンプルの一つだ。


▽▽▽


 アサクラの頬には涙の痕があった。

 確か、三十個くらいサンプルを録ってからの出来事だった。単純に考えれば六日間だけど、実際は双方の予定が会う日にしか録音作業はしなかったし、そもそも土日の学校は休みだ。最初の録音からは三週間近い時間が経っており、その過程で僕たちはある程度親睦を深めていた。気がしていた。

 でも実際のところ――いつも通りの夕焼けの中で、アサクラの顔の眼窩のあたりから、仄白い肌に描き下ろされた二本の濃度差の線について、僕は、まったく、心当たりが、なかった。

「……どうしたの? 録音は?」

 と問いかける声色にも、普段の落ち着きとはまた別の種類のかげが感じられて、けれどもやっぱりどうしようもなく、その声質は可憐だった。

「あ、ああ……うん」

 二つ返事を返し、鞄を開いてマイクを漁る。指先が触れた瞬間に訪れた、ひんやりとして硬い感触がなんだか恐ろしかった。

 ……アサクラに、この痕について尋ねるべきだろうか?

 僕は道具を机に置きながら、頭の中では逡巡していた。

 アサクラと自分の距離が縮まったかのように思いもしたけど、やっぱり僕たちは相当に他人のままだ。結局……いや、それはどうでもいい。問題は、明らかに涙を流してからそう時間を経ていないらしき彼女に、親戚が発注してきた『笑い声』のサンプルを録らせて大丈夫なのかということだ。

 でも……その懸念を本人に伝えて、いいのだろうか。

 僕は夕陽と沈黙の中に溶け込んだ言葉にされない圧を感じていて、具体的な言明に至る勇気が出なかった。自然と視線が下に向く。窓際にかかった薄いカーテンが半透明の影を僕の上履きに落としていて、輪郭線の揺らめきがなんだか鬱陶しかった。

「ほら、始めよう?」

 その傍らでアサクラはとっくに、すっかり慣れた手つきでマイクを握り、口元に構えていた。その声にもやっぱり哀しみが見え隠れしているような気がしてならなかったのだけれど、「どうしたの」のただ一言が出ないまま、僕は黙って頷いて、サンプラーのボタンを指で叩いた。

 アサクラの喉から、翳りひとつ感じられない楽しげな調子で――。


△△△


『――ふふふっ』

 ああ、楽しそうだ。

 鳴り始めているライザーの高揚感あふれる高周波の横で、盛り上げどころが始まった。アサクラのいろんなセリフがボタンをめちゃくちゃに押したみたいに連発される。午後五時に録った『おはよう!』。一発目に録った『つかれちゃったあ』。諸般の事情で『すりー』だけ後から録りなおしになった、『わん、つー、すりー、ふぉー』。カットアップされた言葉たちが背後の文脈をぶっちぎって、純然たる発音の塊としてだけそこに生える。

 僕と親戚のやり取りは、音声波形データの送信と、「イイネ!」だの「エグ!」だのの鳴き声の返信と、次に録って欲しいセリフリストの送付……あとはごくまれにダメ出しが入る、それくらいだった。だから親戚本人も含め、このサンプルパックを受け取るあらゆる人物は――アサクラの発した声を、ただ声としてだけ受け止める。 この『ふふふっ』はとんでもなく可憐だから、サンプルパックの購入者たちはきっと多用するだろう。その裏側に刻み込まれて治らない涙の痕に気づきもしないまま、あらゆる愉快な場面で使うのだろう。真実を知るのは僕だけだ。

 いや……それが真実かも、きっと怪しい。

 あの日の涙の痕だって、また別の感情を隠して録られた、一つのサンプルであるかもしれないから。

 ライザーが鳴りやんでビルドアップパートの終了を告げ、少しの無音。リバーブで強調されたアサクラの声が、これでもかと響く。

『――どろっぷ・いっと!』

 そうだ、この声は。


▽▽▽


 その日、アサクラの雰囲気はなんだか変だった。

 なんだか変、という程度の解像度しか、僕の瞳は備えていなかったのだ。

 季節の遷移の影響で、夕焼けの焦げ具合は前と異なっていて、光の差し込みかたも傾きを変えていた。アサクラの立ち姿の影も同様に、最初に『いぇい!』を録音したときから、濃度を少々変化させていた。

