推しが墜ちた日
乙川れい
推しが墜ちた日
少しだけ昔の話をしよう。
ある日、推しが死んだ。
推しは、当時の私が唯一視聴していたTVアニメのサブキャラクターだった。
「なんだアニメの話か」なんて思わないでほしい。
推しの存在は、人生で最もハードな生活を送っていた頃の私にとって唯一の癒やしだったのだ。多忙で心の余裕がなかったせいで余計に沼ってしまったのもあるかもしれない。
当時、私はフリーペーパーの編集部で働きながらライトノベルを書いて暮らしていた。
薄給ではあったが、紙面を作る仕事はクリエイティブでとても面白かった。毎日ではなかったものの、先輩たちがちょっと手のあいたときにPhotoshop やIllustratorのテクニックを教えてくれるので、自分でもスキルが上達していくのが実感できて、毎日が充実していた。
大好きな職場だったが、欠点はもちろんあった。支店長がパワハラ野郎だったり、最年長の営業社員がスカートを穿いていない女性に対して暴言を吐きがちだったり(それにイチ早く気づいた私は自衛のためパンツ派からスカート派に切り換えた)、繁忙期は朝方まで帰れなかったり……まあ、このくらいはどこの職場にでもある話だろう。
幸い私は契約社員だったので、正社員よりはずっと時間に余裕があった。なので帰宅後に睡眠時間を削ったり休日を潰したりしながら、せっせとライトノベルを執筆していた。
そんなときに、事件は起きた。
推しがどんなキャラクターだったかは、特定を避けるために省かせてもらう。
「だったか」などと過去形で書いているだけでいまでも胸が苦しくなるくらい、トラウマになっているのも大きい。ちょっと語るだけで心の古傷のかさぶたがぺりっと剥がれてしまう。推しはそんな存在なのだ。×年経っているのにまだかさぶたなのは、何度も剥がれたせいで完治しないからだ。
一応断っておくが、私は夢女子ではない。推しの住む世界の床に転生して日常を静かに見守りたい、あわよくば推しの靴底の風圧で吹き飛ぶ糸クズになりたい系貴婦人である。
推しの死には、前兆があった。
数話かけて着実に、サブキャラとは思えないくらい丁寧に死亡フラグが積み上げられていたからだ。一級フラグ建築士資格に満点で合格できるレベルの見事な積みっぷりだった。採点者も笑顔で花丸をつけてくれるだろう。これで死なない方がおかしいくらいだった。
それでも、私は「生き残ってくれ」と切に願っていた。
推しが魅力的であるのはもちろんのこと、推しの人生があまりにも残酷で幸せを祈らずにはいられなかったからだ。
逆にここまでフラグを積んでいたら死なないのでは?という逆張りに一縷の望みを託していた。
その望みは、あっけなく砕け散った。
飛び散ったと言ってもいい。推しの死に様にかけて。
……推しはグチャグチャになって死んだ。
直接推しの死体が描写されたわけではなかったが、あの大量に飛び散った赤い液体を見るかぎりでは致死量の出血だった。
愛飲しているデルモンテのトマトジュース食塩無添加に換算すると軽く5本ぶんはあっただろう。本体がどうなったかは推して知るべしだ。推しだけに。
TV放映をリアタイできず、それどころか次の週の放映も終わってからやっと録画を再生した私は、推しの死に様を見せつけられて愕然とした。
再生が終了してもリモコンを握ったまま微動だにできず、茫然と録画番組一覧の味気ない画面を眺めつづけることしかできなかった。放心状態だった。
だが、私は往生際が悪かった。
推しがトマトジュースに覆い隠されたところでその回は終了していたからだ。
まだあわてるような時間じゃない。こんな描かれ方をしたが、もしかしたら推しは生きているかもしれないじゃないか。どうみても肉体が飛び散ったとしか思えない量のトマトジュースが描かれていたが、奇跡的に生きている可能性も小さじ1/2くらいは残っているはずだ。
だってこの作品、結構ファンタジーだし。
贅沢は言わない。猫も騙せないようなチープなご都合主義でも歓迎しよう。推しが生きているなら理由なんてどうでもいい。「実は肉体の半分を機械化していたんだよ」「なんだってー」みたいな後付け設定来てくれ頼む、本当に頼む……
そう思いながら、私は録画番組一覧から次の回を選択して再生した。
希望なんてなかった。
いや、わかっていたよ。
だって推しの存在、主人公が活躍するためにはどう見ても邪魔なんだもん。私が脚本家でも殺すわ。
こんなにわかりやすい死亡フラグを立てていたキャラに、どうしてハマっちゃったかなあ。
それにしたって、ここまで救いのない結末をご用意されるなんてあんまりじゃないか。スタッフは推しに村を滅ぼされたんか?
