初めて同人誌を手に取って頂けて

紫鳥コウ

初めて同人誌を手に取って頂けて

 十時から出店者の入場がはじまり、その一時間後からイベントが開始される。言うまでもないだろうが、午前の十時である。会場はOという場所にある。そこへ行くには、長いこと新幹線に乗らなければならない。遅れないためには、前乗りをした方がいい。それなのにわたしは、イベント当日に下宿先にいた。


 始発の地下鉄に乗れば、なんらかのトラブルで計算がおかしくならないかぎり、出店者が入場する時間までにはOへ着くはずだ。午前三時に目覚ましをかけた。


 しかし一睡もできなかった。新幹線の座席で眠っていればいいだろう。そう割り切って読書をしようとしたのだが、値段を記したポップを作っていないことに気付いた。徹夜をしたことが僥倖ぎょうこうだったといえばおかしな話だが、ひとつ大きなミスを潰すことができたのは確かだ。


 初めてのサークル参加ということもあり、勝手がよく分からない。事前に送られてきた注意書きには目を通したはずだが、ポップだけは忘れていた。案の定、この項目だけチェックをいれていなかった。もし九時半にOに着いたときに、このミスを知ったとしたら、どれくらい狼狽ろうばいしたことだろう。


     *     *     *


 机に敷布をかけて、設営の準備をはじめた。周りを見回すと、豪華なブースを作っている。お洒落な装飾をしているし、無配のペーパーまで準備してある。わたしはといえば、お品書きを立てかけて、トレイを置いて、同人誌を積んだだけだ。この時点で、居心地の悪さを感じてしまった。


 昨日までは、バイトをしていた時間だ。大学の総務課が募集をかけた短期のバイトで、定期券の販売の手伝いなのだが、想像以上にハードだった。残暑厳しい季節に、蒸し暑い会場で列整理をしたり、書類を確認し判をしたり……しかもそれを何千人という学生に対して行なうのである。


 海外からの留学生も多いにもかかわらず、英語で応対ができるのはわたししかおらず(しかもわたしにしたって、ペラペラなわけではない)、自分だけよりいっそう働かされたと言っても過言ではない。それなのに、薄給だった。毎日のようにシフトを入れなければ、まとまったお金にはならない。


 学外でバイトをするには時間が少ない大学院生にとって、キャンパスのなかで行なわれる短期のバイトは、目が眩むほどの「」だった。しかし実際にやってみると、家に帰ればすぐに眠ってしまうほどの疲労をともなう業務内容で、結局、研究に使うことのできる時間は減ってしまった。


 なにより、マニュアル通りに書類を確認し判を捺す機械的な業務は、苦痛でもあった。なかには、金額が不足していることを指摘しても、これが正規な価格だと言い張ったり、ほとんどといっていいほど、記入事項を空欄にしていたりする学生もいる。しかしそのイレギュラーこそが、機械的な作業から脱する息抜きにもなっていた。


 というわけで、金銭面はもちろん、時間的にも前乗りをすることはできず、それに加えて、体力的なキツさを抱えたまま徹夜をしたという、三重苦ともいえる状態で挑んだ、初の同人誌即売会だったのだが、わたしが飛びこんだのは、なにも予測のつかない、次になにが起こるかがまったく分からない、期待と不安が混ぜ合わさった空間だった。


 わたしの隣のブースの人、目の前を通り過ぎる人、入口からあちこちへ散らばっていく人々……いままでの人生でお目にかかったこともなければ、もしかしたら一生会うことができなかったかもしれない、そんな人たちと同じ空間にいる。なにより、「本が好き」という同じ気持ちを共有している。


 たくさんの個性と、それをまとめあげる「好き」という気持ち。多様と画一の共存……大学ではなかなか味わえない場所に身を置いている気がしていた。


 知名度のないわたしの同人誌は、なかなか手に取っていただけなかった。それは覚悟をしていたことだった。一冊も売れない。それは有り得ることだ。ここに来たのは、いままでしてこなかったことに、挑戦するためだ。同人活動をするきっかけを与えてくださった、ある方と一緒にお仕事をするための第一歩としてだ。


 しかし、そうしたは見事に裏切られた。はじめて売れたのは、一冊だけではない。持ち込んだ三種類の同人誌すべてを、一気に手に取っていただけたのだ。その後も、在庫はどんどん減っていった。


 夕方五時。閉会のアナウンスとともに鳴り響く大拍手のなかの、一粒くらいの音を分け与えてもらうこともできた。

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