【短編】if

Imbécile アンベシル

 鏡の前で頬にカミソリを滑らせているとき。

 膝の上の猫を撫でているとき。

 静謐な教室に、黒鉛が紙と擦れる音だけが響いているとき。


 もしこの喉笛にあてがい横に引いたら。

 もしこの細い首を絞めてみたら。

 もしこの椅子を投げ出し喚き散らしたら。


 打ち覆いの下にある青白い顔を見てしまう前に、あの時、なんでもない届け物をした夜になにか話せていたら。


 一体僕は、相手は、周りの人は。どんなふうに、なにで内が満たされるのだろうか。


 誰にだってあると思っている。こんな素朴で、無邪気な子供の頭にばかり浮かんでくるような疑問が。そしてそれはほとんどの場合、実現するつもりのないこと。

 だからこそしょっちゅうなのだ。人は真の意味での無思考はできないと思っているから、そこの隙間に入り込んでくるのがこういう取り留めのない事柄だと考えるしかない。

 僕は殺人者の素質があるわけでも、行動力がある質でもない。人並みに、小さな事で「ああしておけばよかったな」と後悔するどこにでもいる人間。そして、心配性が転じた疑問や確認作業が人一倍多い人間。


 言い換えれば怠惰だ。勉学も適当、人付き合いもまちまち。得る趣味得る趣味飽きっぽさが災いして長く続かない。実行する体力がどこを探しても見当たらない。

 時折、迷惑をかけているだろうか、といった具合にネガティブに沈むこともあるが、たいていは開き直ることで代謝している。

 それでも、流しきれると思っていたことでも、澱になったまま消えない後悔がある。


 母方の祖父が亡くなった。癌だった。闘病中なのは知っていたが、自分事ではないのだから、やはり顔を出すことは時偶で。心のどこかで「まあ、大丈夫か」と考えていたのだろう。

 あんなに泣いている母を見たのは初めてだった。涙を流すまいと裾を握り締めても、沸き上がってくる感情がそれを許さない。

 それからだった。身近な人間の死についてが、浮かんでくる疑問の主題となっていってしまったのは。


 しかし、大した努力もしていない。人に誇れるような肩書きも、地位もない。ただやんわりと楽しく生きていられればそれで。それ以上の事を求めても、疲れてしまうだけだと。

 一ヶ月も経った頃には、感傷に浸る時間もなくなっていった。

 しかし、誰かが命を落としたニュースを目にする度、同情に似た傍観者の思考が駆け巡る。


 残された家族は。友人は。

 なにを想い、どう悲しみ、背負って生きていくのだろうか。僕も背負った一人。時が重荷を軽くしていく、そんなことはありえないと思っていたのに、嫌気が差した。


 もし、洗剤を届けに行ったあの夜。痩せ細りベッドに横たわる祖父ともっと話していれば、余命の足しになったのだろうか。

 今となっては意味のない、実現する可能性がゼロへと至った疑問だ。

 僕が死んだら、母は悲しんでくれるだろうか。片時も忘れずに悼んでくれるだろうか。当たり前だ。これまで注がれてきた愛を、知らないだなんて言えない。

 親の気を引きたい子供のそれだとしても、僕にはそれを確かめたい思いがあった。重い病気になったり、怪我をして死にかけたら、とか。


 気だるい平日の朝に考えることなんてそんなものだ。なんでもない通勤ルート。距離が近いので徒歩。曇天の下、漠然とした吐き気をこらえながら職場に向かっていく。

 その時だった。チャンスだと思ったのは。淡い水色のランドセルを背負った小学生が横断歩道の上にいるというのに、フラフラと危うい軌道で迫るトラック。

 漫画みたいなシチュエーション。こんなことが起こり得るんだという意外さ、興味と、あるはずのない正義感に駆られた身体は、瞬間、力の限りその華奢な肩を突き飛ばしていた。


 呆気に取られた表情。ぐにゃりと歪みスローになっていく視界。手遅れのクラクション。

 ああ、こんな感じなんだ。死ぬのって。母の笑みが頭に浮かんでも、間に合わせる涙が、合わせる顔がない。


 軽率な自己犠牲に走ってしまったとき。

 全てを顧みず投げ出してしまったとき。

 危機が目の前で見ず知らずの子供に降りかかったとき。


 もし、僕が死んだら。

 もし、それを受け入れたら。

 もし、助け出すことができたなら。


 一体僕は、相手は、周りの人は。どんなふうに、なにで内が満たされるのだろうか。


 知れなくとも、実現できたじゃないか。

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【短編】if Imbécile アンベシル @Gloomy-Manther

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