ビイドロの猫

薮 透子

ビイドロの猫

 ランドセルに付けた鈴が衝撃に揺れて大きく音を立てるのと同じように、それが自らの存在を知らしめるために声を発するのは、誰かに常とは異なることを知らせるためのツールなのかもしれない。


 クマ避けのためにと母がつけてくれたキャラクターものの鈴は、ランドセルに擦れて額と体の塗装が剥げてしまっている。揺れる鈴の軌道を残すようにランドセルには銀色の線で弧が描かれ、どれだけ擦っても消えてはくれなくなった。


 鈴の音に耳を澄ませながら今日もランドセルに銀色を濃く擦り付けている様を想像している中、聞き慣れない声に足を止める。家を囲うように設置されたフェンスの隙間から我が家を覗けば、いつものように母の姿が見えるはずだ。


 それはなんらいつもと変わりなかった。同時に、母の足元に見えた見慣れないゲージは、いつも通りなんていう言葉では片づけられない、諸行無常のひとかけらだった。果たしてここは自分の家だっただろうか、表札に目を向ければ、何度も口にしてきた苗字が当たり前のようにそこにいる。ずっと見続けていると発生するゲシュタルト崩壊も今は現れてくれず、ここが昨日までと変わらない遥加の帰るべき家なのだと教えてくれた。その優しさが今は冷淡で、感情を読み取れない機械のように思えてしまう。無機物は無情であることが正しいのに、その事実がやけに現実味を帯びていて、遥加自身が異質であると告げているようで、居心地の悪さが体を走った。

 だからどうしても、目の前にある玄関の扉を開けようと思えなかったのだ。


 ランドセルを背負って歩いてきた道はそれほど長くはないが、春過ぎの気温とは思えないほど暖かい気温の中では、長袖だと汗が滲んでくる。それを癒すために少し風を浴びてから中に入ろう、というのは半分嘘で半分本当だ。嘘をつくときは多少の真実を含ませると信じやすい、先日のテレビから得た知識を活用できそうな場だったが、開かれた玄関の扉がそれを壊してしまった。


「遥加、おかえりぃ」


 分かりやすく声を上ずらせた母の腕には、小さな生き物が顔を覗かせていた。それの頭を何度も撫で、隙間から覗く淡い色の瞳が遥加をじっと見つめている。


 まるでぬいぐるみのように綺麗な毛並みが風に揺れ、そのしなやかさから細く柔らかいことが見て取れた。丸みを帯びた小さな前足を母の腕に乗せ、身動き一つしない。ぴんと張られた三角形の耳は帆のようで、風を受けるとそれを跳ね返すようにはためいた。遥加を見つめる大きな瞳は、人とは違う、まるで作られた美しいもののようで、背筋を走る何かもそれに怯えていた。


 子猫の前足を掴んだ母は、「おかえりぃ」ともう一度口にしながら、左右に揺らす。嫌な素振り一つも見せない子猫は、されるがままに前足を動かし、その間も微動だにしない表情に、遥加は視線をそらしてしまう。


 薄茶色と白のまだら模様の小さな猫は、母が一目惚れして購入してきたらしい。愛おしそうに子猫の体を何度も撫でる母の指に入り込む短い毛並みは、きらきらと輝いて見えた。薄い色の毛並みは、光が煌めく瞬間に似ている。そんな色に包まれた子猫は、ひどく眩しく見えた。小麦畑に似ている。


「一目見た瞬間、この子を連れて帰りたいって思ったの。この子も私のことを見てて、運命感じちゃった」

 お父さんにはちゃんと言ってあるから、帰ってきたら見せてあげなくちゃ、と声を弾ませる。

「もうすぐ誕生日だから好きなものを買って良いとは言われたけど、まさか子猫を買うとは思ってないかも。あ、お父さんには『誕生日プレゼント買った』とは言ったけど、『猫を買った』とは言ってないの。帰ってきたらビックリするかもね」


 遅れて帰宅した晴也は着替えも荷物もそのままに、真っ先に子猫に飛び付いた。リビングに入るまでの疲れきっていた表情から一変、まるで仮面を付け替えたかのように一瞬で、ぱっと華やいだ。


「可愛いでしょう」

 そう言って子猫を抱えて体を揺らす母。猫を追って目を動かす晴也は、猫じゃらしを追っているようで、さながら猫のようだった。白い歯を覗かせた母は子猫を抱き上げると、「ほうら」と晴也に差し出した。初めての小さな生き物に戸惑う晴也は、猫に触れそうで触れない辺りで指を奇妙に動かし続ける。


