007-02. 花笑みは綺羅星の如く

 

 湿気を帯びた風が僅かに流れる、夕暮れの屋上。


「……はい、飲み物。多少は気が休まるだろ」


 衣織はそう言いながら、冷えたスポーツドリンクのペットボトルを柘榴に差し出した。

 ここに到着するまでの道すがら、館内の自販機で購入したものだ。


「……ありがとうございます」


 柘榴は遠慮がちな手つきでボトルを受け取ると、蓋を開けて中身をちびちびと飲み始める。

 そうして時間をかけて何口か飲み下したあと、僅かに目を細めてほうっと息を吐いた。


「顔色、ちょっとは戻ったみたいだな」


 衣織は僅かに安堵し、無意識に微笑みを浮かべる。

 椅子から立ってここまで歩いたのが良かったのか、あるいは外気に触れたことが良かったのか。

 柘榴の顔は血の気の引いた真っ青から、ほんのちょっとだけ赤みを取り戻したようだった。


「……すみません、気を遣わせてしまって」

「いや、構わないよ」


 そう返して、衣織は自分用に買ったコーヒーを呷る。

 ミルクの入っていないコーヒーに含まれる砂糖のほのかな甘さが、舌の上でじわりと広がった。


「…………楽屋入りするまでは、大丈夫って思ってたんです」

「……うん」

「けど……楽屋に入った瞬間……他の人たちが一気にこっちを見て……そうしたら、急に……怖くなって……」


 言葉を紡ぐうちに、柘榴の声が段々と震えていく。

 再び顔を白くしていくそのさまは、向けられた奇異の目が彼にとってどれだけの恐怖であったかを物語っていた。


「……情けないですよね。これから、もっと沢山のお客さんの前に出るのに……」


 握り締められたペットボトルが、ぺき、と小さな悲鳴を上げる。

 俯いた横顔は、今にもぐしゃりと歪んで泣き出しそうな危うさを孕んでいて――


「……情けなくない」


 ――気付けば、衣織の口から言葉が零れていた。


「誰だって最初は緊張するもんだろ。俺だってしたし……」

「……橄欖坂さんも、ですか?」

「……なんだよ。俺だって緊張くらいするよ」


 事実、衣織は自身の初ステージを黒歴史として認識している。

 クオリアのバックダンサーとして後列で出演したものの、極度の緊張により振付が飛び、前列の先輩研修生の真似をしながら乗り切ったのだった。


「……あの、」

「ん?」

「やっぱり、こういうのって……慣れる以外にないんでしょうか?」


 柘榴が顔を上げて問う。

 子犬のような瞳は不安に揺れながらも、どこまでも透き通った色でじっと衣織を見つめた。


「……まあ、一番は慣れだろうな」


 嘘である。

 衣織は今に至るまで、本番前はもれなく緊張状態にあったのだから。


「そう、ですか……」


 そんな事実は露知らず、柘榴は答えを真に受けてしゅんと萎んでしまった。

 ……変なプライドから先輩風を吹かせたことに、若干の罪悪感が芽生える。


「…………ああ、もう」


 衣織は軽く溜息を吐きながら、コーヒー缶を地面に置く。

 そして、ちくちくと良心を突き刺す棘を振り払うように、柘榴に向けて左の手のひらを差し出した。


「えっ……?」

「手、貸して」

「……え、っと……あの……手、ですか……」


 突然の誘いに、柘榴が目に見えて動揺する。

 真意の読めない提案をされたというのもあるだろうが……どうやら、先日のことを思い出し、尻込みしているようだった。


「いいから、ほら」

「あっ」


 業を煮やして、衣織は柘榴の右手をばっと掴む。

 ……体が大きいだけあって、手のひらも衣織のそれより少し大きい。


「指開いて」

「……はい」


 捕まえてしまえば、柘榴は大人しく手を広げた。


「……別に、慣れなくたって緊張をほぐす方法はあるだろ。こういうのとか」


 開いた手のひらを上に向けるよう優しく手首を回させ、左手で支える。

 そして、右手の人差し指を柘榴の手のひらにそっと乗せると、指先で肌をなぞるようにして線を描いていく。


「……っふひ」

「ん?」

「く、くすぐったい……」

「……我慢してくれ」


 唇をもにゅもにゅさせながら、柘榴が声を漏らす。

 どうやら、くすぐりへの耐性がないらしい。


「……昔、爺ちゃんがよくやってくれたんだよ。人っていう字を三回書いて飲み込む、ってやつ」

「ああ……」

「古典的なおまじないではあるけど、俺は結構効きがよくてさ。運動会の日とか、試験の日とか……朝、家を出る前に爺ちゃんがやってくれて。それで、直前にまた緊張し始めたら、それを思い出しながら今度は自分で同じようにするんだ」


 祖父が書いた文字をなぞる形で、ゆっくりと逆さに三回。

 それが、衣織のルーティンだった。


「……そうすれば、ほら。『俺を応援してくれてる人が居るんだ』って、少し元気が湧いてくるだろ?」

「………………」

「ほら、三回書いたから。飲んで」


 そう言って手を離せば、柘榴は素直に手を口元へ持っていき、こくんと空気を飲み込む。

 手を降ろす頃には、その頬の色はいつも通りの柔らかな薔薇色に戻っていた。


「……言ってたろ。『聴いてほしい人が居る』って」


 まだ湿っていなかった夜の空気の中で見た、優しい表情を思い出す。

 自分も誰かからこんな風に想われてみたいと感じさせるくらいの――陽だまりのように温かな微笑み。


「その人も、きっと……鈴鹿くんのこと、応援してくれているはずだから」


 相手のことは知らないが……彼が、あんなにも深い愛情に満ちた顔をしていたのだ。

 歌声は、きっと届く。届いてほしい。


「だから、大丈夫だよ」

「っ……!」


 自然と溢れた笑みを向ければ、柘榴が目を見開く。

 先程までその瞳に宿っていた怯えた色は抜け、代わりに宵の星空を閉じ込めたような、きらきらと瞬くものが見えた気がした。


「……っ、あの、」

「ん……?」

「その、えっと……俺、実は――」


 柘榴が何かを言いかけた矢先、滑らかな音階が屋上に響き渡る。

 衣織がポケットに入れていたスマートフォンが、本番二十分前を知らせる音だった。


「ああ、そろそろ戻らないと、十五分前に間に合わなく――」


 そう言って踵を返す衣織の裾が、くいっと引っ張られる。

 振り返れば、他でもない柘榴の指が衣織のシャツを摘まんでいた。


「鈴鹿くん……?」


 柘榴がもにょもにょと唇を噛む様子に、衣織は首を傾げる。

 しかし、そうしていたのも束の間。

 柘榴は数度深呼吸をすると、しっかりとした眼差しで衣織を見据えた。


「……俺、頑張ります。伝えたいこと全部、歌に乗せます。だから――」


 そこまで告げて瞼を閉じ、もう一度深呼吸。

 そして、星空のような瞳が再び現れた時、柘榴はあの時と同じ表情を湛えていた。


「――最後まで、聴いてくださいね」


 慈しむような、焦がれるような色を孕んで、美しい顔がふわりと綻ぶ。

 まるで蕾が花開くようなその光景に、衣織はただただ息を吞んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年1月10日 20:00
2025年1月24日 20:00
2025年2月7日 20:00

ToP! ハコナシムト @8574_mt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