推しの死以上に、推しの送ってきた人生がツラすぎて耐えられない……
そして、私は壊れた。
ショックの余り、食いしん坊で大食いな私が食欲不振に陥り、食事が喉を通らなくなったのだ。人生初の経験である。おかげで体重が半月で5kg減った。
さらに、一時的にではあるがガチの不眠症になってしまった。
夜、仕事で疲れきった状態で帰宅したのにベッドで横になってもまったく寝付けず、推しの死についてばかり考えてしまう。目を閉じたはずなのに気がつけば目を開けてぼうっと虚空を眺めながら涙を流している。二日目からは幻覚も見えはじめていた。朝が近づいて薄明るくなってきた室内に、白くて長くて関節のない人間の腕がうねうねと動いているのが見えていたのだ。あきらかに限界だった。
ここで少し私の話に戻る。
推しが死んだ当時、私は商業ライトノベルを執筆中だった。
フルタイムで働きながら現在の名義で女性向けライトノベルと、別名義で男性向けライトノベルを交互に執筆するという(どちらも文庫書き下ろし)遅筆人間にはわりと無茶な生活を送っていた。
どのくらい無茶かというと、毎日の睡眠時間が三、四時間くらいしかなく、私が兼業作家であることを知っていた上司に「乙川さん大丈夫? 最近顔が死んでるけど……」と心配され、繁忙期なのに特例で深夜残業を免除されたくらいだ。当時の上司にはとても感謝している。既婚者じゃなければ惚れていたかもしれない。
そんなわけで、推しが死んだときは原稿の締め切りまで1カ月を切っていた。
当然だが、推しの死に食欲不振&不眠症になるほどのショックを受けている状態で執筆が進むわけがない。
寝ても覚めても、というか眠れなかったのだが、推しの死に様や、悲しむ仲間たちの様子が何度もフラッシュバックする。そのたびに涙がこぼれ落ちてしまう。アニメでは推しの仲間たちが立ち上がって前へ進んでいくさまが描かれたが、私はまだ立ち上がれずにいた。推しが命を落とした現場の砂に埋もれたままだった。
こんな精神状態でコミカルな恋愛ファンタジーなんて書けるわけがない……
刻一刻と締め切りが迫る中、私がとった行動は単純だ。
ネットで推しの名前を検索したのだ。
「そんな当たり前のことを」と思われるかもしれないが、それまではネタバレを避けるために一切検索をしてこなかったのだ。当時住んでいた地域ではTV放映が数日遅れていたからでもある。ネタバレを被弾しないよう、作品に関するあらゆる情報をシャットアウトし、純粋に作品を楽しみたかったのだ。
だが、推しは死んだ。
だったら、ネタバレなんてもうどうでもよくないか?
どんなネタバレだって推しの死ほどの衝撃を受けることはないだろう。
そうしてTwitter(現X)やまとめサイト等を見て私は知った。
私と同様、推しの死にぶっ壊れてしまった人がたくさんいることを!
私は一人ではなかった。
「いい歳して、アニメキャラの死にここまで苦しんでいる私はおかしいんじゃないか?」とひそかに悩んでいたが、まったくおかしくはなかった。むしろ作品のファンとして正常な反応だったのだ。私のように体重を減らした人なんて大勢いたし、脱毛症になった人までいた。私よりひどいじゃん……
一人ではなかったことに歓喜したが、かといって心に負った致命傷が癒やされるわけではない。
まとめサイトの反応を見ては「ワカル……」と共感し、Yahoo!のリアルタイム検索で出てきたTwitterの反応(当時はtwitterアカウントを持っていなかった)にうんうんとうなずいていたところで、このどうしようもない気持ちは解消されなかった。
共感だけじゃ足りない。何かこう、もっとポジティブになれるものや新しいネタがほしい……!
そこで私はpixivの存在を思い出した。
そういえば、お気に入りの作品をブックマークするためにアカウントを作ってあったのだった。
プロデビューしてからずっと二次創作を避けていた私が、生命維持と仕事の存続のためにやむなく元の世界へ戻ったのである。
pixivで推しの名前を検索したら……あるじゃないか、推しがメインの作品たちが!
作家が二次創作を肯定するな? 著作権侵害だ?
そういう意見があることは承知している。
捏造するな? キャラの尊厳を破壊している?
実際に悪質な作品も目にしたことがあるから、気持ちは理解できるつもりだ。
しかし、推しの幸せが目に見えるかたちで存在している、それだけで救われる命があるんだよ、ここに……!
私は仕事の休憩時間や寝る前のちょっとした時間を使って、推しの名前でヒットした作品、漫画や小説など数百作を全部読んだ。全部だ。ちょっと解釈が違うものや現代パロディなどもあますことなく読み切った。いくつか推しの死んだ世界線(というか原作ルート)の話もあったせいで心の傷に追撃を受けてしまったが、おおむね幸せな話ばかりだった。
ああ、推しが生きている世界がある……なんて素晴らしいんだろう!
原作はアニメだ。だからpixivに載っている作品、小説や漫画などはもちろんすべてまがい物だ。そんなことはわかりきっている。
それでも私の心は癒やされ、満たされた。
幸せなまがい物のおかげで少しだけ心が軽くなった私は、相変わらず寝付きは悪いながらも眠れるようになった。そして、自作品の執筆へ戻っていったのである。
締め切りまであまり時間が残っていなかったのもあって元々下手な文章がさらに荒くなってしまったが、プロット作成時に予定していた以上のものが書けたと思う。
当時の担当さんも「離ればなれになった二人がせつなく描かれていてよかったですよ。乙川さん、こういうの書けるようになったんですね」と褒めてくれたし。
すべて推しのおかげです。ありがとう、推し。
Pixivに推しの作品を投稿してくれたすべての方々にもお礼を言いたい。ここカクヨムだけど。本当にありがとう、あなたたちのおかげで私はいま生きている。
でも本音を言えば、私の生命も仕事もどうなったっていいから生きてほしかったよ……
推しが墜ちた日 乙川れい @otsukare_kakuyo
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