 そんな変な動きをしたら驚いてしまうだろうと思っていたが、子猫はじっと晴也を見つめるだけで逃げ惑うことはしなかった。不思議な生き物を見つめている姿は、恐れるものを知らない子供にも似ている。


 丸々とした瞳、横から見るとその様子を確かにビー玉だと言い表せた。ふくりと弧を描く瞳の縁に色はなく透明。まるで向こうを見透かせるのではと思わせる瞳だが、その先に何か形あるものが見えることはなかった。


「ほら、はやくはやく」

 楽しげに頬を緩める母は、猫を晴也に近づける。

「待って、やばい、かわいい」

 間近に迫った子猫をじっと見つめる。互いの鼻先が触れてしまいそうな距離。子猫が身じろぎをした瞬間、猫パンチが飛んでこないかと少しひやりとしたが、だっこをせがむように前足を晴也に伸ばしただけだった。

「だっこしてほしいって」

 猫の言葉を代弁する母は、遂に押し付けるように子猫を晴也に渡した。


 わ、わ、かるい。

 息を吐くような小さな声。子猫の柔らかい毛並みが晴也の呼吸でなびく。両手で簡単に包み込めてしまうほど小さな体は、細くて軽い。にゃあ、と鳴けば母と晴也は歓声のような声をあげて喜んだ。

「今日からうちの子になるのよ」

 返事をするように子猫が鳴いたのを聞いてから、ずっと背負ったままだったランドセルをいつもの場所に置いた。一年生の頃からずっと変わらない、遥加のランドセルの位置。リビングとキッチンを分けるカウンターの下。まだ部屋で一人で勉強をすることの無い遥加にとって、この場所にランドセルを置くのが一番楽だった。


 子猫がやってきた翌日から、遥加のランドセルの定位置にはゲージやキャットフードなど、子猫用の物が積まれるようになった。

「遥加ももう五年生だから、自分の部屋で勉強できるよね」

 帰宅した遥加にそう声をかけた母は、今日もいつもより気分が良さそうだ。今日一日の間に片付けたのであろう、母は満足そうに子猫を撫でている。ご飯の時間ですよ、そう言ってキャットフードを注ぐと、キッチンへと向かった。


 遥加に一言の声かけもなしに埋まってしまったランドセル置き場をじっと見つめる。かりかりとキャットフードを頬張る子猫はちらりと遥加を見上げたあと、にゃあと鳴いた。

「ふふ、遥加におかえりって言ったのよね」

 遥加が見ていたのは、子猫ではなかったのに。母と子猫には、そのように見えてしまったらしい。もう置くことのできないランドセル、遥加は重たいそれを背負って二階へ上がった。ぎしぎしと音を立てる階段。その音の向こうで子猫の鳴き声が聞こえたから、思わず階段を上る足に力が入ってしまった。

 あら、もう全部食べたの。えらいねぇ。

 階下から甘やかす声が聞こえてきたので、その日は晩御飯まで部屋から出なかった。一人で過ごすのが寂しいからと使うことの無かった部屋は、春の日差しでほどよく温まっている。


 それから家族は、増えた家族に夢中になった。食事中もテレビを見ているときも、視線はどことなく子猫に向けられる。両手で簡単に抱き抱えられる子猫は生後二ヶ月。テレビでよく見る生まれたての子猫が、ふらふらと歩いて転んだりぶつかったりしているところを見ては可愛いと声を漏らしていた母が今、子猫を抱いている。赤子をあやすように横に揺れ、口角は常に上を向いていた。


 機嫌の良さと共に母性を感じられる母に、遥加は胸の奥がむずむずとこそばゆかった。初めて見る母は、自らの腹からその子を産んだように、目を離さない。ご飯を作っているときも、眠るときも、少し目を離した隙に命の危険にさらされることがないかと、視線を子猫に向けるのだ。その瞳が、遥加にも晴也にも向けられたことのない、愛しさをまとった温かさを持っていたから、より遥加はリビングに向かう足が重たくなった。


 用意されただけの自室は、教科書や本を取りに行く以外使うことはなかったのに、突然部屋にこもるようになった遥加に、母はなにも言わなかった。それだけが心地よかったという事実に、部屋で一人にいる孤独が強調される。


「遥加、はいどうぞ」

 リビングのソファに座っていた遥加の膝に、子猫を乗せた。乗せられたのが分からないほど、軽い。気付かずに立ってしまった時、どうなってしまうのだろう。子猫ではなく、母が。

 そう思ってしまったことを子猫に少しだけ申し訳なく思いながら、小さな体に指を沿わせた。柔らかい毛並みが指にまとわりつく。体に浮き出る骨をぼこぼこと辿るが、子猫はいやがる素振りひとつ見せなかった。ごろごろと小さな雷のような音が聞こえ、窓に視線を向けたが疑いのないほど快晴だ。