 これで最後だ――というのが、親戚の話だった。今回指定された『どろっぷ・いっと!』を録り終えれば、サンプルパックに必要なすべてのセリフは揃ったことになると。僕たちはパックを完成させて、彼が並行で制作中だというデモソングを添えつつストアに置いて、声を対価に収入を得る。チャットで伝えられた予想額は、高校生の視点ではかなりのものに思えた。……まあ、受け取るのは僕じゃないんだけど。

「……」

 ただ……最後の録音の日であるというのに。いや、むしろ最後の録音の日だろうか? アサクラの瞳のするどさが、口角のかたちが、たたずまいがどこか違っていた。いつか見せた悲哀の片鱗ともまた違うなにかが、その体躯の裏側にためこまれているような感じがした。

 いつかの涙に言及できなかった記憶が僕の心に後悔の池を作っていて、だから今回は口を開いた。

「ね、ねえ――アサクラ」

「なに?」

 返す彼女の視線は宇宙のように冷たかった。

 今までに録ったどんなチョップより、胸に鋭く突き刺さる感じがした。僕は思わず「なに?」という問いをそのまま自分に向けてしまって、結論は、なんでもなかった。どうしてそんな雰囲気を纏っているのか聞く勇気など当然なくて、僕は何も言うことなんて持っていないのに、なんとなく関係性という細糸に縋りついていたくて、声を絞り出したに過ぎなかったのだ。

「いや……。録ろうか、最後のセリフを」

「そうだね」

 アサクラが持ち上げたマイクの影も、やはり濃度を最初とは変えていた。

 時間が進んでいってしまう。

 アサクラの小ぶりな唇が、いつもとまるで変らぬ調子で開かれた。


△△△


『――どろっぷ・いっと!』

 大変楽しそうな掛け声と同時に、ドロップが始まる。歌ものの音楽で言うサビの部分。インパクト系の効果音に続いて奏でられる、楽曲中の山場。「わあい!」あたりの波形をソフトウェア・サンプラーに登録するか何かして作ったと思われる、音程付きのボーカルリードも添えられている。

 あれからアサクラとは会っていない。

 なきさけぶリード、うごめくベース、ひかえめにゆれるコードパッド。音たちがまとめて、自分の存在を主張して――そして、画面の中。再生バーがついに右端まで達する。楽曲の最後がやってくる。音数を大きく減らしてかなり単純な旋律が奏でられ、それがアウトロの役割になる。

「……ここ、だよな」

 僕は何度目かもわからない確認、もしくはただの自問自答をする。

 僕のコンピュータが開いているのは、音声プレイヤーのウィンドウだけではない。僕がもっぱら親戚との連絡に使っていたチャットツールも、画面の一部を占めているのだ。

 親戚からのメッセージはこう言っている。デモソングを作る工程で、重要なセリフを一つ忘れていたことに気付いたと。曲の指定した部分にそのセリフを入れることでサンプルパックという道具は初めて完成したと言えるけれど、何せさっきまで忘れていたから、当然録音もしていない。だから、録って欲しいという。

 僕としても、そうしたい。

 僕はアサクラというサンプルパックのことを何も知らない。知っているのは内向的な性格だの涙の痕だの声の良さだの、表面的なサンプルで――その裏に何が潜んでいるのか、全然わかっていないのだ。そのままで終わりたくなかった。このままストアに並ぶパックの裏側に、アサクラがまったく吐き捨てている感じのしない声色で吐き捨てた、『どろっぷ・いっと!』という爽快な言葉の裏側に、僕と彼女の縁を切るに至った何かが、張り付いたままなのが嫌だった。

 親戚が必要だという『ふぃにっしゅ!』のサンプル。その背景に、俯きの伴わない夕焼けを浮かべたかった。

 なら――腹をくくらないといけない。

 音声プレイヤーの自動リピート機能によってもう一度イントロからのやり直しが始まっていたけれど、僕はそれを無視し、頭からヘッドホンを外した。イヤーパッドの裏だけの閉塞的な世界が聴覚から立ち去って、可憐でもなんでもないただの環境音が、ただ僕を包んだ。

 携帯端末を左手に持つ。電話発信のための準備をする。

 窓の外からのぞく夕日は、準備室のそれとまるで同じ色をしていた。

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