夢の行き着くところ

色街アゲハ

夢の行き着くところ

 夕暮れ時の、昼間とは違って大分弱まった陽射しは、直接肌を焼く様な強さは無く、代りに柔らかい光と共に沁み込んで来る暖かさで、それは内に眠る感情を揺り動かすかの様だった。


 遠く過ぎ去った記憶が呼び起こされ、少しの間、時を越えた物思いに耽る。


 その陽が沈むまでの僅かな時間に、夢と現の溶け合った、もしかしたらそれすら超えた、想像も及ばない遠い所からの声を、知らない内に耳にしているのかも知れない。


 見上げると、朱交じりの薄青の空の中、疲れ切ったかの様に所々罅割れ染みの目立つ古びた建物が空に伸びて。


 全ては空に消えて行き、微かな記憶だけが、時折吹き寄せる風の歌の中に、その名残を留めるだけに成り果ててしまうのかと。

 

 そんな考えに捉われて。そして、人の身には許されない永い時の中では、それは本当の事で。


 陽の光が建物の窓硝子に照り付けると、様々な角度に跳ね返り複雑に絡み合い、さながら建物同士を光の通路が結び付けている様に見え、それと共に何時しか周りは遠い未来の建築群の様な様相を見せ始めていた。


 登ったり降りたりと思い思いの方向に延びた、幾多の色取り取りの光の通路の上に、忙しなく見知らぬ何かが行ったり来たりしている。


 その様を眺めている内に気付いてしまう。最早人の世は疾うに終わりを迎えており、今やこの場所は、より一層赤味を増して来た空を背景に、既に元の形を留めない程に変容してしまった、複雑に入り組んだ空中の楼閣を、我が物顔で練り歩く見知らぬ者達の世界なのだ、と。


 そして、突然幻想は消える。まるで、その世界が空に呑み込まれて行ってしまったかの様に。


 後に残るのは、元よりそこに在った草臥れた路地裏の風景。


 けれども、吹き付ける刻の風の前に、それ等は剥がれ毀れて崩れて落ちて、跡形も無く。


 その結末を知る身には、既にその光景は、空と地との境い目まで、何ら遮る物の無い瓦礫の中に一人佇む己の姿と共に何処までも広がって。


 遠ざかって行く空の向こうに諸共に、消えて行く定めと悟る行く末に、落とした視線の足元の、薄く伸びる影の中から、微かに届く遠い日の子守歌が。


 連れて行って、と伸ばした先の、空の中からゆっくりと音も無く、螺旋を描きながら降りて来る、七色に煌めく小さな光の集まりが。


 全てが朱色に染まる中、それだけが嫌にはっきりと浮き上がり、どの道これも数ある内の夢の一つ。早い所消えてしまえと思いつつ、じっとそれを眺めていたのだが、その儚げな様子に反し、何時まで経ってもそれは消える事無く。


 やがてそれ等はこの身を包む。その中で、何時しか幼い頃に立ち返り、何時か何処で落としてしまった遠い昔の忘れ物。それがほんの目の前に。ちょっと散歩に行くかの様な気軽さで、それに向かって手を伸ばす。


 始まりも唐突なら、終わりもまた唐突だった。刹那、降って湧いた夜の雪崩に搔き消され、冷たい夜空の霜の中にそれ等を見出す事は出来ない。


 永遠に遠ざかり、二度と戻る事のない夕べの世界と共に、去って行ってしまった。


 あれはきっと、刹那の刻の中でしかその存在を許されない、夢の結晶と言うべきもので、本来夢の中で僅かに仄めかされる、と云った事でしか窺え得ない物なのだろう。


 昼の間、強い陽射しで覆い隠された空の向こう側、何処までも果ての覗えない真空の宙が、夜に於いては一切の誤魔化しも無く立ち現れる。

 

 空に広がる無数の星々の、それら全てが太陽を遥かに凌ぐ巨大さで、人の世の如何に取るに足らない卑小な物かを、思い知らせんとばかりに天球を覆い尽し、文字通りの現実となって圧し掛かる。それは一切の慈悲も無い、冷たい現実。


 そんな夜の冷たい帳から逃れようと、消えた夢の断片は地平の果てに向かってはしり、今この時も現実の世界から遠ざかり続けている。


 その過程で、飛ぶ様な勢いで過ぎて行く、街の建物、木々。それが尽きると、見渡す限りの草原が現われ、やがてそれも消え、荒涼とした地面が現われ、遂にはそれすら無くなり、虚無の海だけが夕陽を照り返し、空の色を写し、合わせ鏡の様に空と海とが合わさる空間だけが延々続いて行く。


 もしかしたら、海すら消えて、空だけが。上下の無くなった虚空を、夢の残渣はただただひたすら夜の帳から逃れるために、ますます現実の世界から遠ざかって行く。


 永遠に我々の世界から遠ざかり続ける夢の世界。


 神秘と共に在った有史以前の時代を終えた時より、夢は世界から遠ざかり続ける運命にあった。今や人が夢と共に在るには、己自身の中にそれを見出す事でしか術は無い。その困難さをわざわざこの場で語る必要があるだろうか? あまりに頼りなく、それが確かな形を取る前に、夜に、昼にと追い立てられ、忽ちの内に遠ざかって行く。


 そんな中、人が真に夢に触れるには、奇跡とも言うべき機会でもない限り有り得ない事なのだろうが、唯一、僅かに夢と現とが矛盾なく交わる時である夕暮れの刻にそれは果たされる。


 逢魔が刻。そんな言葉が生まれるには、それなりの理由が有る、と改めて思い知らされる事なのだった。


                          終


                         




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