「そこ撫でられるの、好きなんだよねぇ」

 母の言葉を聞いて、子猫が喉をならしたのだと気づいた。初めて聞く音は、小さい体からなっているとは思えないほど低かったから、出所が分からなかった。私は背骨を撫でるのをやめて、頭に手を伸ばした。


 学校のみんながこぞって遊ぶカードゲーム。テレビ放送もあって人気のあるそのゲームを遥加がしなかったのは、みんなと同じことをするのを嫌う年頃特有の痛みがあったからだ。素直になれず集団に入り込めない、はみごに似た孤独は、痛みと表すのが最適だった。

 だから遥加は、子猫が好む背骨を撫でるのを止めてしまった。言葉の通じない子猫が背骨を撫でられるのが好きだと分かった母と、同じことをしたくなかったから。それが果たしてカードゲームで遊ぶ気になれないことと同じであるわけがないことには気づいていたけれど、そういうことにしておくのが一番分かりやすくて単純だった。


「名前何にしようかなって考えてるんだけど、なにか良いのある?」

「うーん」

 そう唸ると、子猫はその声に反応したのか顔を上げる。ビイドロの瞳が自ら光を放つことは無いが、全てを反射し滑らせてしまうようななめらかさに、触れたくなる衝動がある。猫にタマと名付けるのはそういうところからなのだろうか。

「もふもふだから、もふ、とか」

「もふかぁ」

 もふ、もふ、と何度も口にする。静かに考える母の方は見れなかったから、子猫を撫で続けた。呑気にごろごろと喉をならしている。


「ちょっとありきたりだなぁ」

 柔らかい口調で放たれた言葉は、遥加の手を少しだけ止めた。動揺を隠そうと子猫を撫でようとしたが、伸びてきた母の手に奪われてしまった。どうしようかなぁ、と浮き足で背中を向ける母を、力ない目で見つめる。どこからか聞こえた子猫の鳴き声が、助けを求める声であれば良いのにと願った。


 それから母の鼻歌や上ずった声を聞くことが増えたが、何日と続くことはなかった。猫を購入したペットショップから一本の電話が入った。先日はありがとうございました、と言った母の声が、どんどんと曇っていくのが分かった。電話の内容は、別のお客さんとすでに契約していた猫を売ってしまった、というものだった。自分が先に契約していたのだから連れ戻してほしい、と相手に怒鳴られ、こちらに連絡をしてきたようだ。店員は申し訳なさそうに「すみません」と繰り返し、ペットショップでも深々を頭を下げられた。猫用のゲージやエサ代も返金され、子猫のいた場所には何もなくなってしまった。まるで初めから何もいなかったかのように、全てのものに対して返金された。手元に残った現金は、苦しい現実を可視化するだけの道具だ。他の子猫を値引きすると持ちかけられたが、母は首を横に振った。


「私はあの子がいいので」

 店にいるどの子猫にも目を向けず、少し小さくなった背中で店を後にした。


 子猫がいなくなってから、初めて訪れた夜。替え損なった冬用の淡い茶色のベッドシーツに寝転がり、毛並みに沿って撫でる。同じ色をしているのに、それがごろごろと鳴くことはない。


 子猫がいなくなった後の母は明らかに口数が減ったが、日にち薬が効いたのか、一ヶ月もすれば母は以前の様子に戻っていた。子猫がいなかった頃と変わらない。暗黙の了解のように猫の話題は出てこないが、遥加はベッドで眠る度に、子猫のことを思い出していた。一度だけもふと呼ばれた子猫は今、なんと呼ばれているのだろう。


 たった数日のことを遥加は時たま思い出し、代わりを求めなかった母の行動に何度も一喜一憂する。それは果たして、遥加に対しても同じなのだろうか。もし遥加がこの家から永久に離れることになった時、──その想像に付いてくるのはいつだって、血のつながった父親ではなく靄のかかった母の顔であり、遥加が子猫の立場になった時と同じ言葉を掛けるのかと繰り返し想像した。


 ──私はあの子がいいので。


 そう言って、母は手放してしまうのだろうか。子猫を意地でも我が子に、そう必死になる言葉を想像する度に、手放してしまう選択の冷たさを実感していた。


 ランドセルに残る銀色の線だけが母が遥加を想っていた証になってしまうのは、小さくなった服を処分するために袋に詰める時のような、言い知れない空しさと同じで、いずれ必要ではなくなるのだ。だからこそ遥加は悲しかった。

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ビイドロの猫 薮 透子 @shosetu-kakuko

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